第五話:兄と弟
「お話されなくて宜しかったのですか?」
「あそこで闖入するのは野暮というものだろう、佳那汰?」
「…そういうもの、ですか」
佳那汰、と呼ばれた黒髪の青年が微かに苦笑する。彼に対する女性が不敵に笑う。
「しかし、どうだった?久しぶりに元恋人の妹に会って」
「変わってませんでした。美緒さんに似ていることも、相変わらず」
女性がふん、と鼻で一笑に伏す。皮肉げに眉を上げ、言う。
「ふん。自分が殺した女の名前をよく口に出来るな」
佳那汰はにっこりと子供のような無邪気な笑みを浮かべた。
「普通でしょう?」
「違いないな」
女性はあっさりと肯定する。
「生と死など僕たちにとってはどちらも同じこと」
歌うように口ずさみ、佳那汰は目を閉じる。
「素晴らしい銀世界に散らばる、あの深紅。今でも僕は覚えてる…」
「ふうん」
「遊子様にもお見せしたかったです」
女性ー芦原遊子が佳那汰の言葉に満足気に頷こうとしたとき、
「にっ、兄さんっ」
少しトーンの高い声が上がった。途端、穏やかだった佳那汰青年の表情が苛立ちに塗り変わる。冷たく他者を寄せ付けないような目で、闖入者を見遣る。
「何の用だー玲治」
闖入者の名前は碧石玲治。佳那汰の実弟。まだ幼さを残す顔立ちをした詰襟姿の少年は、兄ではなく芦原遊子を見ていた。遊子が妖艶な笑みを返すと、玲治は慌てて視線を反らした。そんな弟に、佳那汰がつかつかと歩み寄る。兄を探していたのだろうに、兄が歩み寄ると弟はその瞳に恐怖を宿した。
「に、兄さん、」
何かを言おうとするのに、少年の口は酷く震えていた。兄から発される酷薄な気配に体がすくむ。グイッと胸倉を掴まれる。
「遊子様といるときは邪魔するなと言っていたよな?僕は」
「兄さん、苦し…」
「どうしてお前はいつもそうなんだ。どうして言うことを聞けない。僕を困らせてそんなに楽しいか」
不穏な空気に周囲がざわつく。煽る者、知らん顔で通り過ぎる者、不安げな者。反応は様々だ。
「じゃ、邪魔なんて…俺はそんなつもり、なくて、ただ、その人と会うのを止めて欲しいだけで」
「貴様に指図される覚えはない!」
佳那汰は苛立った声を上げ、玲治を突き飛ばした。
「いっ、」
尻餅をついて呻く玲治を、佳那汰は汚らわしいものを見るような目で見下ろす。
「兄さっ、あぅっ…!」
まだ言いつのろうとする玲治の右手を、佳那汰は何の躊躇もなく踏みにじった。
「やめっ、痛いっ…」
「痛いのが嫌なら黙れ。そして僕の前から消えろ」
「落ち着きな、佳那汰」
遊子の愉しげな声に、苦痛を訴えていた玲治はビクッと身を震わせた。佳那汰も夢から醒めたかのように目をぱちくりとさせ、玲治の手を踏みつけていた足を退ける。玲治の右手の甲は、赤く腫れていた。
「遊子様」
「落ち着きなよ、佳那汰。ものは使いようだろう?ん?」
邪な笑みに縁取られた遊子の白い顔に、玲治は息すら満足にできなくなる。
「邪魔なら利用すれば良い。ただそれだけではないか?」
遊子がスーツの内ポケットから、白く丸い錠剤が詰まった薬瓶を取り出すと、玲治が完全に怯えきってガタガタと震え始める。遊子が持つ錠剤がなんなのか骨身に染みて知っている、といった風に。
「こんなヤツ、‘これ’で一ころだよ」
グイッと遊子が玲治の顎を掴み上げ、口の中に一粒放り込む。絶対に噛まない、という意志がにじみ出ていたが、呆気なく遊子の手で噛み潰してしまった。途端に体から力が抜け、玲治はへたりこむ。目が霞む、うまく呼吸出来ない。
「兄さ…、助けて、」
弟が伸ばしてきた救いを求める手を、兄は取らなかった。
「にぃ、」
ガクン、と玲治の顔が沈んむ。彼が完全に意識を手放したことに、佳那汰は至極満足そうに微笑んだ。