第三十八話:涙と憎しみ
午後十時半。消灯時間は疾うに迎えていたが、日向は眠れずにいた。普段と比して寝る時間が早すぎるというのも勿論あるのだが、どうしても影のことが気になって仕方ない。
「……」
意を決して、日向は同室の患者を起こさないように病室を出た。抜き足さしあしという泥棒のような歩調で隣の病室へ向かう。そこは個室らしいと奈緒から聞いていたので、他人を気にする必要はない。日向は病室に入り、静かにドアを閉めた。
「影、」
数時間ぶりに会った双子の弟は、身動ぎ一つせずベッドで上体を起こしていた。日向の存在にも気付いていないのか、見向きもしない。
「影?」
「……」
人形のように光のない眼が日向を見て、
「兄…さん?」
戦慄く唇がそう呟いた。「影、分かるか?」
「兄さん…」
影が日向に抱き着いて来る。激しく震える体が日向の心を震わせる。
「影、」
「こわ、怖かった…。怖かったっ…!!」
「もう大丈夫だから」
「兄さんにも嫌われたと思って、もうどうしていいか分からなくて」
「わ、悪かった。今日はおかしかったんだ。影が嫌いってわけじゃなくて、」
影相手にしどろもどろになるのは滅多にあることではないので、日向は何となく恥ずかしい。
「う、うぅ」
「あと、ごめんな。何もしてやれなくて。大事なときに何もしてやれなくて」
影が首を横に振る。声には出していないが、そんなことはないと言ってくれているのだろう。
「…山城に怒られたよ」
「山城さんに…?」
「俺が思ってることを影に言ってやれ、だって。山城に初めて怒鳴られた」
影が眼を白黒させる。
「俺、怖くなったんだよな」
「怖く…?」
日向はあぁ、と頷いて、
「俺がいなくなったら影は一人でやっていけるのかな、ってさ」
「に、兄さんいなくなるの?」
影が慌てて日向の手を掴む。
「僕を置いて行くの?」
「今すぐどうこうって訳じゃない。ただ人生は何が起こるか分からないだろ」
「で、でも」
日向は影を安心させるように彼の頭を撫でる。
「兄さん…」
「影を心配しすぎて、過保護になってたんだと思うんだ。だけどそれじゃ良くないって思って、そう思ったら突き放したほうが良いって、思い込んで…」
影は不安そうな眼差しで語る日向を見ている。
「……難しいかな」
「少し…。でも、兄さんに嫌われてないんだろう…ってことは何となく分かった…気がする」
それでも影は不安そうに顔を曇らせている。「…兄さん」
「何だ?」
「僕……女みたい?」
呟かれた言葉に、日向は身を硬くする。
「……え?」
「御鶴城先生の眼が…頭から離れないの、」
「影、」
「忘れようとすればするほど、見られてる気がするんだ…」
仕方ない、と言おうとして、日向は口をつぐむ。同性に無理矢理抱かれそうになったことなどない人間が軽々しく口には出来ないからだ。
「俺のこと、怖い?」
影は弱々しく首を横に振る。
「兄さんのことは平気。でも、他の男の人は怖い」
かたかたと華奢な体が小刻みに震えている。
「大丈夫。俺がいてやるから。安心して寝ていい」
影はうん、と頷く。横になるように促すと、素直に従う。
「おやすみ、影」
「おやすみ…なさい」
兄の手の温もりのおかげか、心労も溜まっていた影はすぐに寝息をたてはじめた。
(御鶴城の奴…)
影の手を握っていない左腕ー折れているほうの腕の拳を握りしめたい衝動にかられる。
(絶対に許さない…)
日向はまだ知らない。その憎むべき相手がもうこの世にいないことを。それをなしたのが双子の実弟だということを、知らない。