第十話:異変と依存
痛い、と思ったのはこれが初めてだった。日向ははぁ、と深い憂慮の溜息をついた。いつも楽しみにしている音楽番組がテレビから流れているが、音は全て彼の耳を素通りして部屋の中に溶けて消える。
(・・・・・俺はいつもそうだ。影を護ってやらなきゃって勝手に思い込んで、影の気持ちを全く考えようとしない。俺が、何もかも押し付けて)
それがいい加減嫌だったのだろう。だから影は日向の手を払った。最後は顔も見てくれなかった。
(風呂にでも入るかな、)
テレビを消して、湯気のこもる浴室のドアを開ける。するすると服を脱いでいき、そしていつものように“それ”に眼が行く。前身の右側の肋骨の辺りの皮膚に、もやもやとした不定形の薄墨色の痣らしきものがある。
(これは何なんだろう)
物心ついたときには既にあった、謎の痣。影にも同じような形の痣がある。場所は丁度臍の真横辺り。特に痛みがあるわけでもないので医者にかかったりはしていないが、あまり気味のいいものではない。日向は何気なく痣に触れてみる。やはり痛みはなく、シコリがあるような感覚もない。
(まあ、病気ってわけでもなさそうだから良いんだけど、)
そうやって自分を納得させて躰を洗うためにしゃがみ込んだ途端、
(っ!?)
いきなり息が詰まるほどの激痛が日向の全身を襲った。ギシッと躰全体を握りつぶされるような、奇妙な痛み。
「っ、何だっ・・・いきなり」
膝をついたまましばらく堪えていると、痛みは始まった時と同様に唐突に治まった。
「・・・・・っ、」
痛み以外は症状はないようで、日向は安堵の息をはいた。全身が汗に塗れている。
(影、)
急に嫌な予感がして、日向は急いで服を着なおして浴室を出た。何だ、この奇妙な感覚。影が危ないと誰かが囁いている気がする。
「影、・・・・・・っ!?」
影はいた。ただ、
「やぁ、良い夜だね・・・日向」
両眼が嘘のように赤かった。電気の点いていない暗い部屋の中、影の両眼だけが爛々と真っ赤に光っていた。そして彼は日向を名前で呼んだ。いつもは兄さんと呼んでいるのに。
「誰、誰だ・・・お前」
呆然と問うた日向に対し、影は余裕綽々の体で笑う。悪意のこもった影ならしそうにない不気味な笑み。
「誰だ?馬鹿じゃない。僕だよ、九連影だよ。お前の双子の弟じゃないか」
ベッドから降りると、ドア口で硬直して動けずにいる日向の前に立った。
「・・・・・俺の弟の目は赤くない」
「鈍間な亀みたいな反応だね、それ」
至極詰まらなそうに鼻で笑うと、いきなり影が日向の腹部を拳で殴った。衝撃に、思わず膝をつく日向。
「か、げ・・・?いきなり、どうし、」
「お前のせいだ」
「か、っ・・・!!」
今度は頬を殴られた。いじめっ子から影を護るために拳を振るうことがある日向だが、影は日向が知るかぎり他者に暴力を振るったことはないはずだ。その影が両眼を赤くさせて日向に手を出した。日向は混乱する。
「影、どうした・・・俺、何かしたか?」
「何かしたか?はははははははっ、寝言は寝て言えよ!!いいぜ、教えてやる!お前の存在が鎖になって影は本当の自分を出せてないんだよ、本当の自分すなわち俺様のことだけどな!!!」
はははははははははははっ!と狂ったように笑う影を、日向は呆然と見上げているしかできない。突如急変した影に、理性がついていけていない。本当の自分?今両眼を赤く光らせて高笑いしている人間が影の本当?頭がパニックに陥っている。真逆、あの“痣”のせいか?真逆。あの“痣”で人格が変わるなんて馬鹿みたいなことがあって堪るか。
(けど、試してみる価値はあるっ・・・・・・!!)
激痛を堪え、日向は影のシャツの前をバッと上げた。
「手前、なにすっ、」
「影、ごめんな!!」
何故か咄嗟に謝りながら、日向は臍の横にある不定形の痣をグッと指で押した。途端に影の華奢な躰がびくんっと大きく痙攣する。
「てめっ、」
「やっぱりこれが原因か」
日向の痣と違い、影のそれは何故か真っ赤に色づいていた。ありえないと思う。痣が色を変えるなんて聞いた事もないし、想像も出来ない。
「どういうことだ、」
くたっと影の躰が日向にしな垂れかかって来る。日向は慌てて彼を支える。
「影、大丈夫か、影!!」
「う、」
小さく呻いて、影が眼を開ける。赤かった眼がいつもの鈍色の黒に戻っている。
「兄さん、」
「影」
影はいきなりボロボロと大粒の涙を零しだし、日向は大いに慌てた。
「ど、どうした影っ。どっか痛いのか!?」
「ち、違う。さっきは、ごめんなさいっ」
ヒクッと咽を鳴らす影を、日向は呆然と見返す。
「兄さんは僕を心配してくれてただけなのに、酷いこと言った。酷いことした」
「お、俺は大丈夫だって。影!」
「ずっと泣いてた、僕は酷い人間だって。兄さんに言ったこと後悔してた」
「影、」
「そしたら急にお腹のあたりが痛くなって、思わず兄さんを呼んだら、頭の中が真っ白になって意識がなくなって、」
しゃくりあげながら必死に言葉を発する影の背中を安心させるように撫でてやりながら、日向は黙って彼の言葉を聞いていた。
「う、ごめんなさいごめんなさい、」
「・・・大丈夫だから。そんなに自分を責めるんじゃない。・・・それより腹はもう大丈夫なのか?」
こくこくと頷く影。
「・・・今日はもう寝た方が良いな。ホットミルクでも飲んで寝ろ」
影は覚えていない。自分が双子の兄である日向を殴ったことを。自分が高笑いをしながら日向を敵視したことを。だが言えない。言えるわけがない。
(俺は、影を依存させすぎてた・・・)
そのことが日向の頭の中を巡る。影を心配する余り、日向は彼を甘やかしすぎた。
(今は良い。今は。でもこれから・・・もし、もし俺がいなくなったり死んだりしたら、影は)
嫌な想像が頭を過ぎり、日向は吐き気を感じた。
(影は、きっと一人では生きていけない)
そんな気がして、日向は一人背中をぞっと粟立たせた。