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秋声

作者: 雨森 夜宵
掲載日:2017/10/18

 なんのきっかけがあったのか忘れてしまったけれど、きっと汗でずり落ちた眼鏡を直そうとでもしたのだろう。或いはネクタイを緩めがてら目をやったのかもしれない。とにかくそれはそれは唐突に、私は彼女を見つけたのだ。


 大学の一番隅にある校舎の、外階段を上りきったところ。大抵の人は内階段を使う上に、面しているのも何のためにあるのかよく分からない通りだ。無論人通りはほとんどない。私も週に一度、そこで講義を受ける必要がなければ行こうとは思わないし、もし最初に道を間違えたりしなければ、その通りを使うこともなかったかもしれない。

 その外階段の一番上の階。なんてことはない踊り場にそっと佇んで、彼女はいつも何かを見ていた。

 彼女の視線の先にあるものが何なのかは、分からない。ただ私が階段の上を見やると、必ずと言っていいほど彼女はそこにいた。柵の代わりにある低い壁に腕を乗せて、そこから遥か下の方を見ていた。私が立つ地面の、更にその下を覗き込んでいるような雰囲気。ぴんと伸びた背筋。長い黒髪。白い肌。銀縁の眼鏡。彼女はとても美しかった。下から見てもよく分かるほどに、とても美しかった。見る度見とれてしまう自分がいたのも、恥ずかしながら事実だ。見かける度に暫しその場で立ち尽くし、声をかけようか迷って、けれどふと時間を確認して、急かされるようにその場を離れる。そんな日を、何度か繰り返していた。


 でもあの日、彼女は少し様子が変わっていたのだ。

 忘れもしない。ぎらぎら、という言葉の似合う熱が照りつけるまだ暑い日の、講義が終わったあとのことだ。それも確か、少しばかり延長された回だったと思う。彼女はあの時、腰のあたりまでその壁の上に引き上げて、どこかのホラー映画を思わせる体勢で下を覗き込んでいたのだった。何気なく見上げた先にそんなものが見えて、一瞬で頭が真っ白になったのを覚えている。陽の光に照らし出された黒髪がそよ風に揺れて、私を招くようにきらきらと揺れていた。まるで不安定という概念が具現化したような、一瞬の留まりすらない揺らぎ。

 落ちてくるかもしれない。

 ほとんど弾かれるように身体が動いた。とはいえ、それでも一瞬は迷ったのだ。そこはずっと彼女だけの場所だったから。それでも勢いをそのままに、私は外階段を駆け上がっていた。無我夢中で上がって、上がって、上がって。


 ――――そして、私は彼女に出会った。


 向こうからまだ鋭さを残した陽光が差している。その手前に浮かび上がる、白く細い、折れてしまいそうな肢体。しっかりと足をつけて立っているはずなのに、どこか安定感を欠いたような印象。突き出されたショートパンツの尻、そのポケットから頭を出したスマートフォンが、限りなく危なっかしげな角度で引っかかっている。その脇には折りたたまれた銀縁の眼鏡が掛けられていた。勝手にロングスカートの印象を持っていたせいで、少しばかり戸惑ってしまう。それから、何のために階段を上がってきたのかを思い出して、彼女に駆け寄ろうと一歩踏み出した、その途端。


 ふわりと、彼女は振り返った。

 それから蕾の綻ぶような、そんな微笑みがひとつ。


「こんにちは」

「……こんにちは」


 静かな挨拶に、慌てて返事をする。

 彼女は既に私に気付いていたようだった。驚きの欠片も見せようとはしない。ただ静かに、柔らかく微笑みながら私を見つめていた。黒髪が柔らかな風に靡き、舞い、煌めく。宝玉のような、艶やかで気品ある黒。

 彼女はやはり、とても美しかった。

 その全身に光を帯びたような姿に、何かしら目を合わせてはいけないような気がして、私はそっと目を伏せた。逸らした視線の先、誰かを待つように、彼女の左側は心持ち広めに空いていて。

 その空間に滑り込んで、同じように下を覗き込んでみる。

 なんてことはない。ギラギラと照りつける日差し。くすんだクリーム色の外壁。いつも通りの外階段前。思ったよりも圧迫感があって苦しい。これはあまり、好き好んでやるような体勢とは思えなかった。徐々にずり下がっていく眼鏡を慌てて押さえ込んで、早めにその体勢を断念する。


「……何か、面白いものでもあるんですか?」


 詰まった空気を吐き出しがてら、私は訊いた。


「いーっぱいありますよ?」


 小さく首をかしげながら彼女は答えた。凛と澄んだ声は、場に合わないくらいに幼く響く。面白いものなど、ここで人々を見下ろす彼女くらいしかないような気がする。


「――――ほう、なるほど」


 誰にともなくそうこぼして、私はそっと両手を下ろした。振り返れば、彼女の大きな瞳が銀縁の向こうから私を見据えている。いつの間にかけたのだろう。突き刺さるほどにまっすぐな視線。それは最初真っ黒に見えたのに、よくよく見れば僅かに青色を帯びているようだった。


「具体的にはどんなものが?」

「んー」


 重ねて訊けば、彼女は少しばかり思案して。


「――――あぁ、こっちを見上げてる人が、物凄い慌て方でここに上がってくるのとか。さっきここから見えました」


 思いがけない答えに思わず面食らってしまった私を見て、彼女は笑みを深めた。真っ白な歯がちらりと覗く。


「……私、ですか?」

「はい。だって、ここに他の人が来たのは初めてだから」

「えっ」

「そうですよ?」


 彼女は悪戯っぽく首をかしげる。


「しかもあそこを通る人なんて少ないのに、いつも通るし。それで、通る度にこっちを見上げてくれるから……だから、とっても面白いです。不思議」


 そこまで見つかっていたのかと思うと、途端に恥ずかしさが頬を炙りはじめる。私はそっと視線を逸らした。そうでもしないと何かが伝わってしまいそうな気がした。眼鏡の黒い縁が、私と彼女の間をさりげなく隔てる。するとそれを見てとったのか、彼女は徐に通りの方へと向き直った。その黒髪が空気を孕んで、ふわりと彼女の背に付くのを、私は見送る。投げ出されたその視線の先を、私は追う。


「――――そういえば、今日はどうしてここに来たんですか?」


 彼女はふと思い出したように訊いた。


「あ、いや。あなたが落ちてしまいそうだったから」

「変な体勢だったから?」

「そうです」


 数瞬の沈黙の後、少し困ったようにああ、と苦笑が零れる。


「時々やりますよ――――この時間には、あまりやらないけど」


 何か、隠し事でもするような表情だった。


 逸らした視線の行き場を探して、腕時計を見た。次の始業時間三分前の表示に、私は寄りかかっていた壁から自分を引き剥がす。剥がれる瞬間、べりっと音がしたような気がした。


「すいません、次の講義が」

「あっ、ごめんなさい引き止めちゃって」

「いや、良いんです。勝手に上がってきたのは私だから」


 頭を下げようとする彼女を押しとどめて、私は眼鏡の位置を戻した。軽く一礼して、一気に階段を駆け下りる。振り切ろうとしていた。そうでもしなければその場を離れられないような気がした。自分の足音が不必要なほどに煩く聞こえて、彼女の声が実にささやかなものであったことが初めて分かる。階段の下からでは聞こえなかっただろう。何故か、私が階段を上がったのは、彼女が降りてくるより何倍もいいと私は思った。瞬きした瞼の裏に、彼女の黒髪が靡く。階段の上は振り返らずに、角を曲がって見えなくなるまで走り続けた。


 そのようにして、私は彼女を見つけたのだ。


   *  *  *


 毎週その時間、彼女は決まってそこにいた。そこから私を、いや、私のことを見下ろしていた。というより、私はそうだと思うし、そうだと思いたかった。

 彼女は見上げる私を見つけると、ほんの僅かに、しかし私にははっきりと分かるような会釈をした。それを見た私も小さく会釈を返して、その場を通り過ぎる。心拍が驚く程早くなっているのを、何処か遠くに聞く。それから一階の教室で講義を聞き、そしてそれが終わり次第、急いで階段を駆け上がる。そういう週一回の流れが――――というより、逢瀬の約束のようなものが――――私と、彼女との間に出来上がっていた。

 私たちは外階段の上で、ぽつぽつと話をした。短く話をするうちに、ほんの少しずつ互いを知っていった。同級であるということ。実家生であるということ。読書が好きだということ。お気に入りの古本屋が実家の近くにあるということ。一人っ子であるということ。両親は共働きだということ。少しずつ私たちは互いを知っていった。ほんの、少しずつ。

 だというのに、彼女の存在はどこか私の中で具体性を欠いていて、そしてそれは、もしや彼女は自分が作り出した妄想なのではないか、とも疑うほどだった。それほどまでに彼女は美しく、私は彼女を美しいと思っていた。彼女は私の理想の全てを宿す人だった、と言ってもいい。つまるところ私は、彼女をとても大切に思う自分がいることに気付いてしまったのだ。彼女は私の心深くまで根を張っているようだった。あの宝玉のように煌めく黒が、私の中に膨らんでいく。そしてあの淡く青を帯びた眼差しが、四六時中私を貫き続けるのだ――――。


  *  *  *


 何度目かに階段を上っていったある日、あの日は穏やかな晴れの日で、夏の盛りを過ぎても僅かに暑さを残していた。

 彼女はいつにも増して明るい笑顔だった。


「今日はね、いいものがあるよ」


 開口一番そんなことを言って、足元に置いていた鞄を掻き回し始める。何が出てくるのかと見ていたら、彼女が取り出したコンビニのレジ袋の中から、子供の時によく見たシャボン液のセットがふたつ転がり出てきた。黄色いフタ、ピンクの容器、それと黄緑色の吹く奴のセットだ。黄緑色のあれの名前を私は知らない。昔から我が家では「吹く奴」と呼んでいた気がする。私がまだとても幼かった頃、母はシャボン玉をひどく好いていて、よく私にこのセットを渡しては吹いてくれと頼んできた。そして庭先で風と戯れるそれらを眺めては、お兄ちゃん上手だね、妹に見せてやりたかったね、と口癖のように言うのだ。空っぽの目をして。窶れてむしろ抉れたようになった下腹を、ただただ静かにさすりながら……。

 喪失はいつも突然だ。いつだって、容赦がない。


「ほら、開けて開けて」


 彼女の声で急に引き戻されて、ぼんやりとしたまま私は手渡されたそれを準備した。いつも通り彼女の左手に陣取り、例の壁に荷物を立てかけて、急かされるままフタを開ける。中の液体がちゃぽんと重たげに鳴る。そこへ、例の吹く奴をそっと浸ける。余計な分を切ってから、唇に挟んで。

 ふう、と息を吹き込んだ。

 先端から、いくつものシャボン玉が群れになって飛び立つ。ふわふわとそれらは揺蕩う……というのは、あくまでも私の希望だ。それらは物理的な体積と重さを持っている。だから、どんなに私が望んだところで、それらは風に流されていく。どんなに私が願ったところで、それらは地に落ちる。弾けて、消える。そういうものだ。

 これ、と目をつけたひとつをずっと追っていく。

 それは風と共に左の方へと流れていき、そして、何の前触れもないまま突然、虚空に弾けた。細かな粒子もこの距離では捉えられない。だから、それは本当に純粋な消滅だった。


「――――良くない?」

「うん。良いじゃん」

「やったぁ」


 目を細めて彼女は言う。それから小さくため息を零して、私と同じようにシャボン玉を風に流した。ふわふわと私の前を通過していったそれは、やはり前触れもなしに弾けて。

 消滅はいつも突然だ。

 実のところ、シャボン玉はあまり好きではなかった。あの消滅の呆気なさが、どうにも気持ち悪くて仕方が無かったのだ。どこかぞくりとするものがあって、どことなく不気味で。


「私ね。ずっとシャボン玉になりたいって思ってたんだ」


 ぽつりと、彼女はそんな言葉を零した。


「……なんで?」

「うーん。なんでだろ」


 首を傾げた彼女の視線は、そのまま真っ青に澄んだ空に流れる。天高く馬肥ゆる秋、なんて言葉が脳裏を掠める、そんな深く抉れたような空。そこに引き千切られたような雲が点々と浮かんで、静かに流れていく。彼女はその動きを追いながら、まるで何かを探すように鋭い目をしていた。


「なんでかは分からないけど、なんか、ああいうのいいなって思うよ。理由とか、あまり考えたことなかった」

「……綺麗だから、とか?」

「あぁ……まぁ綺麗、だけど。綺麗だけどね――――」


 ふっと、彼女の言葉が途切れる。


「――――それは、そうなんだけどさ。別にそうなりたいってわけじゃないな。そもそも私、綺麗になれるとも思ってないし」


 彼女の横顔が僅かばかり憂いを帯びる。それは何故か泣いてしまいそうにも見えて、私は慌てて視線を逸らした。それから何か言葉をかけようとして、けれどふさわしい言葉も見つけられなくて、しょうがなく私は、例の吹く奴を容器の中へ突っ込んだ。乱雑に引き上げると同時に余分な液が垂れて、容器の中に深い音を立てた。ちゃぽん、と鼓膜で音が揺れる。それが消えるか消えないかのうちに、吹く奴を構えた。

息を吹き込んで。

 言葉の代わりに舞い上がったシャボン玉が、何かを急ぐような速度で渦を巻く。渦を巻いて、舞い上がって。そして、前触れもなく弾けて、消えていく。


「あなたは、綺麗だ」


 拾い集めた心が、どうにか形を持ったような気がした。心なしか頬が火照りだしたような気もした。それでも、形になった想いはどうにも止まりそうになかった。いや、止めるべきだとも思えなかった。方向を見失っていた感情が、その迸る先を理解したかのように、まっすぐに流れていく。


「あなたはとっても綺麗だ。シャボン玉なんて到底敵わないくらい綺麗で、その……私が見とれてしまうくらい、綺麗だ」

「……嘘でしょ?」

「嘘じゃない」


 そう問うた彼女の声は、震えているように聞こえた。木々の葉が必要以上にざわめいて、彼女の声を聞こえにくくしているような気もした。それにしても彼女の声は震えていて、私の心はぎしぎしと軋んで。私はそれに、必死で蓋をして。


「嘘なんかじゃ、ないよ」


 今だ、と私は自分でもよく分からない確信を持った。


「あなたは綺麗なんだ。綺麗で、美しくて、それで、あの、とても素敵だ。私は、そういうあなたに、その――――そういうあなたが、とても、とても――――大切、なんだ」


 凄まじい勢いで火照っていく頬を、意識せずにいるのは最早不可能だった。かといって彼女を見るのも怖くて、私は空に浮かぶ雲に目を向けたまま、もう一度シャボン玉を飛ばした。今度は慎重に液をつけた。沢山のシャボン玉はふわりと飛び立って、それからゆっくりと左の方へ流れていく。それを見送ってもまだ、私の心臓は飛び出しかねないほどに脈打っていた。どうも暫くは収まってくれそうにないほどの激しさは、頬を炙る体温も同じだ。

 どうしていいのかも分からないまま、私はただ淡々とシャボン玉を飛ばした。彼女がそうなりたいと言った、その理由を探しながら。


「――――ありがとう。とても、嬉しい」


 今度こそ、彼女の声は間違いなく震えていた。彼女は間違いなく泣いていた。だというのに、私は女の子の慰め方を知らない。こういう場合どういう対処が適切かを知らない。溢れ出しそうなほど沢山の言葉は、音になる手前でぐしゃぐしゃになって、なんなのかすら分からなくなったそれを、私はシャボン玉の中に吹き込んだ。何度も。何度も。何度も。


 その間、彼女はずっと私の隣にいた。


   *  *  *


 そして、あの日。シャボン玉を飛ばした次の時。彼女は、初めて会った日と同じショートパンツを穿いていた。寒いんじゃないかとも思った。淡く青を帯びた瞳が、静かに私を見つめていた。まるで私をというより、私の向こう側にある、何かを見出そうとでもするように。


「シャボン玉、今日はないんだ」


 ごめん、と彼女は首を傾げる。柔らかな笑顔。靡く黒髪の向こうに、ひらひらと紅い葉が舞う。


「いいよ。シャボン玉、そんなに好きじゃないし」

「嫌い?」

「いや、嫌いってわけじゃないけど」


 私の口から言い訳がましい言葉が溢れるのを、しかし彼女は問いただそうとしなかった。ただ、ほんの一瞬淋しげな顔をして、ふわりと私に背を向ける。だがそのたったひとつの動きだけで、私は酷く不安に駆られていた。彼女の黒髪が揺れる、そのひとつひとつの揺らぎが私の鼓動を早め、私と彼女の間に波となって広がっていく。

 ひとつ間違えるだけで私はこの空間からはじき出されるのだと、彼女はその背中で示しているように思えた。


「――――そっか」


 その短い返事はまるで、来るな、とでも言いたげだった。


「近所の百均に売ってるんだけどさ。今日は遅刻しそうだったから、寄らずに来ちゃった」

「うん。別にいいよ」


 何気なく投げた言葉の中、僅かに緊張が宿る。


「いいの?」

「いいよ」

「……本当に?」

「本当に」


 彼女は風に煽られたように、私の方へ振り返った。その酷く心細そうな表情が、私の中に焼け付くような痛みを残す。何が彼女にそんな顔をさせているのか、私には分からなかった。ただ、彼女の泣く声を思い出した。あの時しゃぼん玉に込めた、出来損ないの言葉の欠片を思い出した。

 あの言葉は、彼女宛のあの言葉は、どこへ行っただろう。


「……今日は、ここ、来ないの?」


 彼女は自分の右――――私の定位置を指して言った。


「行っていいの?」

「……嫌?」

「嫌じゃないけど」

「来なよ。外は見たいけど、背中を向けるのは嫌だから」


 悪戯っぽく笑おうとしたのだろう、でもその表情はむず痒いような悲しさばかりをたたえているようだった。そっと彼女の隣に並んだ。行き場をなくしてしまった両手を、仕方なく目の前の壁に乗せる。今までどんな風に置いていたのか、どこへやっていたのか、急に忘れてしまった。思い出そうとする記憶と今の間に、彼女の押し殺した嗚咽が帳のように降りる。


「あのさ」

「うん」

「――――あのさ」

「うん」


 私は遠くに聞こえる電車の音を聞いていた。聞きながら、実家の庭でも同じ音が聞こえていたのを思い出した。


「私、行きたいところがあるんだ」

「行きたいところ?」

「うん。行きたいところ」


 近いけどとても遠いんだ、と彼女は続ける。


「でもね、遠いから行きたいんだと思う。いつもいる場所は狭くて、なんだかとても……息苦しかったから。だからね。だからずっと、遠い場所を探してた。もっと遠くに、もっともっと遠くに、出来る限り遠いところに、って……」


 私は彼女の横顔を盗み見た。青を帯びた瞳は、どこか地平線の向こう側でも覗き込んでいるようだった。遠い、遠い場所を見据える、その眼差し。彼女の目指す場所は一体どこなのだろう。どこまで行ったら彼女は満足するのだろう。


 ――――ずっとシャボン玉になりたいって思ってたんだ。


 何故、その言葉を思い出したのだろう。遠い視線、白い肌、やつれたように細い肢体――――抉れたようになった、下腹。

 何故それを思い出したのだろう。


「でもね。私は、意気地なしなんだ」


 薄い桃色の唇。その端がほんの僅か、自嘲気味に釣り上がった。物憂げな瞬きに合わせて、長いまつげが空気を掻く。


「どんなに嫌でも、この日常を捨てようとは思えないんだ。退屈で、窮屈で、息苦しくて、それでも物理的にここを離れようとか、なんか――――そういう努力をしようとは、思えなくてさ。流されるまま時間だけ過ぎてく、みたいな。でもそういうの、馬鹿らしくなっちゃって。やっぱり、遠くへ行きたいなって、思うの。思うだけだけどね、そう思うんだ」


 独り言のように言う彼女に、やはり私はかける言葉を見つけられなかった。ただ、彼女が遠くへ行くことを考えた。日常に息苦しさを覚える彼女が、自由に呼吸できる場所へ行くことを考えた。そこに私は行けないのだろうか。もし行けないとしたら、彼女は私を置いていくのだろうか。

 彼女はいつか、私のいない遠くへ行ってしまうのだろうか。


「思うだけだよ?」


 念を押すように、彼女は付け足す。


「――――でも、思うんでしょう」


 それでも彼女の横顔は、何か決断を下した後の染み入るような不安を、帯びているように思えたから。


「行きたい気持ちは、変わらないんでしょう」

「……勿論。ずっと、行きたいって思ってる」

「じゃあ行けばいい」

「えっ」


 青を帯びた瞳が、真っ直ぐに私の目を射抜いた。その透明度に、私は耐えられない。遠くの方にカラスが飛んでいくのを、意味もなく目で追うことしかできない。


「行きたいなら、行けばいいんだ」


 私はもう、半分くらい投げやりな気持ちになりつつあったのだ。彼女が行く遠い地に、ここにあるものは持ち込めない。彼女の呼吸を妨げるのはきっとそれだから。行く意味がなくなってしまう。なら、私は彼女と行ってはならない。

 彼女が楽になれるのなら。


「行きたいのに行けないから、辛いんだろう。行きたいと思うのをやめられないなら、行けばいい。一度行ってみて、それから――――考えれば、いいんだ。どっちがいいか、って」

「でも」

「ここにいるから」


 何を保証したかったのだろう。

 ただ、凄まじい速度で上昇してしまった体温が、彼女に伝わらないことを祈った。さっき目で追っていたカラスは、とっくの昔に視界から外れていた。それでも、そのカラスが飛び去っていった先を、私は見つめていた。


「もし嫌になったら――――もし、向こうが君の思うほどいいところじゃなかったら……そしたら、戻ってくればいい。私は、ここで待っているから」

「……本当に?」

「本当に」


 私が答えた、その瞬間。

 彼女は、その柔らかな体で――――私に、しがみついた。


「――――本当に?」


 震える声。

 彼女の胸から、私の胸へ、直接響くような声。


「――――本当に」


 私は両腕を伸ばして、彼女を正面からそっと抱き寄せた。どう力を入れていいものか分からなかった。私の手に触れて、さらりと落ちる黒髪。彼女の早い鼓動が、触れる私に伝わってくる。応えるように、私の心臓が脈を打つ。

 ああ、私は。


「……あなたが好きだ」


 彼女は私の胸に顔を埋めようとでもするように、何度も、何度も、頷いた。それだけで、私には十分な気がした。彼女は、とても温かかった。


「私もだよ。私も……君が好き」


 好き。


 その一言がしっかり染み込む前に、腕時計のアラームが鳴った。彼女が僅かに身をよじる。私の背に触れていた腕が、まとわりつくように、するりと解けて。


「――――行って」


 彼女は視線を足元に外したまま、私を促した。


「講義、あるんでしょ。遅れちゃうよ」

「――――ああ、うん」


 何か別のものに急かされるように、私は階段を降りた。降りながら、彼女が本当に行ってしまうのかどうかを問うていた。彼女の温もりが私の中に残っていた。けれどその温もりは実に危うくて、少し吹けば消えるような気がした。その温もりはシャボン玉を彷彿とさせた。何もない虚空にあってすら弾けてしまう美しさ。彼女は行ってしまうのだろうか。私と彼女の時間は、彼女と私の場所は、弾けて消えてしまうのだろうか。風に流されていく、シャボン玉のように――――。

 一階に出た。目の前に通りがあった。何のためにあるのかよく分からない通りが、酷くだらしなく転がっていて。


 ――――そこへ、何かが降ってきた。


 それは宝玉のように艶やかな黒髪を靡かせていた。

 それは白く折れてしまいそうな肢体をしならせていた。


 それは人だった。


 その人は少し寒そうなショートパンツを穿いていた。

 その人は頭から地面に叩きつけられた。

 その人の頭は酷く湿った音を立てて弾けた。

 その人の体は跳ねた。

 その人の肢体は宙を舞って落ちた。

 その人の頭から得体の知れない何かが飛び出していた。

 その人の顔がこちらを向いた。

 その人の青を帯びた瞳が、遠くを見据えていた。


 誰かの叫び声がした。


 酷く、寒かった。


   *  *  *


 私は彼女を待っている。

 未成年の私は煙草で一服というわけにもいかない。だから、シャボン玉を飛ばす。その為の道具は踊り場の隅に置きっぱなしにしている。黄色いフタ、ピンクの容器、それと黄緑色の吹く奴のセットを、ふたつ。黄緑色のあれの名前を未だに私は知らない。昔から我が家では「吹く奴」と呼んでいた気がする。彼女もあれの名前は教えてくれなかった。彼女が帰ってきた時、もうひとつのセットは役に立つだろう。

 私は彼女を待っている。

 ここは彼女の場所だったのだ。いつも彼女はここにいて、そして、私はいつも彼女を見上げていた。いつかあそこに行こうと、いつか彼女に触れようと、私はずっと、思っていた。彼女は私を迎え入れた。柔らかな微笑み。薄い桃色の唇。青を帯びた瞳。その全ては何かに呼吸を妨げられ、弾けて消えた。

 消滅はいつも突然だ。彼女は弾けて消えた。

 彼女は遠くへ、消えてしまった。


 何かが消えると穴が開く。その穴は消えたものの居場所だ。いつか帰ってくるかも知れないと淡い望みを抱いて、残されたものは居場所を守る。けれどいつか、そこが自分の居場所になっていることに気付いてしまう。

 そしてその時、消えたものは帰らないと知る。


 私は彼女を待っている。

 私はシャボン玉を飛ばしている。

 私は、彼女を待っている。


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