第08話 灰色世界
着替えをはじめとした宿泊用の荷物を抱えて、帰りは流石に電車を使って夏目家へ戻る。
家に戻ると寧々が来ていた。幽香の冬休みの課題を見てくれていたようだ。
「お邪魔してるよー」
寧々がひらひらーと手を振る。今日は襟元の大きく開いたニットのセーターにショートパンツ、足元は縞模様のタイツを履いている。
「そんなエロい格好してたら男に狙われるぞ」
「外では着ないから大丈夫だよー」
「ブラ紐が見えそう」
「目潰すよ?」
「そのシャープペンシルはシャレにならないからしまおうな?」
陽介はもう慣れてしまったが、寧々は目立ちたがり屋なのか、だいぶオシャレに気を使っている。今も外に出る気はないと言いつつ、髪の毛はきっちりいつものツーサイドアップにまとめて、緩くウェーブしている。体の発育も良く、セーターの上からでもよく分かる双丘は男心をくすぐる。さすがに麗奈ほどではないが足も長く、組み替える動作などは非常に様になっている。大人の色気が出てきて、幼馴染の陽介としても目のやり場に困る今日この頃である。
「お兄ちゃん、寧々さんはもう受験勉強を始めているそうですよ。その頭で三年生になって大丈夫ですか?」
「んーいつにも増して辛辣だな幽香?」
「アタシは親にいろいろ言われるから塾に行ってるだけだよー」
にゃははと笑う寧々。もともと寧々は頭が良い。陽介が中の下くらいで、寧々が上の中くらいだろうか。たまに勉強を教わるが、非常に要領がいい。やはり学校一の人気者。トップカーストは格が違う。
「そうか、もう受験生なのね、本当なら……」
そんな時、荷物を置いて戻ってきた麗奈が他人事のように言った。
「まだ間に合うさ。僕と一緒に勉強していこうな」
「そう、ね……」
どこか空虚なその言葉には違和感があったが、陽介にはそれを言語化することはできなかった。ぼんやりしていると、寧々が猫のように目を煌めかせて、麗奈ににじり寄っていた。
「失礼っ!」
「ひゃんっ!?」
突然麗奈の背後に回ったかと思うと、ひしっと抱きついた寧々。
「うにゃーっ! 陽ちゃん、やっぱりこの子ほっぺたひんやりスベスベだよ! 赤ちゃんみたい!」
「ぎゃーっ!?」
暴れる麗奈を押さえつけ、寧々はうりうりと頰擦りを繰り返す。寧々は昔からスキンシップが激しく、気になる人がいるととりあえず抱きつく習性がある。今回も麗奈がその犠牲になった形だった。
「ぎゃーっ!? ぎゃーっ!?」
「あ、やっぱり。麗奈ちゃん結構大きい」
「どこ触ってんのよっ!」
「いいじゃない女の子同士なんだしー! あー、やっぱり他人のを揉むのが至高だよね!」
「お兄ちゃん、この問題が分かりません」
「どれどれ」
「そこ! 早く助けなさ──んひゃあっ!?」
「おうおうここがいいんかえ? お?」
「ぎゃーっ!? ぎゃーっ!? ぎゃーっ!?」
三分後。
「ごちそうさまでした」
両手を合わせて寧々が一礼する。足元には無残にも横たわる麗奈の姿が。
「もうお嫁にいけない」
「お前しょっちゅうお嫁にいけなくなってんな」
「んー、麗奈ちゃん面白いね」
舌舐めずりする寧々に、麗奈は顔を青くして後ずさった。
「ま、まだ何かする気!?」
「陽ちゃん、この子一日借りてもいい?」
「構わない」
「やったー!」
「え」
そして連行される麗奈、見送る夏目兄妹、響き渡る悲鳴……。
「気に入ったものは巣に持ち帰る習性があるよな、寧々は」
「猫っぽいですよね」
☆★☆
「ママー、友達連れてきたよー」
「お、お邪魔します……」
所要時間五秒。到着した隣の一軒家に、麗奈は恐る恐る足を踏み入れた。
「あらまあ可愛らしい女の子! 初めまして。寧々の母の、白坂小百合です」
現れたのはエプロン姿の女性だ。髪型はショートボブ、身長が高く柔らかな笑顔がよく似合う。
「初めまして、氷川麗奈と言います」
「歓迎するわ」
物腰が柔らかく、常に笑顔。いいお母さんだなと、麗奈は思った。
寧々の案内で二階の部屋に向かった。そこは寧々の個人部屋らしく、構造は夏目家と似ているが、内装は非常に色彩豊かで住人のこだわりが見て取れた。
「あっ」
何より目を引くのは、数多く取り揃えられた猫グッズだ。中にはあのシュレディンガー君もおり、麗奈は思わず目を輝かせた。
しかし、「一日借りる」ということは、今日はここに泊まるのか……と麗奈はここ数日の慌ただしさに嘆息した。数日前には想像もできないくらい人と関わり、会話をした。それがなんらかの変化を生んでいることは、自分でも薄々感づいていた。
荷物を置いてひと段落するとそこに、お盆にお茶を載せて運んできた小百合やってきた。遠慮がちに、小百合は麗奈に問いを投げかけた。
「一つ聞きたいんだけど、その髪の毛は地毛なのかしら?」
麗奈はお茶を「ありがとうございます」と受け取りながら答える。
「はい。ちょっと諸事情で白くなってまして……」
「やっぱり! 染めてもこんなに綺麗にいかないものね! ちょっと触ってもいい?」
「え、あ、はい、いいですが……」
この親あってのあの娘か、と麗奈は思わず苦笑いした。
「うーん、サラサラね……。私も昔はすごかったのよ。最近は髪のツヤもなくなったきたし、肌のハリも……」
「ママの年増トークは聞き飽きたよ」
「こら寧々! 私はまだ三十代よ!」
「お若いんですね」
麗奈の一言に小百合は相貌を崩した。
「聞いた? うちの娘にしたいわ」
「あ、はは……」
麗奈としては返答に困る台詞だ。
「ねえママ、麗奈ちゃん泊めてもいいよね?」
小百合の去り際に、寧々が問いかけた。寧々が友達を連れてくるのは日常茶飯事なので、小百合もいつも通り返事をした。
「ご両親にちゃんと許可をもらうのよ」
「あっ……」
寧々がやってしまったとばかりに息を飲む。麗奈としてはそれほど気にしないが、他人から見たらデリケートな部分に見えるのだろう。
「私、両親はもう死んでるので」
「あら……ごめんなさい。辛いことを思い出させたわね」
「いいんです。これでもだいぶ、整理はつきましたから」
「……そう。ゆっくりしていってね。いくらでも泊まっていっていいから」
小百合の少し陰った笑顔に、麗奈は申し訳なく思いつつ頭を下げた。
小百合が出て行くと、重たい空気を嫌った寧々が明るく声をかけた。
「ねえ、ガールズトークしよガールズトーク!」
「ガールズトークってしようと思って始まるものなのかしら……」
とはいえ、一日の終わりにはまだ時間がある。話題のきっかけを探すと……すぐそこにあった。
「シュレディンガー君」
「!」
その単語を聞いた瞬間の寧々の反応は凄まじかった。目を輝かせ、ガバッと麗奈の肩を掴んだ。
「シュレディンガー君を……知っているの?」
「ええ、一応……」
「うにゃーっ! 初めて会ったよ、シュレディンガー君を知ってる人! 嬉しいな嬉しいな!」
テンションが限界突破した寧々にブンブン揺さぶられながら、麗奈も少し楽しくなっていた。麗奈からしても、シュレディンガー君を知っている人に会うのは初めてだったからだ。
「見て見て! 今年の『夏の猫祭り』限定シュレディンガー君タペストリー!」
「あ、この夏家に引きこもってて持ってないやつ……!」
夏頃は何も考えられず、外に出る気力もなかった。普段の麗奈なら何時間並んででも手に入れる代物だ。
「あのさ!」
もう二度と手に入らないのだと分かり意気消沈していると、
「来年は、一緒に行こうよ!」
寧々が満面の笑みで、そう言った。
「来年……」
麗奈にとって、来年とは果てしなく遠い時間だ。今この瞬間を生きるので精一杯なのに、もっとずっと先のことなんか、考える余裕なんてない。
「大丈夫。陽ちゃんがきっと全部なんとかしてくれるよ」
「信頼してるのね」
「うん」
ふと、寧々は虚空を見つめて、何かを思い出すように語り始めた。
「……昔のアタシってすごく気が弱くって。何をするにも自信がないような子だったんだ」
「今からは想像もできないわね」
「そうかもね。それくらい、劇的に変わった。小学生低学年くらいの頃かな。公園で、小さな捨て猫がちょっと年上くらいの男の子三人に虐められてて。アタシは止めたかったんだけど、怖くて怖くて、動けなかったんだ」
「うん」
「アタシは、何もできずに一人でわんわん泣いてた。そこにね。陽ちゃんが来て、言ったんだよ。『もう大丈夫だ。全部なんとかしてやる』って。そしたら陽ちゃん、年上の男の子三人殴り倒しちゃった。やりすぎだよね」
にゃははと笑う寧々。大切な思い出を語って聞かせる寧々の瞳には、親愛の情がありありと浮かんでいた。
「まあ、陽ちゃんは全然喧嘩強くないから、その後返り討ちにされちゃったんだけどね。顔中傷だらけで、でっかいたんこぶ作りながら……それでもその捨て猫は守り通した」
同じ女である麗奈には、もうその時には寧々の抱く気持ちが分かってしまっていた。
「かっこ悪いけど、かっこいいんだ。陽ちゃんは」
「あなた……」
麗奈は、聞かずにはいられなかった。
「夏目君のこと、好きなの?」
「にゃはは……分かる?」
まあ分かるよね普通は、と寧々は苦笑した。
「分かるわよ。だってあなた、外に出る訳でもないのに身だしなみに気を使いすぎよ。意識してるの、バレバレじゃない」
「わー! や、やめて! ほんと、アタシだけこんなに意識してるの恥ずかしいんだから!」
真っ赤にした顔をパタパタと扇ぎ、俯向く寧々。
「自分で言うのもアレだけど、アタシって結構モテるんだよ? あの帰宅部もやしメガネから見たらアタシ高嶺の花だよ? なのに……なのにさあ!」
「わ、分かった分かった。一旦落ち着きなさい」
「バレンタインの本命チョコも反応なし、夏祭りの浴衣でもダメ、海で水着になってもダメ……クリスマスパーティでサンタさんのコスプレしてみたらなんて言ったと思う?」
「さ、さあ……」
今まで溜めに溜め込んだ愚痴が洪水のように溢れ出してくる。半泣きの寧々に、麗奈はタジタジになっていた。
「『その格好、寒くないのか?』だよ!? いや寒いよ! めっちゃ寒いよ! でも、でも……喜んでくれるかなって思ってさあ……!」
「つ、辛かったわね……」
抱きついてくる寧々の頭を撫でてやりながら、麗奈は積極的な麗奈に感心し、反対にあの朴念仁根暗帰宅部もやしクソメガネは一体なんなのだと憤慨した。
「オシャレも勉強して……ちょっとずつ陽ちゃんの好みもリサーチして……」
「もうそれ以上自分で傷をえぐるのはやめなさい、見ていて辛いわ……」
「うん……ありがとう、麗奈。私の愚痴を聞いてくれて」
「これくらい、別に」
いつの間にかちゃん付けもなくなっていた。寧々はやはり他人と距離を詰めるのが上手い。
「麗奈の愚痴も聞くよ?」
「ないわよ、そんなもの」
「えー? いいのー? せっかく女二人なのに」
本当は悩みだらけだが、自分の重たい悩みを明かす気にもなれなかった。
せっかくこんな久しぶりに楽しいお喋りをしているのに、せっかく新たな友達ができそうなのに、水を差すようなことはしたくない。
──私が普通の女子高生なら、こんな風に友達と楽しく喋りながら、来年を迎えられたのだろうか。
考えないようにしていても、つい頭によぎってしまう。
今の麗奈には、来年を迎えられるかどうかの保証すらない。常に身体が怠くて、寒くて、苦しい。
未だに見つからない解決法を探して、陽介は色々と考えてくれている。だが、麗奈に残された時間はもうきっと、わずかしかない。
──私は、どうすればいいんだろう。
その自問自答に対する答えは、結局出なかった。
☆★☆
その夜、麗奈は白坂家でカレーをご馳走になった。その頃にはサラリーマンの父親も帰ってきており、四人で食卓を囲んだ。お風呂には寧々と二人で入り、麗奈は昼間のお返しとばかりに胸を揉んでやった。
──そうして温かな家庭を感じると、対照的に麗奈の心は冷たく沈んでいった。そこは自分の家庭ではなく、借り物の温かさだからだ。その場では満たされても、後になって偽物だと気がつく。本当の温もりはもう二度と手に入らない。分かっていても、心のどこかでその温もりを探していて、縋り付きたいと思っている自分がいる。その牢獄は決して抜け出せないと分かっているのに、明かりが見えたらどうしても手を伸ばしたくなってしまう。
負の連鎖は決して止まらない。誰かが牢獄を破壊しない限り、永遠に、止まらない。
その日最後に測った体温は、三四.七度を示していた。
☆★☆
次の日。十二月二九日。麗奈が夏目家に戻ると陽介が迎えた。
「おかえり」
「……うん」
ただいま。その言葉を口にしたかったが、麗奈にはまだでいなかった。
──家で帰りを待ってくれる人など、もういなくなってしまった。私はこの家の住人じゃない。「ただいま」を言う資格はない。
そう思っていても、「ただいま」を許してくれる夏目陽介という存在に甘えたくなる。頼りたくなる。もたれ掛かりたくなる。縋りたくなる。
許されるのならば、どうか──と、そう願ってしまうのだ。
「今日はショッピングモールに行こう」
解決の糸口が見えない陽介は、とりあえず麗奈を外に連れ出すべく近場の遊び場を提案した。会話を重ねるうちに何かトラウマのヒントが見えるかもしれないと考えたからだ。
「もう、どこへでもお好きなように」
麗奈は投げやりに言った。それは半分照れ隠しだった。
──ショッピングモールに遊びに行くなんて、そんな、デートみたいな……。
と、ちょっとだけ舞い上がっていだのだ。
「……待ってて。着替えるから」
麗奈は今日は何を着ようかと思考を巡らせた。前回は結構評判が良かったし、今回も似たような……いや、あえて新たなスタイルに……などと、自分の今日の服装をイメージする。その隣には、欠かさず陽介の姿があった。
そんな想像に喜びを見出している自分がいて、楽しいと素直に思えている自分がいて、麗奈は動揺した。
この数日で自分の中に様々な感情が湧きあがっているのは理解していたが、これは……。
「どうした?」
「えっ? あ、いや、なんでもないわ。ちょっと待ってて」
上の空だった麗奈は陽介に顔を覗き込まれていると分かった瞬間、素早く飛び退いた。
「お、おう。ゆっくりでいいからな」
そうして、麗奈は逃げるように幽香の部屋に向かった。
☆★☆
「お、お待たせ」
二階から降りてきた麗奈は、この前とはまた違った魅力のある服装をしていた。
裾が短めで、花咲くようにわずかに外側へ開いたトレンチコート。裾の広がりとベルトが生み出すラインがウエストの細さを強調して、元々良い麗奈のスタイルを際立たせる。スカートは前回とは対照的な群青色。茶色などの落ち着いた色の多いコーディネートの中で唯一濃く存在を主張しており、アクセントになっている。足はロングブーツ、頭にはニット帽、首にはマフラーの超重装備だ。非常に温かそうである。
「感想は?」
「可愛い」
「やればできるじゃない」
ということで、微妙に上機嫌な麗奈を連れてショッピングモールに向かう二人。今回も幽香はお留守番である。
ショッピングモールは陽介たちが住む町から二駅ほど離れた場所にある。そこそこの広さを誇り、映画館やフードコート、ファッションショップなど各種施設は充実している。人気のデートスポットである。
電車に揺られること数分。降りるとそこは、地元より少しだけ都会だ。駅からは徒歩一分程度。歩いてすぐのところに、そのショッピングモールはあった。
「久しぶりに来るわ、ここ」
「来たことあるのか」
「ええ。もう何年か前だけど」
きっと両親と一緒に来たのだろう、と陽介は思った。もしかしたらかつてのその記憶が、麗奈に何らかの良い影響を及ぼしてくれるかもしれない。
「どこか行きたい場所はあるか? なきゃ、映画なんだが」
「それでいいわよ。あなたが連れてきたんじゃない」
「分かった。なら、今話題のあの映画にするか」
映画館に入り、満席間近だったその映画のチケットをなんとか二枚確保した。ポップコーンは二人で一つ、ジュースはそれぞれ買って、開場した劇場に入る。
その映画は、とある少年と少女の、届きそうで届かない青春恋愛を描いたものだった。もう少しで再会できる、なのに後一歩足りない。そんなもどかしさと切なさ。やがて二人は超えられない絶対の壁に隔てられる。だが運命の糸で繋がった二人は再び巡り合って……、そんな物語だった。
映画が終わり、劇場から出る二人だったが──
「う、ううううううあああああああ……っ」
陽介は周りをはばかることもなくボロボロと涙をこぼしていた。
「どんだけ泣いてるのよ、あなた……」
「だっで……あんな、あんなの……」
陽介はめちゃくちゃ涙もろい男だった。
とりあえず麗奈は陽介を近くのベンチに座らせて、背中を撫でてやった。
両手で顔を覆い、しばらく泣き止みそうにない陽介を宥める麗奈。周りの視線が痛い。
「な、なあ氷川……」
泣き腫らして真っ赤にした目で、陽介は麗奈に頼み事をした。
「胸借りてもいいか」
「!?」
何を言っているのだ、と思った麗奈だったが、陽介はどうやら本気のようで。
「……、」
数秒の葛藤の後、麗奈は両手を広げて受け入れる体勢を取った。意を決してゴクリと唾を飲む。
「……き、来なさい」
すると、ぽすんとその頭を胸に載せてくる陽介。
「(う、うわ~~~~~~~~っ!)」
麗奈は内心暴れ狂う心臓を押さえ込むので精一杯だった。
恐る恐る、泣きじゃくる陽介の頭に手を伸ばしていく。そして、ゆっくりと撫でてやる。
「(男の子って、こんな風に泣くのね……)」
まだ付き合いは浅いが、麗奈から見た陽介はもっとこう、頼り甲斐のある存在だった。だが今の陽介は、とても弱々しい。
「(……ちょっと可愛いかも)」
そんなちょっとした優越感と、母性本能をくすぐる陽介の子供っぽい姿に、麗奈の心はきゅうっと締め付けられる。陽介に触れるたび、感情が豊かになっていくのが分かる。
「落ち着くまでそうしていていいわよ」
「すまん、氷川……」
そうしてしばらく啜り泣く音を聞いていると、固く閉ざされた牢獄が甘く溶けていくような錯覚を覚える。心の内から温かさが溢れてきて、満たされていく。
──ずっと、こうしていたい。
他人の温もりを感じることが、こんなにも幸せなことだったなんて。麗奈は長らく忘れていた感情を思い出した。
きっと陽介も同じなのだろう、と麗奈は思う。形は違えど、彼もまた家族と離れ離れになった少年だ。誰にも言わずに抱え込んでいるだけで、心のどこかで誰かの温もりを探し求めている。
──もし。
──もし私が、その温もりを与えてやれたなら。
それはどんなに幸せで。
嬉しくて。
温かいことだろう。
「……ありがとう。もう大丈夫だ」
やがて陽介が顔を起こした。目は依然として真っ赤だったが、もう泣き止んでいる。
「あら。もっと甘えてくれていいのに」
ふふんとお姉さん気分で返した麗奈に、そんな彼女に、
「いや、もう十分堪能したよ」
陽介は真顔で言った。
「やっぱ氷川、お前胸大きいな」
数秒固まり、やがて言葉の意味を理解した麗奈が、ゆっくりと俯いた。
「…………返せ」
「ん?」
麗奈は拳を握りしめ、プルプルと震えながらその怒りをぶちまけた。
「私の色んな感傷を返せ────ッ!!」
☆★☆
怒り心頭の麗奈を引き連れて、陽介はショッピングモールを歩く。思いっきり引っ叩かれた頬にはアニメか漫画かというほどくっきりと紅葉型の跡が付いている。
「私の機嫌を取りなさい。早くしないと私はあなたを八つ裂きにしてしまう」
「幽香といいお前といいその『私が私でなくなる前に!』シリーズはなんなんだ。怪物にでも成り果てるのか」
「なるわ」
「何に」
「雪女」
「……容易に想像できて怖いからやめてくれ」
背後から感じる冷たい視線が背を撫で、陽介は身震いした。このままでは呪い殺されてしまう。
陽介は必死にご機嫌取りの策を考えた。女の子の好きそうなショップはあちこちにある。無難に服屋か、それとも甘いスイーツでも奢ればいいのか。悩みながら歩いていると、陽介はとある店を発見した。
「……これ、シュレディンガー君って言ったっけか」
「!」
ショーケースに並ぶのはファンシーグッズというやつだろうか。ジャンルはバラバラで、キーホルダーから文房具、アクセサリーまで、何でも取り揃えた雑貨屋だ。
とりあえず不機嫌な氷の女王を連れて入ってみる。
「あら。意外とセンスがいいわね」
品揃えを眺めながら女王は呟いた。どうやらお気に召したようだ。
シュレディンガー君のグッズはコーナーになっていた。キーホルダーや小さなぬいぐるみなど、所狭しと並んだ憎たらしいドヤ顔がこちらを見据えてくる。マニアックな品ぞろえが売りなのだろうか。
「……」
「これは寧々に買っていきましょう」
陽介が閉口していると、麗奈がキーホルダーを一つ手に取って言った。
「呼び捨てとは、いつの間にそんなに仲良くなったんだ?」
「身体を交わしたあの日から」
「いやほんと何があった」
「一緒にお風呂に入ったのよ。それであれこれ話してるうちに、いつの間にか」
「流石は寧々。他人の心を開かせることにおいて並ぶ者はいないな」
「あの子、コミュニケーション能力の化け物よね……」
陰口なのかそうでないのかよく分からないことを口走りながら、店を見て回る麗奈と陽介。ふと、陽介が立ち止まった。
「どうしたの?」
麗奈が振り返ると、陽介は何かを一心に見つめていた。
視線の先にあるのは、アクセサリーコーナーだ。
「これ」
陽介が手に取ったのはカチューシャだ。黒一色で、小さな黒薔薇があしらわれたもの。上品な雰囲気で、大人っぽい麗奈には非常によく似合いそうだ。
「ほい」
それを陽介は、ぼけっとしている麗奈の頭に被せた。
「なっ」
「うーん。非常にいいと思う」
「ほ、ほんと?」
「そこに鏡があるぞ」
聞くとパタパタと駆けていき、麗奈は様々な角度から自分の髪を眺め始めた。
「せっかく親御さんに褒めてもらった髪なんだろ? 弱い心の証なんて、言わない方がいい」
「……うん」
麗奈は頬を染め、自らの髪を撫でた。
白い髪に、その黒薔薇のカチューシャはよく似合っていた。麗奈が「心が弱い証」だと言ったその髪は今、黒薔薇に彩られて新たな魅力を放っていた。
「これで、機嫌直してくれるか?」
「……まあ、ギリギリ及第点といったところかしら」
そうして、カチューシャ一つと寧々へのお土産であるシュレディンガー君のキーホルダー、そして幽香へのお土産である幽霊のストラップを買い、店を後にした。
☆★☆
二人並んで椅子に座り、電車に揺られながらの帰り道。陽介は疲れたのか、座席の側面にあるしきりに顔をもたれ掛けて寝てしまった。
幸せそうな寝顔に、思わず麗奈の顔も綻ぶ。
ずっと眺めていたい。あどけなくて、無垢で、純粋な、彼の寝顔。呼吸に合わせて上下する胸、ちょっとだらしなく開いた口、長い前髪が隠す目元。その全てに興味が湧いてしまう。
麗奈は自分でも意識しないまま、陽介の顔に触れ、前髪をどかした。
「――――、」
息を飲んだ。そして、ゆっくりと眼鏡を外してみる。そこには、普段の冷静な彼からは想像もできないほど、子供っぽくて可愛らしい顔があった。
「……、」
何かいけないことをしているような気分になって、麗奈は慎重に眼鏡を元に戻した。
麗奈買ってすぐに付けたカチューシャに手を触れた。
自分の中に膨れ上がっていくこの思いが何なのか、麗奈はようやく理解してしまった。
夏目陽介に甘えたくなる、頼りたくなる、もたれ掛かりたくなる、縋りたくなる。その全ての感情の根底にあるもの。
それは────────────、
「──ぁ」
その、瞬間だった。
「──だめだ」
麗奈は、自分が今大きな過ちを犯そうとしていたことに気がついてしまった。
だって。だって──。
「──ぃに、ならなきゃ」
麗奈が陽介に甘えて、頼って、もたれ掛かって、縋りつけば、きっと陽介はそれに応えてくれるだろう。なぜなら、陽介はそういう人間だからだ。困っている人を見捨てられない。苦しんでいる人には手を伸ばす。
だが。
そうしてもたれ掛かろうとしている氷川麗奈は今、消えてなくなる寸前の状態なのだ。
もしこのまま自分勝手に陽介に甘えて、そのまま自分が消えてしまったら?
陽介は、どうなる?
あの孤独な牢獄での人生を、彼に味わわせてしまうのではないか?
頼ってくれた人を失った自責の念で、彼は潰れてしまうのではないか?
「嫌い、に…………ならなきゃ、」
手が震えた。
一度考え始めると、負のスパイラルから抜け出すことができなくなる。
自分があの恐怖を、孤独を、一番よく知っているはずなのに、彼を同じ目に遭わせようとしていたのだ。
夏目陽介はいい人だから、きっと氷川麗奈が死んだら悲しんでくれる。あの映画のときのように、心の底から泣いてくれる。それが分かるからこそ、分かってしまうからこそ麗奈の心を苦しめる。
──嫌いにならなきゃ。
自分で自分を戒めるように、何度も、何度も何度も、何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も、その言葉を繰り返した。
だが、その言葉は決して履行されない。相反する感情は、もう抑えきれないほどに大きくなっている。
「いや……いやよ、だって、もう……」
震える手を胸に抱きしめる。
窓の外には、再び雪が降り始めていた。
空は暗く淀み、風が強く電車の窓を叩いている。
光り輝く希望を前にして絶望を叩きつけられた少女は、やり場のない気持ちを無理やり心の底に押し込んだ。
深く関われば関わるほど、別れの時の痛みが増す。そんなこと、最初から分かっていたはずなのに。
だから、決断しなければならない。
彼の痛みを最小限に留める方法。これ以上彼を苦しめないために、氷川麗奈にできる唯一の方法。
──夏目陽介という希望を、私なんかのために壊してはいけない。
──だからもう、これ以上私に希望を見せないで。光で照らさないで。
──あなたの光は、私には眩しすぎるから。
麗奈はそれでも涙を流さなかった。流せなかった。凍り付いてしまったその雫は、決して瞳から溢れ出すことはなかった。
車窓から見える雪は、次第に強くなっていった。
きっとまた積もるだろう。寒く、冷たい冬はまだまだ始まったばかりだ。麗奈は、もう体の震えを抑えきれなくなっていた。体温はきっと、さらに下がってしまっていることだろう。温もりは遠ざかり、麗奈にはもう二度と掴めない。いや、掴んではいけない。
「はぁ……」
吹き荒れる北風が私と彼を隔ててくれればいいのに──そんなことを麗奈は思った。
「こんな、ことなら────」
そして麗奈は──
「君と、出会わなければよかったのに」
動きかけていた時計の針を、自ら止めた。
☆★☆
翌日、十二月三〇日。
麗奈は夏目家に帰ると「私、もう寝るから」と、一言も交わすことなくすぐに部屋に篭ってしまった。疲れていたのだろうと陽介はさほど気にしなかった。しかし、部屋主である幽香を「たまにはお兄ちゃんと一緒に寝なさい」と追い出してしまったのは、わずかだが違和感があった。
さらにその翌日、十二月三一日。
ついに年内最後となったこの日の昼過ぎ、麗奈が一旦自宅に帰ると言い出した。陽介は当然のように「ついて行く」と返したが、
「いや、平気よ。忘れ物を取りに帰るだけだから」
と、ひらひらと手を振って断った。
忘れ物が何なのかは教えてくれなかったが、何てことなさそうな笑顔でそう言う麗奈に、思わず陽介は「分かった」と返事をした。
──そして。
麗奈が夏目家に戻ってくることはなかった。
☆★☆
一時間待っても、二時間待っても帰ってこない麗奈に、陽介は何かあったのではないかと不安になり始めた。スマホを取り出し、連絡を取ろうとしたが、
「……しまった。あいつの番号、聞いてない」
そもそもスマホを使っているところを見たことがない。麗奈はスマホを持っていないかもしれない。
加えて、共通の友人から連絡を取る、なんて手段も取れない。麗奈の交友関係は、陽介と幽香と寧々しか存在しないからだ。
「……っ、くそっ!」
幸い、陽介は麗奈の向かった先とその所在地を知っている。陽介はそこらへんにあったジャンパーを羽織り、マフラーを適当に巻いて、身支度を整えた。麗奈の身体を考えると、事態は一刻を争うかもしれない。
「幽香っ! 僕ちょっと氷川の家まで行ってくる!」
「お、お兄ちゃん? 今日は私の課題を手伝ってくれる約束では……」
「すまん、今はそれどころじゃないんだ!」
今の陽介に幽香に構っている暇はなかった。陽介は、何か言いたげな幽香を放り出して家を飛び出した。
街は年の瀬に浮かれている。雪が降っているにも関わらず、商店街は人に溢れ、笑顔で何かを語り合っている。
そんな中を、陽介は走った。
「はぁ、はぁっ、はぁ……っ」
ただただ、走った。
陽介は決して体力がある方ではなかった。帰宅部だし、運動は苦手だった。だが、電車を待つ時間さえ惜しかった。全力で走れば、きっと駅に行くよりも早く彼女の家までたどり着ける。
その思いが、衝動が、陽介の足を動かす。
「はぁ、は──うわっ!?」
途中、雪に足を取られて顔から地面に突っ込んだ。通行人に踏みしめられて汚れに汚れた雪が、身体中を濡らした。それでも、陽介は走ることをやめなかった。
そして、ようやくたどり着く。
「はぁっ、っく、はぁっ、はぁ……っ」
空気を求めて暴れ狂う肺をゆっくりと落ち着けながら、陽介はチャイムを鳴らした。
しかし、ドアが開くことはない。
もしかしたらと思いドアノブを回すと、鍵はかかっていなかった。ドアはすんなり開き、陽介は勝手に入ることを謝りつつ敷居をまたいだ。
「誰も……、いない……?」
一度だけ訪れた部屋。以前と変わらず殺風景な部屋だったが、一点だけ陽介の記憶にはないものがあった。
「これ、は……」
テーブルの上。
ポツンと置かれたそれは、一冊のノートと洋封筒だった。
陽介はそれを手に取った。封筒を裏返すと、そこには「夏目陽介君へ」と書かれていた。差出人は言うまでもない。それは、陽介宛ての手紙だった。
全身にまとわりつく嫌な予感に背筋を震わせながらも、陽介はその封を切った。中には便箋が二枚。紙一面に文字が書き連ねられていた。
陽介はそれを、一文字一文字確かめるように目で追った──────