第07話 少しだけ手を伸ばしてみてもいいのかな
夏目陽介の母、圭子は世界的に有名なバイオリン奏者だった。
子供の頃からストイックに自分を追い詰め、練習を重ね、そしてようやく世界の舞台に立った――しかし、トップに立つことはなかった。そんな女性だった。
一度結婚するも、音楽にしか興味を持たない圭子がうまく家庭を築けるはずもなく、すぐに離婚。それから音楽家である現在の夫、慶次と再婚して今に至る。
陽介は慶次の連れ子。幽香は圭子の連れ子だ。似た境遇を持っていた。
親が親だから、二人とも生まれてすぐに音楽に触れ、楽器に触れた。
しかしどうも陽介は不器用で、あまり芸術的センスには恵まれていなかった。すぐに陽介に興味を失った両親は、代わりに幽香に時間を割いた。その幽香が飛び抜けた才能を持っていることが分かると、いたく喜んだ。すぐさまバイオリンを買い与え、圭子自ら指導をした。
英才教育だった。
今思えばあの時の圭子は、自分が届かなかった高みに、自らの娘を届けるために躍起になっていたのだと陽介には分かった。
陽介は母と二人、嬉しそうにバイオリンの手ほどきを受ける幽香の様子を見ながら、幸せを感じていた。家族の温もりに恵まれなかった陽介は、幽香が楽しそうにしている様子を見るのが一番好きだった。
幽香の才能は留まるところを知らなかった。両親の音楽家としての才能を見事に継承した少女は、数多のコンクールで優秀賞を獲得し、同年代のバイオリン奏者なら知らぬ者はいないほどになった。それが、二年前。夏目幽香が中学二年生の頃だった。
しかし、その頃になるとレッスンの様子も様変わりしていく。次第に笑顔はなくなり、厳しさを増していった。圭子の理想は際限なく上がっていき、求めるクオリティにも遊びがなくなっていった。幽香が夜な夜な泣いているのを、陽介は何度か見かけてしまったこともある。苦しそうに、でも母の期待に応えなきゃいけないからとバイオリンを弾く姿は、陽介にはもう見ていられなかった。
そんなある日、決定的な事件が起きる。
幽香が『国際バイオリンコンクール最年少優勝の美少女バイオリニスト』として、とあるテレビ番組に呼ばれたのだ。
幽香は煌びやかなドレスを着て、プロにお化粧をしてもらって、華やかな姿で出演した。幽香は百人に聞けば百人が美少女だと答えるほどに顔立ちが整っており、テレビ受けも非常に良かった。明るい性格で、顔も良くて、実力もある。そのテレビ出演を皮切りに、小さなブームが巻き起こった。他にも何本かテレビ出演をして、お茶の間の人気者に──
結果的には、それがいけなかった。
幽香のクラスメイトは、そんな人気者の幽香を妬んだのだ。
クラスにたまたまそういう「目立つ奴が憎い」女子が一人いた。その子はクラスの中心人物で、それまでクラスの端っこで本を読んでいるだけだったような幽香が突然人気者になるのを、どうしても許せなかった。
陽介は当時のことを詳しくは知らないが、酷いいじめを受けたということは、後になってから幽香から聞いていた。
それが原因で、幽香の心は完全に折れてしまった。
「私、もうバイオリンは……やめます」、と。
初めて圭子の前でその言葉を口にした時、圭子は冷酷な瞳で幽香を見下ろし、平手打ちをした。陽介は、それを見ていた。
限界だった。
最初、陽介はなんとかして止めようと思った。だが、結局止めることはできなかった。それは母の一言が原因だった。
「バイオリンを弾かない幽香なんて、私の娘ではありません」
聞いた瞬間、幽香よりも先に陽介の堪忍袋の緒が切れた。
「何をしてんだああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
怒り、失望、幻滅。
「ぁ……ぅう……」
圭子は幽香を見ていなかった。幽香の中にある、バイオリンの才能にしか興味がないのだ。それが分かったから、陽介は自分でも抑えきれないほどに怒り狂った。
「なんでだ。なんでだよ……母さん」
陽介は、泣き崩れて震える幽香を抱きしめた。
そこから先のことは、陽介も思い出すのがはばかられた。あまりに痛く、苦しい記憶だったからだ。
こうして、家族は崩壊した。
辛いレッスンを止められていれば。
テレビ出演を断っていれば。
ちゃんと幽香と向き合って、問題に対処できていれば。
そんな仮定だけがあとに残った。
最初は些細な過ちだった。それがやがて歪みを生み、大きくひび割れて、二度と取り戻せない傷となって刻まれた。それは時間が解決してくれる傷ではない。心に刻まれた傷は、きっと二度と癒えることがない。
両親は家を出た。息子にあれだけ言われて会わせる顔がないのだろうか。親失格だとは思うが、今でも口座に生活費を振り込んでくれるし、最低限の責任は取っているつもりなのかもしれない。許すつもりなんて、欠片もないが。
陽介は大人を信用しなくなり、幽香は兄に依存するようになり──こうして、今の夏目家の現状が出来上がった。
☆★☆
「な? 楽しい話じゃないだろ?」
「……そうね。楽しい話じゃなかった。だけど──」
数の前を歩いていた麗奈は振り返り、無理やり作ったような笑顔を見せた。
「少しは気が楽になったんじゃない?」
「……ぇ?」
「私はね」
麗奈はゆっくりと歩みを進めながら、一言一言確かめるように呟いた。
「あの時、夏目君に全部話せて、ちょっとだけ気が楽になったの。それまでは笑い方も忘れて、生きてるのか死んでるのかも分からなかったくらいなのに、今ではこうして、ちょっとだけ笑えてる」
「……」
「それって、すごいことだと思わない?」
「……僕は別に、何も」
「夏目君が違うって言うならそれでいいわよ。ただ、私はちょっとだけ救われたから、これはそのお返し」
──だから、なんでそんなに無理して笑うんだ。
陽介はその言葉を飲み込んだ。
取り繕った笑顔でも、笑顔は笑顔だ。無理してでも「笑いたい」と思えるようになった。今はそれで、十分だ。
「ああ、ありがとう。確かに僕も、誰かにこのことを話したことはあまりなかったから、気が楽になった」
「そ」
素直にありがとうと言えるのは彼の美点だな、と麗奈は思った。
初めて会った時、麗奈は陽介に「同情なんていらない」と言った。しかし、彼の過去を聞いた今は、もうそんなことは言えなくなってしまった。陽介の親は生きているが……否、生きているからこそ辛い。麗奈は両親と二度と会えないが、最後まで自分が愛されていたのだと知っている。だからこそ恋しくてたまらないのだが、それすらも許されない陽介の家庭は、あまりにも苦しくて、悲しすぎる。
陽介のことが気になったのは、それが理由なのかもしれない。孤独な牢獄に独りきり。寒くて冷たい独房だが、彼ならきっと手を伸ばしてくれる。そんな淡い期待があったのかもしれない。
いつかと同じ問いが、頭をよぎった。
──あなたに頼めば、私を救ってくれるの?
「────、」
もしかしたら、と思うとその思考を捨てることができない。一瞬でもその考えに至ると、甘い蜜のように麗奈の思考を誘惑してくる。もし彼のようなありきたりな正義が、フィクションの世界にしか存在しないようなヒーローがいるのなら、どうか私を救ってほしい。一瞬でもいいから、私にそんな希望を、抱かせてほしい──。
「着いたわ」
氷川麗奈の自宅は小さな一軒家だった。シンプルな白い外壁と茶色の屋根。どこにでもある家だ。ただ、車庫には車がなく、庭は荒れ果てている。人の住んでいる気配のしない家だった。
「んじゃ、待ってるから準備して来なよ」
「……何言ってるの、あなた」
「? おかしなこと言ったか?」
「この寒空の下、外に放置できるわけないでしょ。いいわよ、家にあがるくらい」
恥ずかしそうにマフラーに顔を埋めながらも、そうして麗奈は許可を出した。
「おおお、僕、寧々を除いたら女の子の家に入るの初めてだ」
「気持ち悪いからやっぱり外で待っててもらおうかしら」
「あー寒い! 寒いなあ! 今にも凍え死にそうだなあ!」
「こっちのセリフよ。こんなバカな掛け合いしてたら私が先に凍死するからね。体温低いから」
「シャレになってないな」
乾いた北風が吹き付ける。歩いている最中ならまだしも、じっとしていたら麗奈は特に危険だ。
麗奈が鍵を開けて家に入り、その後ろをこそこそと陽介がついて行く。
「お邪魔しまーす……」
その家はあまりにも殺風景だった。
家具は少なく、むき出しのフローリングと唯一置かれたテーブルだけが悲しげに存在を主張している。キッチンにはかろうじて調理の痕跡があり、生活が営まれていたことを証明していた。
「なんか、こう、女の子の家に遊びに来た! って感じはしないな……」
「あなたが期待してるようなのはこっちでしょ」
ドアを開けて隣の部屋へ案内する麗奈。そこはどうやら麗奈の部屋らしかった。
「あー! これこれ! これだよ! やればできるじゃん氷川!」
そこにあったのは、ザ・女の子の部屋だった。
全体的に暖色で纏められた統一感のある家具。ぬいぐるみやクッションなどが置かれて、全体的に柔らかみのある雰囲気に仕上がっている。
「すごい……やっぱ女の子の部屋には意味分かんないぬいぐるみがあるんだな……」
「意味分かんないとは失礼ね! これは黒猫のシュレディンガー君よ!」
憎たらしい顔つきでドヤ顔をしている猫のぬいぐるみを抱きかかえた麗奈が反論した。
「そういえばそのぬいぐるみ、寧々の部屋にもあったような……」
憎たらしい顔つきを見ていたら思い出した。コアなファンの多いキャラクターで、持っている人は「分かってる」人だと言っていたような、そうでなかったような。
「寧々さんってこの前の猫っぽい人? シュレディンガー君を知っているとは、なかなかやるわね」
「シュレディンガーって言うくらいなんだから箱に詰めて生死を観測されでもしたのか?」
「やめてよ! なんでそんな酷いことするのよ!」
「いや、シュレディンガーの猫ってそういう話では……」
ネーミングは適当なようだ。
「可愛いでしょシュレディンガー君。夏目君にこれをあげるわ」
手渡されたのはシュレディンガー君のキーホルダーだった。憎たらしいドヤ顔を細部まで完全再現したハイクオリティなキーホルダーだ。
「いや、まあ、女の子からのプレゼントを断るなんてことはしないが、これは……」
そうは言いつつも、シュレディンガー君と見つめ合っているとだんだん悪くない気がしてきた。
「こいつ、愛嬌があるな」
とりあえずスマホに付けてみた。悪くない。
「夏目君、着替えるから出てって」
「ん? 僕は気にしないぞ?」
「私が気にするの。バカ言ってないで出てって」
「はあい」
部屋を出て、扉にもたれかかる。すぐに衣擦れの音が聞こえてきた。
「んー、いいね!」
『何が?』
扉の向こうから麗奈の訝しげな声が聞こえてくるが、陽介は無視した。
「今のはタイツだな」
『夏目君』
「どうした氷川。ゴキブリが出たなら退治してやるぞ」
『扉の向こうにゴキブリがいるみたいなんだけど』
「……」
『早急にそこから去りなさい』
「イエス、マム」
しばらく大人しく待っていると、着替えた麗奈が荷物を抱えて出てきた。
「おかえ、り──」
陽介はその瞬間、目を奪われた。
相変わらず部屋の中でも外と同じくらい厚着なのだが、今まではずっと制服だったので私服になると新鮮だ。白いタートルネックに薄桃色のコートを合わせており、濃い紅色のスカートとニーソックスが織り成す絶対領域は陽介の視線を吸い込んでやまない。魅惑的だが上品で、純白の長髪とも良く合っている。もともと人形のような端正な顔立ちをしているのに、服装も合わさってさらに魅力に磨きがかかっている。
私服のセンスが、抜群に良い。というか言ってしまえば、夏目陽介の好みど真ん中だった。
「……視線。分かりやすすぎ」
麗奈はスカートの裾を抑えた。あまりに絶対領域をジロジロと見つめすぎたせいでバレてしまったようだ。
「何か言いなさいよ」
「ありがとう」
「突然感謝しないで。気持ち悪いから」
「じゃあ僕はこの感情をなんて表現すればいいんだ? 可愛いなんて陳腐な言葉で表現してしまっていいのか?」
「いいわよもう素直に可愛いって言えば! って、なんで自分でこんなこと言わなきゃならないのよ……」
言っているうちに恥ずかしくなって声が萎んでいく麗奈。
「にしても、僕の周りには可愛い女の子が多いな。まるでハーレム主人公になったみたいだ」
「あなたのハーレムの一員になったつもりはないわ」
「つれないなあ」