第06話 独りきりはきっと寂しいから
「どうだ? 雪に触ると体が震えるとか、フラッシュバックするとかないか?」
「いや、特にはないわ」
麗奈はしゃがみこんで雪をいじっている。顔は青白いがこれは前日と変わらない。今のところ体調は変わっていないように見えた。
「うーん、雪が原因じゃないのか?」
心象病の原因を雪と仮定した陽介だったが、変調が訪れないということは間違っていたのかもしれない。
「見てくださいお兄ちゃん。力作です」
隣で一人黙々と何やら作り上げていた幽香が、ついに完成したと声をかけてきた。見るとそこには、雪像が立っていた。
「これは……どう見ても……僕だな……」
ディティールにこだわった一分の一スケール、等身大夏目陽介像がそこに屹立していた。
「こだわりポイントはメガネです」
「……どうやって作ったんだこれ!?」
細いフレームが氷で完全再現されており、驚くべきことに着脱可能な仕様になっている。謎の技術力があった。
「なんというか、芸術家気質なのね幽香ちゃんって……」
「いやあすごいぞ幽香。雪まつりか何かに展示したら最優秀賞だ」
「お、お兄ちゃん……! もっともっと褒めてください!」
「でも幽香、このポーズはなんとかならないのか」
ボディビルダーのようなポーズをとった夏目陽介は、現実のヘナヘナ陽介と比べると悲しいほどに強そうであった。
「シュールね」
「妹の目には僕がこんな風に見えてるのか」
「お兄ちゃんは私にとってスーパーヒーローなので」
ふふんと鼻高らかに宣言する幽香。麗奈はじっとりとした目で陽介を見つめている。
「あなた、妹さんに何したのよ」
「やましいことは何も、してない……よな?」
「そんなぁ! あの日の夜はあんなに激しかったのに、もう忘れてしまったんですか?」
「夏目君、妹に手を出したの……?」
「おい幽香! 誤解を招く表現はやめろ!」
麗奈が来てから幽香の暴れ具合がすごい。まるで兄は自分のものだと主張するようだ。
「激しかったっていうのは、口論のことだ。幽香が言ってるのは、親と口論になって決別した日のことだよ」
がりがりと頭をかきながら説明する陽介。陽介としてはあまり人に話すことではないと考えていたが、麗奈にはあれこれと事情を聞いてしまっているのであまり強くは言えない。
「ふうん。あなたも苦労してるのね」
「まあ、今も父さんは毎月生活費を出してくれてるし、僕には幽香がいるからな。それだけで十分だ」
麗奈はあの日、家族全員を失った。だが陽介にはまだ幽香がいる。陽介は、今も甘える幽香の頭を幸せそうに撫でている。家族がいて、家庭がある。それは何よりも幸福なことで、代え難き温かさだ。その温もりを他の何かで代用することはできない。
麗奈はそれ自覚した瞬間、自分が狭く寒い檻に閉じ込められているように錯覚した。
そして。
だめだ──そう思った時には、もう遅かった。
「────ぁ」
ふらり、と揺れる視界。
「……氷川?」
失われていく温度。
「おい氷川っ! どうした!?」
遠のく意識。
「氷川さん!?」
麗奈は雪の中に倒れ込んだ。
異変に気がついた陽介と幽香が駆け寄るが、麗奈はまともに返事をすることもできなかった。
寒い、寒い、寒い。
孤独な牢獄に独りきり。肌を刺す寒さは、次第に強まっていく。
寒い、寒い、寒い。
氷の牢獄は決して麗奈を逃さない。ゆっくりと、確実に、その温もりを奪い去っていく。
──寂しいよ。
その一言は誰に届くこともなく、泡沫の如く消えていった。
☆★☆
それは、小学生の頃の記憶だった。
それまで祖母の家を訪れるのは決まって夏だったが、その年は父の仕事の都合で冬にずれ込んでいた。
「見て、麗奈。あれが冬の大三角形よ」
「わあ、すごい……! おばあちゃん、星ってこんなにたくさんあったのね!」
祖母の家は豪雪地帯にあり、寒さは厳しかったが、祖母と一緒にいる間は全く気にならなかった。
「麗奈の住む都会だと、街の光が強くて多くは見れないのでしょうね。ここは空気も澄んでいるし、街明かりなんてほとんどない田舎だから」
縁側に座り、祖母の隣で空を見上げる。
視界を埋め尽くす星屑の瞬き。黒いキャンバスに振りまかれた砂金の粒たちだ。空に流れる天の川は、見る者を圧倒する壮大さと美しさを兼ね備えていた。小学生だった麗奈は、ただただ感嘆した。
祖母は、見惚れる麗奈の頭を微笑みながら撫でた。
「そしてあれが、オリオン座ね」
「三つ並んでるやつなら私も知ってるわ!」
おばあちゃんに褒められたい一心で、麗奈は自らの知識をアピールする。とはいえ、特別星座への興味がない麗奈には「星が三つ並んでいる綺麗な星座」くらいの知識しかない。それでも祖母は、「すごいわね」と孫を褒めた。祖母は、麗奈に甘かった。
「もうお母さん、麗奈が風邪引くからあんまり連れ出さないでちょうだい」
家の中から麗奈の母の声がする。それを聞くと、祖母は子供のようにむくれた。
「いいじゃないのちょっとくらい。麗奈とお話しできる時間は少ないんだから」
「来年からは冬に来ることにするわ!」
「あらそう? おばあちゃん嬉しいわあ」
「おいおい、運転大変なんだぞ麗奈」
父が勘弁してくれと苦笑いする。それを聞いた母は「それくらいの家族サービスはしてください、あなた」と父をたしなめた。
「まあ、でも」
父は麗奈の隣にどっかりと腰を下ろした。
「冬に来るのも、悪くないな」
「そうね……」
母が麗奈の肩に手を置く。
家族みんなで星空を見上げて、こうして笑い合える瞬間が永遠に続けばいいのに──と、麗奈は思わずにはいられない。この時間を惜しまずにはいられない。
だから。
来年も、そのまた来年もここに来よう。
そして、星空を見上げよう。
そう、思っていたのに──
不意に、遥か彼方から光を届ける星々が雲に隠れた。
それが何かの予兆なのか、当時の麗奈は考えもしなかった。
☆★☆
「ぅ──、んん……?」
麗奈が意識を取り戻したのは、倒れてから二時間後のことだった。
「私、あれ、どうして……」
体を起こすと、そこはリビングだった。麗奈は毛布をかけられてソファに寝かされていた。
「おはよう。突然倒れたんだ。覚えてないか?」
机に向かって冬休みの課題をこなしていた陽介が立ち上がった。
「……ああ、私倒れたのね」
陽介は立ち上がり、マグカップにポットからお湯を注いだ。いつものインスタントコーヒーだ。
「だいぶ辛そうな表情してたが、悪い夢でも見たのか?」
「悪い夢……そうね、悪い夢だった」
なぜあんな夢を見せるのか。
意地悪な神様は、もう二度と取り返すことのできない風景を強制的に呼び起こす。
現実ではないと分かっているのに、もう失われた光景だと分かっているのに、手を伸ばしてしまう。そんな弱い心が、心象が、麗奈を苦しめるのだ。
「やはり雪が原因なのか? それとも寒さか……?」
「……」
突然気を失った原因は陽介には分からなかった。しかし、麗奈には漠然とした感覚があった。それを口に出すことはできなかったが。
「大人を頼った方がいいのか……? いや、だけど……」
陽介は大人をあまり信用していなかった。それはかつての親との決別に原因があった。大人は決して万能ではなく、神様ではない。自分達で何とかしなければ、問題は決して解決しない。
「ごめんなさい、迷惑かけて」
麗奈は立ち上がった。まだフラフラと危なっかしい麗奈を見て、陽介は慌てて支えた。
「お、おい。まだ寝とけって」
「だめよ。これ以上他人のあなたに迷惑をかけるわけにはいかないわ」
「その状態でどこに行こうって言うんだ?」
まっすぐ歩くこともままならないような状況で外に出るのは危険すぎると、陽介は麗奈をソファに押し戻した。
「ごめんなさい……」
「謝るなよ。僕がそうしたいからそうしてるだけだ」
再び横になった麗奈を見てひとまず安心した陽介は、「何か温かいものでも作るよ」と言ってキッチンの方へ消えた。
「……」
麗奈はポケットから体温計を取り出した。脇に挟み、数十秒後取り出すと、そこに表示されていたのは──
「三四.八度……」
昨日測ってからまだ半日も経っていないのに、既に〇.二度も下がっている。明らかに、体温の低下が速まっている。
「やっぱり……」
カウントダウンは一気に進んでいる。このペースでいけば、もう麗奈の体は一週間もしないうちに……。
「どうすれば、いいの……」
三四度台は、そろそろ身体機能に障害が出てくるとされるラインだ。もう楽観視できないところまで事態は進んでいる。
「お父さん、お母さん……」
体の芯を走る恐怖が、麗奈の心をさらに苦しめる。
起きたら冷たくなっているかもしれないと思うと、うかつに寝ることもできない。毛布を抱いて温もりを求めてみても、心が温まることは決してない。
「怖いよ、夏目君……」
涙を流したくても、あの事故の日を境に全て凍りついてしまった。
日記に体温を記録する手も震えている。
「誰か、助けてよ……」
他人に迷惑はかけられないけど、誰かに助けてほしい──なんて。
矛盾した感情が、麗奈の心に渦を巻く。
その渦に巻き込まれ、麗奈は深く、暗く、寒くて苦しい水底に沈んでいく。
そこはきっと、誰の手も届かない。
☆★☆
結局その日、麗奈は一日横になって過ごした。翌日、十二月二八日。体調もいくらか良くなって、普通に歩ける程度までは回復した。
「生きてるか?」
「残念ながら」
そんな軽口を言えるくらいには気力も戻っていた。
「やっぱり私、一旦帰るわ。雪も止んでるし」
「一旦?」
「着替え。いつまでも幽香ちゃんに借りてる訳にはいかないでしょ」
「途中で突然倒れられても困るから僕もついて行く」
「……本気?」
「本気だ」
「あなたのその行動力というか、図々しさはどこからやってくるのかしら」
「僕は可愛い女の子のためなら何でもできるぞ」
「あ、あなた、平気でそういうこと言うのやめた方がいいわよ」
学生カバンに荷物をまとめていた麗奈が手を止めてこちらを睨んでくる。平静を装ってはいるがやはり耳は真っ赤なのでバレバレだ。
「ま、まあいいわ。また倒れたら、その時はよろしくね」
「承った。おんぶで病院まで運んでやる」
「やめて」
「お姫様抱っこの方がいいか?」
「もっとやめて」
「ならどうしろと? 米俵みたいに担ぐか?」
「そんなことしたら地の果てまで追いかけてあなたを刺し殺してから私も死ぬわ」
だいたい陽介は人一人を抱えられるほどの筋力さえない貧弱高校生なので、どの案も実現はできないのだが。
「幽香ー、氷川と出かけてくるからお留守番頼むなー」
二階にいる幽香に声をかけると、程なく返事があった。
「氷川さん、お兄ちゃんの半径一メートル以内に近づかないようにしてくださいねー、私が私でなくなってしまうのでー」
怪物か何かに変貌するのだろうか。
とりあえず、麗奈と陽介は冬休みの課題と戦っている幽香を家に残して家を出た。
「それじゃあ、行ってきます」
「お邪魔しました」
鍵を閉めて駅までの道のりを歩く。例によって制服姿の麗奈はフード付きのパーカーを着て、髪を隠している。日本において白髪の学生は目立ちすぎる。
「氷川も『行ってきます』でいいのに」
「なし崩し的に二日も泊まっちゃったけど、あそこは私の家じゃないもの」
「もう自分の家だと思ってくれていいのに」
「無理よ。そう簡単には」
「そういうもんか」
「そういうもんよ」
駅への道はきっちり雪かきがされており、滑ることもなさそうだ。
「体温上げるには運動がいいらしいし、一駅くらいなら歩いてみるか」
「私は別にいいけど……」
そんなやり取りがあり、麗奈の家まで歩いてみることにした。
ゆっくりと町並みを眺めながら歩く。
「……」
こうして後ろ姿を見ていると麗奈はただの女子高生なんだな、と陽介は思う。スカートを揺らし、黙々と歩く少女。その姿はあまりにも儚い。今にも消えてしまいそうに見えた。
──救ってやりたい。
日に日にその思いは増していくが、どうすればいいのか分からない。麗奈にも陽介にも、頼れる大人はいない。自分たちでなんとかしなきゃいけない。自分で、自分で、自分で……。
「夏目君?」
「え?」
「どうしたの? ものすごく怖い顔してる」
「そ、そうか。いや、なんでもないんだ」
「なら、いいけど」
いつの間にか隣にまで来ていた麗奈が顔を覗き込んでいた。陽介はそれにも気がつかなかったのだ。
「か、顔が近い」
「何よ。そんなに嫌がらなくてもいいじゃない」
むすっとしてそっぽを向く麗奈。今のは、彼女なりの心配だったのだろうか。
「ありがとな。自分のことでいっぱいいっぱいだろうに」
「……は? 何もしてないわよ、私は」
やはりどうもツンツンしている。麗奈はなかなか心を開いてくれない。
「……」
「……」
気まずい沈黙が多い。距離感が掴めないせいで、どちらから話しかけるのかタイミングを失っているのだ。やはり寧々のようにうまくはいかない。
「……何か言いなさいよ」
痺れを切らした麗奈が口を開く。
「何かって、何を言えばいいんだ」
「私のことばっかり話して、あなたの話聞いたことないわ」
「僕の話なんて、何も面白くないぞ」
「私の話だって別に何も面白くはないわよ」
麗奈は曇り空を見上げて、物憂げな表情で問うた。
「ご両親と何かあったの?」
「ああ……」
「幽香ちゃんの部屋には写真が何枚か飾られていたけど、その中にご両親の写ったものは一枚もなかった。家の中に、両親の存在を感じさせるものは何も残ってなかったわ」
「よく見てるな」
「二日も生活してれば分かるわよ」
麗奈の言う通り、あの家には両親の痕跡は一切ない。念入りに陽介が消したからだ。
「よく分からないけど私、あなたに興味があるみたい」
「よく分からないって、自分のことなのに」
「しょうがないでしょ。こんな感情、久しぶりなんだから」
「……まあ、道すがら話すくらいならいいか。繰り返すが、そんなに愉快な話じゃないぞ?」
そして、陽介は語り始めた。
些細なすれ違いが生んだ悲劇の物語を。
夏目家を取り巻く、歪な物語を。