第04話 自慢のコレクション
「すっかり夜になっちゃったわね……」
「雪、やまないな」
昼頃から降り出した雪は日が暮れても止む様子はなく、夕飯を食べているうちにすっかり積もってしまっていた。
「氷川、ここから家までどれくらいだ?」
「電車で一駅くらい」
「微妙な距離だな……」
しばらく思案し、陽介は答えを出した。
「うちに泊まってくか?」
「……まあ、そうなるわよね」
目を押さえて天を仰ぐ麗奈。
「お言葉に甘えてもいいかしら、と言いそうになる自分に嫌気がさすわ」
「だいぶ慣れてきたな」
「あなたの人との距離感が意味不明すぎて感覚がおかしくなっちゃったのよ。……まあ、でも」
窓の外の雪を眺めながら、麗奈はぼそりと呟いた。
「どうせ家に帰っても私一人しかいないし、心配してくれる親はもう死んじゃったから」
「……」
「本当に泊まってもいいの?」
「ああ。ウチも親はいないからな」
「都合がいいのね」
「御都合主義万歳だな」
「それじゃあ、お風呂借りていい?」
「リビングを出て左の扉だ」
「ありがと」
言葉に従ってリビングを出て行く麗奈を見送ると、幽香が声をかけてきた。
「問題は解決しそうなんですか?」
「どうかな。分からん」
「……そ。じゃあまた解決するまでは忙しくなるんですね」
「お兄ちゃんが遊んでくれなくて寂しいか?」
「寂しいです」
「……」
もっと違ったツッコミに期待していたのだが、違った。幽香は真っ直ぐな視線で陽介を見据えている。
「辛くて悲しくて気が狂いそうです」
「わ、悪かったよ」
「お兄ちゃん。今私が『辛すぎて自殺する』って言い始めたら、私のことを見てくれますか?」
「それは……」
答えられない陽介に対して、幽香は緊張を緩めてにっこりと笑った。
「……ごめんなさい。意地悪な質問でしたね」
そう言って幽香は席を立った。
「私の時みたいに、きっとあの人もお兄ちゃんに救われるんでしょうね」
リビングを出て行く間際、振り返った幽香の表情は──
「たまには私にも構ってくださいね。じゃないと、死んじゃうので」
無理やり作った笑顔を貼り付けたような、そんな空虚さがあった。
☆★☆
「あ」
リビングに取り残され、しばらく手持ち無沙汰になっていた陽介は、麗奈に着替えとタオルの場所を教えていないことに気がついた。幽香から麗奈用の服を借りてから、脱衣所のドアを叩く。反応はないので風呂からは出ていないと判断。オールクリア。突入。
麗奈はまだ風呂に入っていた。出てくるところに鉢合わせるなんて漫画のような展開にならなくてよかったと陽介は安心した、が。
「氷川」
『ぅひゃいおっ!?』
バシャバシャガラドカバタバタドボン!!
「……すごい音したけど大丈夫か?」
『大丈夫じゃないっ!』
なんか、氷川は意外にビビリなのかもしれないと陽介は思った。
『何の用よ!』
「いや、タオルと着替えの場所言ってなかったと思って。タオルは棚の下から二番目の引き出し。着替えは幽香のを適当に持ってきた。洗濯機の上に置いとくぞ」
『あっ!!』
「今度はなんだ」
『夏目君、絶対に洗濯機の上に置いてあるモノを視界に入れないで』
「今から着替えを置こうとしてるのにどうすればいいんだよ」
『置き場所なんて他のどこでもいい! だから、洗濯機の上にあるものは絶対に見ないで!』
そんなことを言われても。
「もう視界に入っているんだが」
『あ――――――――――っっ!!!!』
それはそれは見事な……ピンク色の……下着だった。
丁寧に折りたたまれた制服の上に鎮座する白桃色の布地。それは世間的に『パンツ』、『ブラジャー』と呼ばれる代物に他ならなかった。
意外に可愛らしいのをつけているんだな……とか言ったら殺されるんだろうなと思い、陽介は仕方なく合掌をして感謝の祈りを捧げるのみにした。
『出て行って! 可及的速やかに出て行って!』
半泣きの叫び声に陽介は胸が痛くなった。せめてしっかり拝まねばと思い、より一層の感謝を込めて祈りを捧げた。
「悪かったよ。だけど下着をそのままにしてるお前も悪くないか?」
『独り暮らしだったから忘れてたの! あと入ってくるなんて思わない!』
「どうどう。分かった分かった。落ち着け。もう出て行くから。あ、最後に」
『何よ』
「いくら曇りガラスと言えど、そんな仁王立ちしてればシルエットくらい見えるぞ?」
『にゃぁっ!?』
バシャァン! と水に突っ込んだ音を聴きつつ、陽介は脱衣所を出た。背後から『もうお嫁に行けない……』と嘆く声が聞こえたが、無視した。
☆★☆
風呂から出てきた麗奈は幽香が普段使っている水色の可愛らしいパジャマを着ていたが、その見た目に反して、それはもう機嫌が悪かった。
「私はどこで寝ればいいの」
「二階の突き当たりにある部屋でございますお嬢様」
「ふんっ」
陽介は自分の荷物を持ってずんずんと部屋に向かう麗奈を見送った。お嬢様はお怒りのご様子だ。触らぬ神に祟りなしである。
「んー」
陽介は麗奈に色々聞こうと思っていたのだが、どうやら明日の方が良さそうだと判断した。今日できることといえば──
陽介はふと思い出したようにスマホを取り出し、履歴の一番上にある番号に電話をかけた。数度のコールの後に聴き慣れた声音がスマホから聞こえてくる。
答えたのは白坂寧々。藤が丘高校二年二組。陽介の隣のクラスに所属する幼馴染である。陽介と寧々は小学生からの付き合いだ。
『ん』
「ん」
世界最短の挨拶を交わし、陽介の頼れる相談相手であるは眠そうな声を上げた。
『どした?』
「招集」
『……またなんか厄介ごと?』
「そんなところだ」
『面倒くさいなあ』
「今度ドリームキャッツのパフェ奢るから」
『……んー、アタシの扱い方を良く分かってるにゃあ』
ドリームキャッツとは駅前にある猫カフェのことで、そこのパフェは寧々の大好物であり、同時に陽介の切り札でもあった。
ということで、陽介はベランダに出た。ほぼ同時に、隣の家から窓を開ける音が聞こえる。「招集」に応じた寧々だ。
「もう、お風呂入ったばっかりだったのに」
寧々はタオルでわしゃわしゃと髪の毛の水分を拭っている。普段はツーサイドアップにまとめられている長い黒髪は、湿り気を帯びて艶やかに部屋の明かりを反射している。もこもこの長袖パジャマを着ており、わずかに赤く上気した頬は風呂上がり故だろうか。
「この前のクリスマスパーティ以来?」
「二日ぶりだな」
毎日のように顔を合わせている仲なので、二日も空くとご無沙汰しているような気分になってしまう。
「プレゼントありがと。スマホに付けてみたよ」
「気に入ったなら良かった」
ポケットから取り出したスマホには、肉球の意匠が施されたストラップが付いていた。夏目兄妹と寧々は、毎年クリスマスにプレゼント交換を行っている。お互いの財布事情を考えて無理しない程度に、ちょっとしたものをプレゼントするのである。ちなみに陽介はマフラーを貰った。手編みだというそれは、お金がかかっていない分、手間と時間がかかっているのがよく分かった。今朝学校に行く時に付けていたマフラーだ。
「悪いな、いきなり呼び出して」
「悪いと思うなら毎日のように呼び出さないでくれるかな! ……まあ、別にいいけど。んで、どしたの?」
「それなんだがな」
とりあえず陽介は、幽香にしたものと同じ質問をぶつけてみた。
「人間の体温ってどこまで下がるとヤバいんだ?」
「OK、グー〇ル」
「ネット検索方法は僕にも分かるからな?」
そうじゃなくて、と陽介は氷川麗奈の身に起きたことを話してみた。あまりベラベラと他人に話すようなことでもないが、寧々は信頼の置ける人間であると陽介は判断していた。
「なるほど、今回のお悩み相談はいつもよりシリアスだね」
「ああ。場合によっちゃ、命に関わる」
「雪崩に巻き込まれて一人だけ生き残った、かぁ。正体不明の病気だとしても、少なくとも心因性なのは間違いないよね」
「相当心に来てるんだろうとは思うんだが……どうやったら取り除いてあげられるのかが分からん。どう思う?」
そう問いかけてみると、しばらくの沈黙があった。「寧々?」と声をかけると、そこでようやく返事があった。
「……陽ちゃんはすごいね」
その台詞は、しきりに寧々が口に出すものだった。ベランダの手すりに腕を乗せ、空を見上げている。
「アタシはアタシのことしか考えられないよ。他人のことを考えてる余裕がない」
「寧々だってみんなに優しいじゃないか」
「そういうことじゃないよ。困っている人を見かけて一歩踏み出せるのは勇気であって、優しさじゃない」
その言葉が、陽介の心を優しく撫でた。
「優しさだけじゃ人は救えないんだよ。きっと」
「僕はそんな大したことは……」
「その勇気を忘れないでね。陽ちゃんの勇気に救われた人は、ここにいるから」
しばらくの沈黙の後、あーダメダメと寧々は意識的に声のトーンを明るくした。
「どうやったら心のケアができるかだったね」
何事もなかったかのように話を続け、うーんと唸り始めた寧々。ふと空を見上げ、中空に手を差し出した。そして今もチラチラと降り続けているそれが手に舞い降り、瞬時に溶ける。
「せっかく雪が降ってるんだしさ──」
そこで、寧々から一つの提案がなされた。陽介はうんうんと頷きつつ、その案を吟味していく。そして──
「試してみる価値は、ありそうだな」
「力になれた?」
「ああ。いつも迷惑かけて悪いな」
「こんなの迷惑なんて思わないよ」
寧々はふっと微笑むと、踵を返した。
「その子もちゃんと救ってあげてね。──アタシの時みたいにさ」
その優しい声音は、寧々が去った後も陽介の心に残響していた。
☆★☆
「冬休みの間だけです」
とある一室で、女が二人向かい合っていた。
「……ここ、あなたの部屋だったのね」
二階の突き当たり。そこにある部屋には先客がいた、というかその部屋の主がいた。
「ええ。私の部屋です。お兄ちゃんのお願いじゃなかったら敷居をまたいだ瞬間にゴキブリのように叩き潰しています」
夏目家には現状空き部屋がなかった。元両親の部屋は物置にされ、人一人が寝るスペースもなかった。
「この家の住人、私の扱いが酷くないかしら」
「邪魔者ですから」
「私だって来たくて来た訳じゃないわよ」
「だから、冬休みの間だけです」
「……?」
「冬休みの間だけ、お兄ちゃんとこの家をお貸しします。その間に解決するなり、心の整理をつけるなりして出て行ってください。お兄ちゃんは私のものなので」
「とんでもない独占欲ね」
「当たり前です。私にとってお兄ちゃんは一人しかいない家族なんですから」
「……え? ご両親は亡くなっているの?」
麗奈は「両親は今いない」としか聞いていなかったので思わず聞き返した。
「いえ。正確には生きていますが、あれは存在していないようなものなので」
「そ、そう……」
麗奈は複雑な事情があるのだろうとそれ以上踏み込むのはやめた。
「冬休みは短いですよ。さっさとなんとかして出てってくださいね」
「はいはい、分かったわよ」
麗奈は隅に学生鞄を降ろした。自殺しようとしておきながら荷物を捨て置けなかったなんて、酷い笑い話だ。
ようやく腰を落ち着けた麗奈は部屋を見渡す。そこは女子高生にしては少し変わった部屋だった。まず目につくのは、棚に綺麗に並べられたDVDだ。それも、ホラー映画ばかり。
「ああ、それは夏目幽香自慢のコレクションですよ」
「女子高生らしくない趣味ね……」
「お兄ちゃんと一緒にホラー映画を見るのが私の生きがいなんです。お兄ちゃんは怖がりなので、大きな音が出るシーンなんかだとぎゅって手を握ってくれるんですよ。可愛らしいですよね」
「可哀想の間違いじゃなくて?」
ホラー映画が苦手なのに妹に付き合って見続けている陽介は、やっぱりお人好しなのだろうと麗奈は思った。
「この前観たやつは傑作でしたね。最初はオーソドックスな心霊現象ものなんですけど、死んだはずの主人公の妹の幽霊が背後に突然スッと出てきて『なんであの時見捨てたの?』って」
「……っ」
再現度の高い声真似に麗奈は思わずビクッと跳ねる。
「そう言った瞬間…………お兄ちゃんが、ふへ、抱きついて来たんですよお」
「……すごいだらしない顔してるわよ今」
「私ぃ、もう死んでもいいなって。このためにホラー映画を観てるんだなって。えへへえ」
「ホラー映画好きな理由はそれなのね……」
「だって、震え声で『幽香、お前は化けて出たりしないよな……?』ですよ? 普段はあんなにクールなイケメンなのに、こんな時だけ子犬みたいな顔して私を見上げてくるんですよ? 母性本能がオーバーヒートしてヘヴンにアイキャンフライですよ」
「頼むからいきなりトばないで……」
この話題は兄妹の深淵に潜む闇を覗くことになると分かった麗奈は、違う話題を必死に探した。
そこで次に見つけたのが、バイオリンだ。ケースに入れられ、ベッドの隣に立て掛けてある。近くにはコルクボードも壁に掛けられており、そこには何枚かの写真が留められていた。
「これは……夏目君と、幽香ちゃん?」
クールダウンしてヘヴンからカムバックした幽香はベッドでファッション雑誌を読みながら「そですよ」と答えた。
コルクボードに貼られた写真に写るのは、二人の仲睦まじい兄妹だ。バイオリンの発表会だろうか。小学生高学年くらいの陽介に、可愛らしいドレスで着飾った幽香が賞状を持って抱きついている。また、ある写真は川辺で水遊びをする二人と、もう一人少女が写っている。麗奈には誰か分からなかったが、幽香が「お隣の寧々さんです」と説明した。その写真で寧々は、兄妹が水を掛け合っているのを、川べりに腰掛けて穏やかな笑顔で眺めていた。
そこに留められた写真は、どれも幸せな一瞬を切り取ったものだ。ただ──
どれも小学生くらいの頃の写真で、中学生のものは入学式の写真一枚のみしかないのが、麗奈の胸にわずかな違和感を残した。
「……ん?」
写真を見ていると、麗奈はコルクボードの端に何か挟まっているのを見つけた。これも写真なのだろうかと裏を見ようとすると、
「そのコルクボードは外れやすいのであんまり触らないでください」
「ご、ごめんなさい」
突然凄みのある声を出されて、麗奈は咄嗟に手を引っ込めた。
なんとも言えない静寂が部屋を支配した。気まずくなった麗奈は下に立てかけられたバイオリンに話題を移した。
「バイオリン、聴いてみたいかも」
「やです。もう発表会にも出てないですし、人に聴かせるほど上手くないので」
そう言って、幽香は素気無く断った。
「……ま、無理にとは言わないけど」
そうは言ったが、小学生の頃に賞状を取っているという幽香が下手だとは麗奈には考えにくかった。
加えて、バイオリンのケースには全く埃が溜まっていなかった。それは日常的にバイオリンを使っているという証拠に他ならない。
「もう寝ましょう。そのテーブルをどかしてください」
「あ、ちょっと待って」
麗奈はそれを止めて、学生カバンからノートを取り出した。体温計を脇に挟み、表示された数値を体温をノートに記録する……のだが。
「……」
体温計は三五度ちょうどを示していた。
──おかしい。
前日のは体温が三五.三度。〇.三度も下がっている。たまたまだろうか、と測り直してみても結果は変わらず。もしこのペースで下がったら、一週間もしない内に……
「何をしてるんですか?」
はっと、現実に引き戻される。
──きっと、今日はいろいろあって調子が悪かっただけだ。
「日記よ」
そう適当に返事した。思い悩んでも、解決法なんてないのだから。
陽介に言わせれば、これもきっと生への執着なのだろう。自分が生きた証を残そうという深層心理。意識していなかったが、どうやら自分は相当死にたくないらしい。醜い感情だなと、麗奈は自分で自分が嫌になった。
その後麗奈は、幽香の言う通り部屋の真ん中にある円形のテーブルをどかした。幽香はそのスペースに、押入れから取り出した敷布団を広げた。
「お兄ちゃんがホラー映画見すぎて一人で寝れなくなった時用の布団です。よかったですね、地べたに寝ずに済んで」
「そ、それはありがたいんだけど……」
麗奈はふと頭をよぎった疑問を幽香にぶつけた。
「そのお兄ちゃんが使った布団に、私が寝ていいの?」
「…………………………あっ!!」
数秒の沈黙の後、麗奈の言わんとしていることを理解した幽香は猛烈な勢いでまくしたてた。
「だ、ダメに決まってるでしょう! ダメです! ダメダメです! あなたは私のベッドで寝てください! 私が……お兄ちゃんの使った布団で寝ますッ!」
そしてそのようになった。
「お、お兄ちゃんの布団……!」
早速その布団に潜り込んだ幽香は恍惚とした笑みを浮かべていた。
「なんで今まで気が付かなかったんでしょう、こんなにも近くにお兄ちゃんを感じられたのに……!」
掛け布団に顔を埋めた幽香は「おっほほ」と声を漏らした。あまりの刺激に気絶しかかっている。
「えへへ、お兄ちゃん、罪深い妹をお許しください、ふへ……すぅぅぅぅぅう、はぁぁぁぁぁあ」
「……」
幽香のベッドを借りて横になった麗奈は、今頃になってようやく気がついた。
本当に、ヤバい兄妹に出会ってしまったのだと。