第03話 冷えた心と温かい鍋
「きのこ」
最寄りのスーパーで鍋の具材を吟味している時のことだった。
「きのこ……」
陽介の手元にあるパックを睨みつけながら、麗奈は隠しきれない嫌悪感とともに言った。
「きのこはだめ」
「あ。おまえ、まさか」
「だめ」
気配を殺し、いつの間にかに陽介の手からパックを奪い取った麗奈は静かに元の場所に戻そうとする。陽介はその腕をがっちりと掴んだ。
「きのこのない鍋は──」
陽介は自分の中の信念を貫き通すため、しかめっ面をしている氷の女王にもの申した。
「果たして本当に鍋と言えるだろうか?」
哲学である。
「鍋の中に入っていればなんでも鍋よ」
「……………………はぁ」
心底理解できないといった様子の陽介が麗奈を諭した。
「いいか? 鍋とはな、きのこの投入をもって完成と為す」
「じゃあ未完成の鍋でいいわ」
「いくない!」
仕方ないなと陽介は眼鏡をかけ直した。
「鍋にとってきのこはまさに心臓だ。うまい出汁を出す役割だけでなく」
「ネギがほしいわネギ」
「おい」
「肉は鳥肉よね」
「聞け」
「お豆腐も捨てがたい」
「きのこも捨てがたい」
「きのこはいらない」
「チッ」
「シメはリゾット? 中華麺?」
「きのこたっぷりリゾットだ」
「リゾットね」
ほいほいとカゴに具材が投下される。
サブリミナル効果を狙ってみたが見事にきのこだけ跳ね返されてしまった。
「未だかつて我が家にきのこのない鍋が出たことはないんだぞ。お前は我が家の歴史を否定するのか?」
「新たな歴史の一ページを刻んであげるわ」
麗奈は手慣れた様子で陽介の持ったカゴに具材を揃えていく。
「まさか氷川、料理が得意なのか?」
「当たり前よ。一人暮らしだもの」
「意外だ」
「悪かったわね料理ができなさそうで。あとでキッチン借りるから」
麗奈は少し恥ずかしそうにマフラーに顔を埋めた。
「これは助けてくれたお礼。女の子の手料理よ。ありがたく思いなさい」
「自分で自分を女の子て」
「事実でしょ」
と言いつつ、透き通るような白い頬に赤みがさした。元が白いので、とても分かりやすい。
「楽しみだなあ、料理が得意な美少女の手料理」
「そ、そこまで大げさに言ってないでしょ。茶化すならもう作らないから」
「悪かったよ」
「きのこでもなんでも入れればいいわ」
「きのこに恨みでもあるのか」
怒り出し、フードを深くかぶりマフラーに顔を埋めて、ずいずいと鮮魚コーナーに進む麗奈。その後を陽介は必死で追った。カゴに入った具材が重い。
「あらあら、カップルかしら。微笑ましいわねえ」
「ほんとねえ」
お買い物中のおばさんたちにニヤニヤ見られていることに気がついた麗奈がビタッと止まる。耳が真っ赤になっている。
「ぁぁぁぁぁ……ハズカシイ……」
これまで一年近く他人との関わりを絶っていた麗奈にとって、この辱めは相当な大ダメージだった。
「……僕もちょっと恥ずかしくなってきた」
「……」
「お会計して、帰ろうか」
こくりと頷いた麗奈とともに、陽介はレジへ向かった。
二人の間には、絶妙に距離が開いていた。
☆★☆
帰り道。スーパーのレジ袋を片手に提げ、積もり始めた雪に足を取られないように気をつけて歩く。ギュム、と新雪を踏み潰す音が一定間隔で響いている。
「いいから片方貸しなさいよ」
麗奈は傘をさしながら、もう片方の手を突き出している。
「女の子に持たせる訳ないだろうが」
「出るときは荷物持ちだって言ってたじゃない」
「あれは氷川を連れ出す建前だ」
理由をつけないとついてこないだろうと陽介は考えたのだ。
「幽香に対する言い訳も兼ねてる」
「……妹さん、あなたにとても懐いてるのね」
「昔はああじゃなかったんだぞ。ちょっと前に色々あって、それ以降今みたいな感じになった」
「夏目君のことだから、妹さんが困ってるのを助けてあげたんでしょう。私みたいに」
「まあ、そんなところだ」
陽介が困っている人を見捨てられなくなったのは、ちょうど二年前の事件があった頃からだ。本当に困っている人を見かけると、その人の辛い気持ちが伝わってくるのだ。見過ごすことが、できないほどに。
「優しいのね、夏目君は」
「困ってる人を助けるのは当たり前のことだ」
「その当たり前のことができる人は、意外に少ないのよ」
それは麗奈の経験によるものだった。麗奈は自らの身に起こっている異常を大人達に訴えたが、誰一人まともに接してくれなかった。大人達は、事故が原因で心がおかしくなってしまったのだと、同情の目を向けてくるだけだった。
だから、陽介が初めてだったのだ。
親身になってこの現象に向き合ってくれたのは。
「そういうものかねえ」
陽介は麗奈のそんな事情を知る由もなく、ただ当たり前のことをしただけだと主張した。
麗奈は、その当たり前は異常だと考えている。進んで面倒ごとに首を突っ込む人なんていない。自分がよければそれでいい。究極的には他人事なのだから、見ないふりをすれば終わり。そんな人間はいくらでもいるし、それが悪いこととも思わない。
「む……すまん。ちょっとここで待っててくれるか。これ頼む」
ふと、突然陽介はレジ袋を麗奈に託して走り出した。
「ちょ、」
麗奈は何事かと止めようとしたが、陽介の向かう先を見て口を閉ざした。
歩道橋。荷物を抱えながら一段一段苦労して登っている老婆がいた。そのおばあさんを陽介は助けに行ったのだ。代わりに荷物を持ち、雪に足を取られないように気を配りながら、おばあさんを向こう岸まで案内する。
「……」
その様子を麗奈は呆然と見ていた。
陽介は人とは違う。彼は何か、病的な衝動に突き動かされるように人を助けていると、麗奈は感じていた。
ぼんやりとその様子を見ているうちに陽介が戻ってきた。
「おばあさん、昔あの歩道橋の階段で怪我したことがあるんだそうだ。だからあんなにおっかなびっくり登ってたんだな。確かに一段が高いし危ないよな、あの歩道橋の階段は」
「そう、ね」
違和感が拭い去れないまま、麗奈は帰ってきた陽介の言葉に返事をした。
「袋ありがとう、帰ろう」
ひょいとレジ袋を奪い、陽介は再び歩き出した。麗奈は無言でその背中を眺め、
「お、おい、荷物はいいって」
右手のレジ袋を奪い返した。そして、
「代わりにこれ、持って」
自分の持っていた傘を差し出す。
陽介はしばらくぽかんとした顔をしていたが、ふっと微笑んだ。
「いいよ」
そう言って、傘を受け取った。その隣に麗奈が並ぶ。
「狭いわ」
「仕方ないだろ。そんなに大きい傘じゃないんだ」
「私体温下がると危ないんだから、もっと傘の面積をこっちによこしなさい」
「もっと寄ればじゃないか」
ずいっと陽介が麗奈に近づく。これで一応二人とも傘の中に入った訳だが──
「……近い」
「……言うな。恥ずかしがるとこっちまで恥ずかしくなるから」
「うん……」
陽介と麗奈は、ぶつくさと文句を言いながら二人並んで歩いた。
嫌々ながらも距離が縮まったのは──
きっと、降りしきる雪のおかげなのだろう。
☆★☆
結局きのこは鍋に投入されていた。よく考えれば自分の分を取るときにきのこを入れないように気をつければいいだけの話だった。
「氷川」
「何よ。味付け微妙だった?」
「いや、キムチ鍋って、こうも美味くなるもんなのか……?」
白菜を口に運んだ陽介は、感動していた。
目の前に置かれたキムチ鍋に「お前本当にキムチ鍋か?」と疑惑の目を向ける。
「……ん。美味しいですね……」
小姑みたいにダメ出ししてやると意気込んでいた幽香も見事に陥落していた。
実際、ピリリとしたキムチの辛味の中にチーズのまろやかさが絡み合った具材はどれも格別で、ご飯がよく進んだ。特にきのこ。きのこが最高。
作る際の手際から料理慣れしているのはよく分かったが、まさかここまでとは陽介も思っていなかった。
「だいたいキムチ鍋なんてキムチと具材と調味料ぶっ込んで終わりだろう? ここまで差が出るのはおかしい……」
「甘いわね」
麗奈は褒められて機嫌が良いのか、普段は幽香が使うピンク色のエプロンをつけたままおたまを構え、よく分からないポーズをとった。
「重要なのは……チーズ」
「「チーズ」」
「チーズの塩味が出るから調味料は控えめ。豆腐は絹ごしより味が染み込む木綿。そして……鶏肉や木綿豆腐はチーズとの絶妙な相乗効果を発揮する」
「「おお……」」
陽介と幽香は普通に感動していた。両親が家を出て以来、こんなに美味しい手料理を食べたのは初めてだったからだ。
一見無表情だが、麗奈なりのドヤ顔なのか口角がわずかに上がっている。それに対し幽香は「ぐぐぐ」と唸りながら、
「く、悔しいけど……認めざるを得ないです。今は、あなたの方が強い」
「いや、料理漫画じゃないんだから……」
大したことはしてないし、と麗奈が呆れている。
「自分の料理を自慢げに解説する姿はまさに料理漫画だったけどな」
「でしたね」
「う、うるさいわね。美味しいなら黙って食べなさい」
その言葉を聞きながら、陽介はこのわずかな時間の中で麗奈の表情がだいぶ柔らかくなったと感じていた。誰かと打ち解けるにはやはり食事がいい。
「それにしても……」
幽香が食卓を見回し、しみじみと言った。
「お兄ちゃんや寧々さん以外の人と食事するなんて、久しぶりです」
「そう、だな」
「……私も」
食卓には温かさがあった。
夏目兄妹も氷川麗奈も、互いに親の温かさを忘れてしまった子供だ。その三人が一つの場に集って鍋を囲んでいるというのは、間違いなく幸福な光景だった。
こうしてあれこれと喋りながら美味しそうに鍋をつつく夏目兄妹を見ていると、麗奈の胸は少しだけ温かくなった。失われて久しかった光景に、思わず涙が出そうになる。
しかしその反面、自分にはもう家族がいないのだと感じる瞬間が、前より少し辛くなっていた。
この光景は私のものではなく、あくまで夏目兄妹から借りた温かさなのだと、麗奈は自分を追い詰める。
偽物の温もりは心を芯まで温めてはくれない。
麗奈は一歩引いたところから夏目兄妹を見据える。麗奈にはないものを、彼らは持っていた。
羨ましいのか、妬ましいのか、手に入れたいのか奪い取りたいのか、それとも仲間に入れて欲しいのか。麗奈自身にも分からない。
ただ、考えれば考えるほどその温もりが遠ざかっていくような気がした。
ああ、寒いな、と。
麗奈は一人、俯いた。