第02話 どうしようもなく無遠慮で無神経で無責任な瞳
「これでも一時期よりはだいぶ落ち着いたのよ」
事故の直後は寝て起きるだけの生活だった。それに比べれば、毎日何かしら口にして、今日この日までちゃんと生きてこれただけでも大きな進展だった。学校の屋上に立ってみて、麗奈は理解していた。自分はまだ死にたくないと考えているのだと。
足が震えた。恐怖があった。生にしがみつこうとしている自分がいた。
「あと一歩で諦められたのに。あなたのせいよ、あなたが私の覚悟をへし折った」
両親を失った麗奈は生活保護を受けながら一人で暮らしていた。学校に行けるような精神状態ではなく、家にこもりきり、細々と命を繋ぐだけの作業。またあの生活に戻るのだと思うと、少しだけ苦しかった。
「……」
生徒会室には、ヒーターから漏れ出る機会音だけが小さく鳴り響いていた。温風が、新雪のような麗奈の白髪を揺らした。
「今すぐにでもこんな忌々しい髪、切りたかったけど……お母さんが褒めてくれた髪だから、切れなかった」
ヒーターの前で体育座りをしていた麗奈はそう言って一束、自らの白髪を手に取った。指の間から流れ落ちる純白の糸が、光を反射して宝石のように輝いている。
「僕も綺麗だと思う」
「褒められても嬉しくない。これは、私の心が弱い証だから」
恥ずかしげもなくそう告げる陽介に、麗奈は自嘲を含んだ笑みを漏らした。
事件から一年近くが経ったとはいえ、麗奈の心はまだ整理できていなかった。自殺しようとしたのもその表れだ。だが、自殺未遂に及んだ最も大きな理由は他にあった。
麗奈がそれを他人に話そうと思ったのは初めてのことだった。なぜ話そうと思ったのかは分からない。
──あなたに頼めば、私を救ってくれるの?
「────、」
はっ、バカバカしい──と、麗奈は思考を切って捨てた。一瞬でもそんな考えに至った自分に嫌気がさしたからだ。ありきたりな正義なんてフィクションの世界でしか存在し得ない。そんな希望を見せるくらいなら、最初からない方がマシだ。
なのに。
なぜか。
まるで心の奥底に眠った痛みを見通されるような視線に。
麗奈は知らず知らずのうちに、口を開いていた。
「私が自殺しようとしたのは、放っておいてもいずれ死ぬと分かったからよ」
「……難病にでもなったのか?」
「違うわ」
麗奈は、最後の──最期の望みを託すように、言った。
「私の体温は、あの事件を境にわずかずつ下がっている」
「……は?」
低体温症とかだろうか、と陽介は首を傾げた。
「一時的なものじゃない。私の一日の平均体温は、決して前日を上回らない。そして、徐々に下がっている」
「……それって、つまり」
「ええ。私は、放っておけばいつか凍死する」
陽介の向かいの椅子に座った麗奈は、ポケットから体温計を取り出した。ブラウスのボタンを二つ開けて脇に差し込み、数秒待つとアラームが鳴った。結果が出た体温計を、麗奈は陽介に見せた。
そこに記された数値は、三五.二度を示していた。
「事故前の私の平均体温は、三六.七度だった」
確かに、ヒーターに当たってちゃんと温まった直後にこの数値は、いささか低い。一般的に人間の体温は三六.五度前後と言われる。三六度を下回ると身体に震えが走るようになり、三五度ともなると自律神経失調症などの症状が見られるようになる体温だ。事実、麗奈の顔色は蒼白で、とても健常者とは思えない状態だった。
「異変に気がついたのは半年前。寒気が止まらないと思って体温を測ったのがきっかけ」
そこから半年間、麗奈は体温を記録し続けた。そして、自らの平均体温が徐々に下がっていることに気がついたのだ。
「もちろん病名なんてない。死ぬにしてもこんな意味不明な死に方なんてしたくないから病院に行ったわ。でも、医者もお手上げだって」
「……」
「凍えながら死ぬなんてもうごめんだから、早く終わらせようと思ったのに……もう、そんな勇気すら私の中には残っていない」
陽介はあの時握った手の感触を思い出していた。
ひんやりとして、まるで死人のような手。
部屋でも取ろうとしないマフラー。
「そういう、ことか」
「どう? これで納得してくれたかしら。私が自殺しようとした理由」
「ああ、よく分かった」
「そう。分かったならいいわ。じゃあこの話はここで終わり。それじゃ──」
「ってことは今、氷川は一人で暮らしてるのか?」
「……そうよ。だから何?」
「うち来いよ」
「……はぇ?」
ぽかんと、アホ面をする麗奈。
「自殺志願者を一人で返すわけにもいかないし、うちも親いないから都合がいい。飯はみんなで食べたほうが美味い」
「は、はあ? 勝手に話進めないでよ! 意味分かんない。やめてよ。そんな偽善、私は嬉しくない」
心底理解できないといった様子の麗奈に、陽介は笑いかけた。
「悪いな、性分なんだ。だから──」
そして陽介は、麗奈の瞳の奥に過ぎ去っていく戸惑いの色をしかと見据えながら言った。
「僕に救われてくれ」
☆★☆
外に出ると既に雪が積もっていた。陽介は自転車を押しつつ、麗奈を引き連れて自宅まで帰還した。生徒会の仕事は、とりあえず今日は諦めることにした。麗奈はしばらく黙ってついてきていたが、だんだんと表情を険しくしていった。
「あの」
「どうした氷川」
陽介は麗奈に背中を睨みつけられていた。
「初めて会った女を自宅に連れ込もうとする男がいる?」
鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。陽介が住んでいる家は小さいが一軒家だ。両親が残していった財産の一つだ。
「ダメか?」
「ダメよ」
「両親は今いないので安心してくれ」
「尚更不安になる要素が追加されたんだけど」
陽介は「はぁ」と呆れ混じりにため息をついた。
「僕がお前に何かすると思うのか」
「するでしょ絶対」
「まあ、するが」
「帰る」
助けると決めた以上麗奈の身体に一体何が起きているのかを調べなくてはいけない。別にこいつ厚着してるから分かりにくいけど実はめっちゃ胸あるなとか、足長いなとか、ちょっと髪触ってもいいかなとかは思っていない。繰り返すが、ちょぉっと身体に何が起きているかを調べるだけである。
「まあまあ、そう言わずに。うちには妹がいるからそんな事件は起きないよ」
「……」
何も信用していない人間はこういう顔をするのかと陽介は思った。
とりあえず、自殺を未遂で止められて心のやり場がない様子の麗奈をどこかで落ち着かせなければならない。陽介は麗奈が何も言わないのを了承と受け取り、ドアを開けた。
「ただいま」
「おかえりなさい♪ お兄ちゃ」
笑顔で迎えてくれた陽介の妹──夏目幽香は、言葉の途中でその笑みを凍りつかせた。
「それ、誰?」
女の子からこんな声が出ていいのかというほどおどろおどろしい音が漏れ出した。いきなり連れてこられて「それ」呼ばわりされた麗奈がこめかみをひくつかせている。
夏目幽香。
袖の長いパーカーとハーフパンツ、軽くウェーブのかかった肩口まである髪をポニーテールにしてまとめているだけというラフな格好ではあるが、清楚な印象で非常に可愛らしくまとまっている。スラリとしてスタイルも良く、太ももが眩しい。唯一胸だけは神が「私に与えてくれなかったのだ」と幽香は嘆いていたが、陽介的にはそれもまた「アリ」だ。アリアリだ。
普段はおしとやかな大和撫子なのに、陽介が自分以外の女と一緒にいるところを見ると幽香はこうなるのだ。
そう。
自他共に認める極度のブラザーコンプレックス。それが夏目幽香であった。
「今日も可愛いな、妹よ」
「ん~っ、ありがとうございます♪ ──で、それは、なんですか?」
花のようにほころんだ笑顔のまま、セリフだけ温度がガクンと落ちるのが陽介の恐怖心を掻き立てたが、
「な、名前は氷川麗奈。拾い猫ならぬ拾い人間だ」
という感じで、とりあえず簡単に説明してみた。
「猫? バカにしてるの?」
「似たような者じゃないか」
猫は死に姿を見せないというから、そういう意味では陽介に見つかった時点で猫というには怪しかったが。
「お兄ちゃん」
「どうした妹よ」
「あった場所に戻してきなさい」
「あった場所に戻したらこの子死んじゃうんだよなあ」
自殺しちゃうかもしれない。割と本気で。
「人をメンヘラみたいに言わないで」
怒り心頭の麗奈をおいておき、陽介は靴を脱ぎ、幽香の背中を押しながらリビングへ。麗奈は不本意そうに「お邪魔します」と一言告げてから夏目家の敷居をまたいだ。睨み合いを続ける麗奈と幽香を宥めつつ、陽介は椅子に座った。隣に幽香、テーブルを挟んで向かいに麗奈が腰を下ろした。
まず口を開いたのは幽香だった。目を閉じ、ふぅぅぅぅ、と長く息を吐き出したのちに言った。
「お兄ちゃん、事情を説明してください」
「あいわかった。まず、僕が生徒会の仕事をしに学校に行ったらこの女が自殺しようとしていた」
「はい? ……はい」
「僕はこれはいけないと思った」
「はい」
「だから止めた」
「はい」
「そして家に連れてきた」
「ううん」
幽香は静かに首を横に振った。
「おかしくないですか」
「正しい因果関係だったと思うが」
「どうしてお兄ちゃんはヤバそうな女に遭遇してはうちに連れ込もうとするんですか?」
「ヤバそうな女で悪かったわね」
「あなたは黙っててください」
幽香がキッと睨むが、麗奈はそっぽを向いて知らん顔をした。
「妹よ、兄は困っている人がいたら見捨てられない性格なんだ」
「それは知ってますけど……」
「とにかく、こいつの抱えてる問題が解決するまでは力を貸すことに決めた。幽香、分かってくれ」
「は!?」
聞いていないと憤慨する麗奈。
「ううううう……」
んがあああと頭をかき始める幽香。
だが、とりあえずは納得したようだ。
「お前は本当に僕と寧々以外には心を許さないよな」
寧々というのは白坂寧々のとこで、陽介と幽香の古くからの友人で、お隣さんである。幽香が心を開いているのはこの二人だけだ。それ以外の誰が話しかけても幽香は冷たい態度を取る。
「寧々さんは大丈夫です。同盟を結んだので」
「なんだそりゃ」
「とにかく、私はお兄ちゃんだけいれば満足なんです」
「……今の台詞もう一回言って」
「私はお兄ちゃんだけいれば満足なんです」
「んん~可愛いなあお前は」
「♪」
陽介が頭を撫でると、幽香は目を細めて気持ちよさそうにした。それを見た麗奈は、信じられないといった表情で夏目兄妹を見ていた。
「……こんな光景が日常的に繰り返されているの?」
「何かおかしいか?」
きょとんとする陽介。
「お兄ちゃんはあげませんので雌猫は巣に帰ってください」
ひしっと兄に抱きつき、威嚇する幽香。麗奈はドン引きというか、物理的に椅子を引いて距離を取っていた。
「あの、そろそろ話を進めていいか」
妹にへばりつかれたまま、陽介は適当に聞いてみた。
「なあ、幽香。人の体温って何度まで下がったら死ぬんだ?」
「いきなりどうしたんですか?」
「氷川は、どうやら正体不明の難病に侵されているらしいんだが……」
陽介は、麗奈から聞いたことの顛末を幽香に説明してみた。考えを聞くためだ。
「ふうん」
興味がない様子の幽香だが、
「兄はこいつを助けると決めたんだ、手伝ってくれるか?」
陽介にそう言うと断りきれず、頭を悩ませ始めた。
「うーん……」
物珍しげに麗奈の白髪を眺める幽香。麗奈はジロジロと見られて居心地が悪いのか、室内でも外さずにいるマフラーに顔を埋めた。
「体温が下がっていく、ですか。発覚したタイミングがその事故の後なんですよね? なら、原因は事故にあるのでは?」
不満を漏らしつつも、なんだかんだで真剣に考えてくれる幽香。性格はちょっときついが本当は優しい子なのだと、ちゃんと陽介は知っている。
「僕もその線が怪しいと思ってる。おそらく、ある種のPTSDみたいなものなんじゃないかな」
PTSD。
心的外傷後ストレス障害という、簡単に言えばトラウマが原因で起こる心の病気のことだ。体温が下がり続ける──なんて聞いたこともなかったが、「救助が来るまで雪の中に生き埋めにされていた」という彼女のトラウマが、身体に何らかの異常をきたしている可能性は高いと陽介は考えていた。
「今日会ったばかりの私に、なんでそんな真剣に……」
「性分だから気にするなって言っただろう」
「また自殺しようとしたらどうするのよ」
「それならそれまでだが……死ぬなら僕の手の届かない所で、一人で死んでくれ。僕の手の届く範囲では、できれば死なせたくない」
それは、死にたくないという麗奈の気持ちを知っている陽介だからこその台詞だった。
「……あなたもちょっと異常よね」
「よく言われる」
ボソッと言って、麗奈は「もう勝手にして」とため息をついた。この時初めて、麗奈は笑った──とまでは行かなくとも、ずっと暗い表情をしていた麗奈から険がとれたような気がした。
「とりあえずは、氷川が抱えてるトラウマを解消する方法を探さないとな」
陽介が「温かいコーヒーを三人分頼む」と言うと、幽香は「お兄ちゃんの頼みなら仕方ないですね」と、とてとてキッチンへ向かった。
陽介は問題解決の方法を思案する。思いついた案を適当に列挙してみることにした。
「サウナでも入るか?」
「安直すぎるわ」
「なら砂風呂か?」
「レベルが変わらない」
「温泉」
「風呂から離れなさい」
「南米旅行」
「あなたの頭の中では風呂から出ると南米に繋がっているの?」
呆れた様子の麗奈が「無駄よ」と続く言葉を遮った。
「サウナには行った。普段は入らないような熱々のお風呂にも入ってみた。どれもダメだった。さすがに南米旅行には行ってないけど……体を温めても、意味はないの」
「そうか……」
ということは、現状解決の糸口がないということになる。
「キムチ鍋でも作るか」
「だからそんなことじゃ、」
「僕が食いたいだけだ。今日は特に寒いからな」
「というか、そんなところまで迷惑をかけるつもりはないし、」
「お兄ちゃんが食ってけって言うんだから食べていけばいいと思います。この調子じゃあなたがいてもいなくてもどうせキムチ鍋なんだから」
「そういうことだ。観念するんだな」
「ううう……」
夏目兄妹に言いくるめられてむっとする麗奈。無表情という訳ではないらしい。
幽香が持ってきてくれたコーヒーを飲み干すと、陽介は再び立ち上がった。
「幽香。キムチ鍋の材料はあるか?」
「ないです」
「なら今から氷川と一緒に買出しに行ってくる」
「な、なんで私が行かなきゃ行けないのよ!」
すかさず麗奈が反論してくるが、陽介は軽くかわす。
「タダ飯なんだ。荷物持ちくらいしてくれるだろう?」
「普通逆じゃない? この役割」
「まあ、いろいろ聞きたいこともあるしな」
「お兄ちゃん、私も行きます!」
「妹に荷物持たせるわけにはいかないから大丈夫だぞ」
「お兄ちゃん優しい♪ けど、そういうことじゃない……」
「そういうこと?」
「いや、何でもないですもういいです……」
陽介はべったりとくっついてくる幽香をひっぺがし、財布とエコバッグを取った。
「……あなたたち年中そんなことしてるの」
「愛は時も場所も選ばないんですよ、氷川さん」
「人目くらい忍びなさいよ」
「嫌です。見せつけます」
ぷいと顔を背けて聞く耳持たずの幽香に、麗奈は何か恐ろしいものを見たような顔をしていた。
「なかなか歪な家庭をお持ちなのね、夏目君……」
「まあ、幽香ほどパーフェクトな妹は世界広しと言えどそうそういないだろうな。……あ、そうだ」
陽介は適当なフード付きパーカーを引っ張り出し、麗奈に投げつけた。
「着ておいたほうがいい。制服でその髪はいろいろまずい」
陽介や麗奈が通う藤が丘高校は染髪、脱色などを全面的に禁止している。事情を一から説明すれば分かってもらえるとしても、そんな無駄な時間を過ごすのも面倒だ。麗奈はどうやら髪を大切に思っているらしいし、切りたくはないのだろうから、隠すしかない。
「……ありがと」
「よし、行こうか」
そして陽介と麗奈は、再び雪降る街へ繰り出した。
「……気が利くのね」
小さく漏れたその言葉は陽介の耳にも届いていたが、陽介はあえて聞かないふりをした。