フィナーレ ほんとうの音色
それからのお話。
ユーカは消え、夏目幽香は心象病を克服し、完全復活を果たした。
バイオリンの練習も再開した。すぐにコンテスト……とはいかないものの、いつの日かまたあの舞台に立つために――そして何より、いつまでも待ち続けてくれた少年のために、幽香は今日も弦を震わせる。きっと実力は、ずいぶん離されてしまったから。
不安定だった精神も均衡を取り戻した。もう監禁されたり、誰かを危険な目に合わせたりはしないだろう。
今度こそ、一件落着。全ての問題は丸く収まり万事解決──
と。
お話は、そうはいかなかったのである。
ほんのちょっとだけ、些細な変化が、夏目幽香の身体に残っていた。
それは、微笑ましい変化だった。
「いいですか!」
夏目家の休日は、今日も主に夏目幽香という名の喧騒につつまれている。
「義理のッ! 妹はッ! 合法ッ!」
バアァァンッ! という効果音とともに、幽香がテーブル向かいの麗奈にそんな言葉を浴びせかけた。
しかし。
「ハッ! 弱い……弱いわ! 可能というだけで、この私にたてつくつもり?」
麗奈は圧倒的優越感を滲ませながら、高らかに宣言した。
「私たちは既に両想い! あなたとは天と地ほどの差があるっ! お分かり? ねえお分かり?」
「うぐぐぐ……!」
最強の矛をチラつかせながら、容赦なく幽香をいじめ倒す麗奈。
そんな様子を、
「天と地ほどの差は、ないなあ」
と、呑気にお茶を飲みながら、夏目陽介が観察していた。
「ど、どういうこと!?」
「だって、実際幽香と結婚はできる訳だろ?」
「は!?」
何を言い出したんだ!? と口をあんぐり開ける麗奈。
なおも陽介の寝ぼけた発言は続く。
「それに、未来の僕が心変わりして幽香と結婚する! って言い始める可能性を、誰も否定することはできない訳で」
「え、は!?」
「だからまあ、麗奈十歩リード! くらいの差ではないかなあ、と僕は思うんだよなあ」
「あはぁ……♡」
その発言に、目の中にハートを浮かべて歓喜するのは幽香だ。
「ほら! 私はまだ終わってない! 終わってないんですよォ、麗奈さんッ!」
いつのまにか麗奈のことを下呼びするようになった幽香は、今にも爆発しそうな麗奈に追加で油をぶっかけていく。
「それはそれとして、お兄ちゃん。兄の発言全肯定マシンの私としても、今のはどうかと思いますよ?」
「んん?」
見ると、顔を真っ赤にした麗奈が今にも殴りかかってきそうな形相で陽介を睨みつけていた。
「あなたそれでもこの物語の主人公なの!? もうちょっと自覚持ちなさいよ! こんな軽薄でクソ野郎な主人公がウケる訳ないでしょう!?」
「違うんだ麗奈。今のは、続く『でも今の麗奈と幽香にはこんなにも差があって、やっぱり麗奈はサイコー!』っていう発言をもって完結するんだ。よく考えてみてくれ。麗奈の方がおっぱいがデカいし太ももがムチムチで素晴らしい。だから落ち着」
陽介の顔面に二人分の湯のみが直撃した。
「とてもいたい」
「「反省しなさい」」
「はい」
陽介は二度と戯れに軽率な発言をしないことを誓った。
「……お兄ちゃん」
そんな陽介に、幽香が改めて向き直って言った。
「やっぱり私、お兄ちゃんのことが好きです。兄としてではなく、異性として」
「……うん」
幽香は、心象病を克服した後も変わらず兄に好意を寄せていた。
それは、トラウマの逃避から生まれた依存する心ではない。
純粋に男性として慕う、彼女本来の愛だった。
「でも、ごめんな。僕は、麗奈が……」
「はい。分かってます。今はそれでいいです」
幽香は、首元を撫でながら笑った。
そこには、陽介がドレスと一緒にプレゼントした黒いチョーカーがあった。
「それでも私、諦めません! いつかお兄ちゃんが振り向いてくれる日を信じて、これまでと変わらずアタックし続けます! お兄ちゃんの、一番になりたいから。……麗奈さんも、そのつもりで!」
ニヤリと笑って、幽香は麗奈を見た。
「私、負けませんから」
堂々と挑戦状を叩きつけられた麗奈は、やはり笑った。
「ええ。受けて立つわ」
「それはそれとして」
清々しい笑みを浮かべる二人だったが──
「麗奈さん? あの写真……ちゃんと元の場所に戻しておいてくださいね?」
「ひっ」
「あそこで見たものをきれいさっぱり忘れるというのなら、これ以上は何も言いませんから♪」
「は、はあい……」
「何の話だ?」
「いえいえ何でもありません。お兄ちゃんはいつも通りのほほんと生きていれば大丈夫ですよ」
幽香は、突然するりと陽介に近寄ると、妖しげな笑みを浮かべ。
「ふふふ、おにーちゃん――」
そして、エコーのかかったような声で、言った。
『「幽香なしでは生きれない体にしてあげますからね♪」』
そのゾクッとする声音に、思わず陽介は。
「ああ、楽しみにしてる!」
幽香を抱きしめて、そう言った。
☆★☆
――春が来る。
出会いと別れ。卒業式に入学式。これまでの友人と別れ、未来の友の待つ新天地へ。桜はいつだって、そんな風景に寄り添ってきた。
過ぎゆく一瞬に、人は心を奪われる。
桜の花弁よ、春の息吹よ。刹那に吹き抜ける風とともに、どうかこの音色を乗せて、遥か彼方まで運んでくれ。
消えゆく春の中に咲いた、一輪の花。
その温もりを、きっと忘れない――
君はきっと、皆の胸の中に生き続けるから。




