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ナミダイロシンフォニー  作者: クロウ
第二楽章 サクライロカノン
25/26

第11話 二人で奏でる追複曲

 素晴らしいサービスを受けて、夏目兄妹はドレスショップを後にした。きっちり一着、それなりのお値段をするドレスを購入して、店員さんには「是非また来てください」と言われてしまった。きっと何か縁があれば、また訪れることになるだろう。


「お腹減ったな」


 気が付けば時刻は正午を過ぎており、腹の虫も鳴き始めていた。

 二人はフードコートを訪れ、ファストフード店で腹ごしらえをした。

 それからは、二人でブラブラとショッピングモールを歩いて回る。目的なく歩いているだけでも、様々なお店があるので飽きることなく過ごすことができた。

 幽香がゲームセンターで意外なUFOキャッチャーの才能を発揮したり、プリクラに連れ込まれてキラッキラにデコレーションされた写真を撮ったり、本屋でずっと出ていなかった漫画の新刊を発見して兄妹二人でテンションを上げたり。

 途中、泣きじゃくる小さな女の子に出くわした。

 女の子はどうやら、風船を手放してしまって泣いているようだった。母親が必死になだめているが、泣き止む気配はない。

 見ると、風船はかろうじて街路樹に引っかかっていた。


「む」


 陽介がじっとその女の子を見つめていると、


「持ちましょうか?」


 幽香が手を差し出してくる。陽介が何を考えているかを察して、両手に持っていた荷物や紙袋を受け取ろうと申し出てきたのだ。


「ああ、頼む」


 陽介は素直にそれに応じて、荷物を託した。そして、街路樹の枝に手をかけた。


「あなた、何を……?」


 女の子の母親が不思議そうに陽介を見ている。それに構わず、陽介は木を登り始めた。

 行き交う人々がどよめく中、陽介はひぃひぃ言いながら登っていく。もちろん木登りが上手い、なんてことはなく、危なっかしい手つきだ。

 それでも陽介は、風船が引っかかっているところまで何とかたどり着き、風船を回収することに成功した。

 様子を見守っていた通行人たちから拍手が上がる。


「ほら、もう手を離すんじゃないぞ」


 再び地面に降り立った陽介は、女の子に風船を手渡し、ポンと頭に手を置いて撫でてやった。


「あ、ありがとうおにーちゃん!」

「どういたしまして」

「ありがとうございます……! ほんとこの子は、すぐに手を離しちゃうんだから……」


 頭を下げる親子二人に、手を振って別れる。


「変わりませんね、お兄ちゃん」

「そうかな。……そうだな」


 ……なんて、そんなこともあったり。

 笑ったり驚いたりしながら、陽介と幽香は二人だけの時間を過ごした。

 大切でかけがえのない、二人だけの時間を過ごした。

 ──やがて。

 その時は、訪れる。

 時刻は夕方になり、あたりは夕暮れ色に染まった。

 二人は電車で自分たちの街に帰ってきた。──しかし。


「最後に一つ、寄る場所があるんだ」

「今から、ですか?」


 その足で、とある場所に向かう。自宅からもさほど遠くない、あの地。

 懐かしい思い出の待つ、あの地へ。


「ぁ……」


 幽香が小さく息を飲む。そう、この場所は──


「八重樫、コンサートホール……」


 足を止めかけた幽香の手を取って、歩みを進める。


「お、お兄ちゃん、私、ここは──」


 陽介は、何も言わずに歩く。全てを決するための舞台に向かう。

 エントランスを抜けて、目的地に向かって一直線。とあるホールの扉を開け放つ。

 そこは、静寂に包まれていた。

 全体的に薄暗い空きホール。舞台の上には、誰もいない。ただ中心に、空虚なスポットライトが当たっているのみだ。

 観客席には人影があった。二人──いや、三人だ。


「待ってたぞ、夏目幽香……ッ!」

「幽香ちゃん……」


 八重樫健太と、氷川麗奈だ。


「お、お兄ちゃん……これは……?」


 幽香が困惑した表情で兄を見上げた。陽介は一言、告げた。






「幽香。お前は今日ここで、バイオリンを弾くんだ」






「え……? バイ、オリン? 私が……ここで……?」


 事態が飲み込めない様子の幽香を連れて、陽介は健太と麗奈の元まで向かった。


「今日はありがとう。手伝ってくれて」

「本当だよ。いくら俺でも、突然『空きホール一つ押さえてくれ』なんて、無理難題にもほどがあるぞ!」

「それでも、やってくれたじゃないか」

「う、うるせえ! お前が幽香のためだ、なんて言うからだ!」

「本当にありがとう」


 陽介は頭を下げた。今日この舞台は、八重樫健太がいなければ用意することはできなかったのだから。


「陽介君、頑張って……」

「頑張るのは僕じゃない。幽香だよ」


 そして振り返り、幽香を見る。

 そこでは幽香と、ユーカが対面していた。


『さあ。終わらせましょう、私。ここで、私たちを縛る鎖を全て破壊するんです』

「何を、言って……」

『兄離れの時ですよ、幽香わたし

「っ!? わ、私は、これからもずっとお兄ちゃんと──」

『それでは、もうだめなんです』

「分からないことばかり言わないでっ!」


 幽香は声を荒げてユーカに詰め寄った。


「私のくせに、偉そうなことを言わないでっ! 何様のつもり!?」

『……』


 ヒステリックに声を上げる幽香に、ユーカは悲しそうに俯いて沈黙した。


「幽香」


 そこに、優しく陽介が声をかけた。


「せっかく買ったこのドレス、着てみてくれないか?」


 紙袋を掲げてみせる。幽香は、愛しい兄のお願いをきっぱりと断ることができない。


「で、でも……」


 それでも渋る幽香に、陽介は「やれやれ」と笑った。


「おいで」


 手招きすると、幽香は恐る恐るといった調子で寄ってきた。そんな幽香を、陽介は目一杯抱きしめた。


「ふわぁう……っ?」

「幽香?」

「な、なんですか……?」

「幽香が今まで演奏してきた中で、僕が一番好きな演奏は何か、分かるか?」

「? ……ええと、多分一番上手かったのは、全日本ジュニアの時の……」

「違うよ」

「え?」

「一番上手かった演奏じゃない。僕が好きなのは、上手い幽香の演奏じゃない」


 頭を撫でてやりながら、幽香の心を落ち着かせてやる。


「思い出すんだ。幽香が一番好きな音を。その音こそ、僕が一番好きな演奏だ」

「一番、好きな音……」

「さあ。舞台に上がれ、幽香。お前のほんとうの音色きもちを、僕に聴かせてくれ」


☆★☆


 控え室で幽香の着替えを手伝いながら、麗奈は笑った。


「あの強引さが、陽介君よね」

「何知った風な口利いてんですか。偉そうに」

「うるさいわね。そろそろ諦めて、認めてくれてもいいんじゃない? 私のこと」

「嫌です。絶対嫌です。なんであなたみたいな他人を……」

「私もね、最初そう思ったのよ」

「へ?」

「なんで、私みたいな他人を助けてくれたんだろうって。彼はグイグイ距離を詰めてくるのに、不思議と違和感がない。本当に、すごい男の子」

「……」

「ねえ、幽香ちゃんはなんでお兄ちゃんのことが好きなの?」

「なんでって、それは……カッコよくて、優しくて……」

「ううん。そういうのより、もっと深いところにある気持ち。一番最初に抱いた気持ちは、どんなものだったの?」

「それ、は……」

「その気持ちを、伝えてあげればいいんじゃない? きっとその気持ちが一番純粋で、綺麗なものだから」


 麗奈は、「よしできた」と幽香の背中をポンと叩いた。そして、夏目家から持ってきたバイオリンを幽香に手渡す。


「さあ、行ってきなさい。笑顔でね」


 幽香は手渡されたバイオリンを見つめた。

 ほんとうの音色きもち

 自分の中にある、兄への想い。

 それが一体何なのか。


「私は……」


☆★☆


 舞台の上で、一筋のスポットライトに照らされながら、ユーカは待っていた。


『……』


 静寂がホールを支配している。

 観客席では、陽介と健太、そして控え室から戻ってきた麗奈が固唾を飲んで見守っている。

 それなりの時間が経ったが、幽香は控え室から出てこない。何かあったのか、まだ心に迷いがあるのか……。


『幽香……』


 ユーカは、祈りを捧げるように両手を合わせた。

 自分自身のことだから、誰よりも少女の気持ちを理解していた。

 夏目幽香がこの鎖を引きちぎることができるかどうかは、彼女自身にかかっている。直接手を取って助けてやることは、もう誰にもできない。静かに見守ることしかできない。

 これは、彼女が自分で乗り越えなければならない問題だから。

 自分の足でこの場に立って、自分の力でバイオリンを演奏しなければ、彼女を縛る鎖はきっと破れない。

 夏目陽介が氷川麗奈そうしたように、手を差し伸べることはできないのだ。

 だから、ユーカは待つ。

 夏目幽香を、待つ。

 永遠のような時が過ぎていくのを感じながら、それでもじっと耐える。

 まるで、冬が過ぎるのを待つ桜の木のように。

 枝葉に満開の花を咲かせるのを、今か今かと待ちわびるように。

 この厳しい寒さを超えた先に、春があるのだと信じて。

 明けない夜がないように。

 明けない冬だって、きっとないはずだから────


「……、」


 その時。

 舞台の脇に、一人の少女が現れた。

 ドレスは黒。花柄のレースを各所にあしらったデザインで、黒アゲハのようにスカートを揺らしている。シースルー状になっている首元が、蠱惑的に視線を誘う。収縮色である黒は、全体的にシャープで凛とした女性のイメージを抱かせた。

 編み込まれて軽くウェーブのかかったセミロングの髪には、黒薔薇をモチーフにした髪飾りを付けている。

 ドレスショップで着たウェディングドレスとは正反対の漆黒は、夏目幽香に「妖しい大人の女性」を印象付けていた。

 少女の「黒」は、舞台袖の陰から出ることでよりその美しさを際立たせた。

 バイオリンを握り、思いつめた表情で一歩、また一歩と歩みを進める少女。そこにはまだ、迷いの感情が見え隠れしている。


幽香わたし……お兄ちゃんに、買ってもらったんですね。良かったじゃないですか』

「……」


 幽香とユーカが向き合う。


『そうですね。ワタシも、相応しい服装に着替えてみましょうか』


 そう言うと、ユーカは幽香の頭に手を伸ばした。そして『お、これがいいですね』と、一つの脳内イメージを現実に再現した。

 すると、ユーカの全身が強く輝きを放った。

 それまで着ていた藤が丘高校の制服が、ふわりと解けて消えていく。代わりに編まれたのは──


「あなた、勝手に私の記憶を覗かないでくれませんか?」

『いいじゃないですか、減るもんでもなし』


 純白のウェディングドレス。

 今朝ドレスショップで試着させてもらった、あの高価なドレスだった。

 白と黒。

 相反する色を身に纏った、幽香ユーカが並ぶ。


『……さあ』


 光が集い、ユーカの手にバイオリンが生まれる。


「……」


 幽香はゆっくりと、ゆっくりと、バイオリンを構えた。

 しかし。


「……っ、」


 弓を持ち上げる手が震え出す。

 弦に近づけようとするほどに、その震えは強さを増していく。

 どう足掻いても、身体が演奏を拒否してしまう。

 ──お兄ちゃんが、お兄ちゃん見てるのに……っ!

 幽香は、ずっと兄の期待に応えたかった。

 初めて自分の演奏を聴いてくれて、泣いてくれた兄。そんな兄に、より良い演奏を聴かせてあげたい。ずっとそう思ってきた。

 なのに、幽香は演奏できなくなってしまった。

 理由が分からなかった。

 あんなに毎日のように弾いていたはずなのに、ある日を境に突然音を出すことさえ叶わなくなった。

 全てはあの日、あの出来事のせいで……。

 幽香は、あの出来事を鮮明に覚えている。

 痛みと共に、刻み込まれた記憶。

 忘れたくても忘れられない記憶。

 その悪夢から逃れようと、兄に依存した。もうあの日のことを思い出さなくてもいいように、兄だけを見続けて、愛で感情を埋め尽くした。

 だからこそ、だ。

 幽香は強く強く、思ってしまう。

 もう一度兄に、この音を届けたいと。

 そう思えば思うほど、ほんとうの音色きもちからは遠ざかってしまうとは知らずに……。


「なんで、よ……っ!」


 幽香は膝から崩れ落ちた。その思考に影響されて、ユーカの脳もぐちゃぐちゃに掻き乱されて鈍痛を発する。


『ぐ、ぅ……っ』


 大粒の涙が、幽香の目から零れ落ちていた。

 バイオリンを演奏できなくなった後も、幽香は諦めずに音を取り戻そうとした。何度も、何度も何度も何度も何度も、挑戦し続けた。

 いつでも触れられるようにと部屋の傍に置かれたバイオリンが、その証だ。

しかし今日この日に至るまでに、幽香は音を取り戻すことはできなかった。


「なんでよ……っ! なんで、なんでなんでなんで……」


 バイオリンを破壊してやろうと思った日もあった。


「どうしてッ! 言うこと聞いてよ、私の体ッ!」


 押入れの奥底にしまいこんで、記憶と共に忘れてしまおうと思った日もあった。


「苦しい……苦しいよ……っ」


 でも、壊せなかった。忘れられなかった。


「お兄ちゃん……っ」


 なぜ?


「もう嫌です、こんなの……」


 夏目幽香が、バイオリンから離れられないのは、なぜ?


「助けて、お兄ちゃ──」


 それが分からない幽香は、大粒の涙を零しながら兄に助けを求めて──






「ダメだ」







 一喝。



「ダメなんだ」

「……ぁ、ぇ?」



 陽介は。



「何と言われようと、僕は幽香を助けない」

「お兄ちゃ、ぇ、なん……で」



 その救済を求める言葉を。



「幽香に手を差し伸べることは、しない」

「そん、な」



 拒否した。




 幽香は、その表情を絶望に染めた。


「なん、で、お兄ちゃ、たす、け……」


 あらゆる人の、全ての救済に応えてきた夏目陽介が。

 その一言を、断った。

 それが、何を意味するのか。

 否定が、どれだけ強く重たいものなのか。

 幽香も、麗奈も、そして陽介本人も、理解していた。


「……」


 陽介は歯を食いしばって、拳を握りしめて幽香のことを見据えていた。

 ここで、夏目陽介は夏目幽香に手を差し伸べてはいけないのだ。

 それは一番やってはいけないことだと、陽介は考えていた。

 今にも血が滲みそうなほど、陽介の拳には力が入っていた。

 苦しむ妹の姿なんて、見たくない。陽介は今にも飛び出しそうな足を、意志の力で懸命に抑え込んでいた。

 今助けに行ってしまったら、「もう頑張らなくていい」と声をかけてしまったら、何の意味もなくなってしまう。

 だから行けない。行ってはいけない。

 これは、夏目幽香が自分で答えにたどり着かなくてはいけないから。


「陽介君……」


 それを横で見守る麗奈。

 麗奈には、舞台で泣き崩れると同じくらい、陽介も辛そうに見えていた。


「私には無理ですっ、お兄ちゃん!」

「そんなことない」

「私の何が分かるんですかッ!? そう思うなら、助けてくれたっていいじゃないですか!」

「……それは、できない」


 いやいやと首を振りながら、怨嗟の声を上げる幽香。それでも陽介は、動かない。


「無理ですッ! 無理なんですッ! どうやっても、何度やっても、私はもう演奏はできない! お兄ちゃんにバイオリンを聴かせてあげることはできないんですッ! 何で分かってくれないんですか!?」


 それはもしかすると、初めての兄妹喧嘩かもしれなかった。


「幽香ちゃん……」


 空から降り注ぐスポットライトがあまりにも無情で、麗奈はもはや見ていられなかった。陽介が何を考えているのかは分からないが、こんなやり方では幽香を傷つける一方で、救えるとは到底思えなかった。


「……」


 でも。

 麗奈は、陽介の苦しそうに歪んだ横顔を見ていると、何も言えなくなった。

 彼も痛みに耐えている。

 それが、分かってしまうから。

 だから麗奈は、優しく陽介の手を握った。

 ──大丈夫。私もいる。

 その想いを、温もりを、伝えるように。


「……ありがとう、麗奈」


 陽介は小さく一言そう告げて、情けなくも滲みそうな涙を拭い去った。


「幽香ッ! 聞けッ!」


 勝負の時だ。

 陽介は湧き上がる衝動を、全て言葉に乗せた。

 手を差し伸べることはできない。

 直接彼女を救うことはできない。

 だから。

 代わりに。

 届け、この言の葉────ッ!






「幽香ッッ!!

 今から僕のことも母さんのことも、全部片っ端から何もかも、頭の中から放り出せッ!!

 必要なのは、バイオリンと初めて出会った日の想い、それだけでいいッ!」






 忌まわしき過去を、優しく解き放つように。


「幽香、お前は自由だッ!」


 過去に、語りかけるように。


「何にも囚われず、自分本来の想いにのために、演奏をすればいいんだ!」


 それは言霊となって幽香に届く。


「思い出せ、ほんとうの音色きもちをッ!」


 過去という名の鎖によってがんじがらめにされていた幽香の心に、届く。









「幽香は、ありのままの幽香でいいんだッッ!!」









「──ぁ」


 心が、揺れた。


「あ、ぁあ……」


 ぼたぼたと、涙が舞台の床に落ちていく。


「私、は……私は…………」


 幽香が兄に依存したのは、あの日の出来事のトラウマから逃避するためだった。

 心の傷を負った幽香は、その痛みから逃れるために兄を頼った。そしてそれは実際、うまくいっていた。

 しかし、傷は癒えなかった。

 むしろ、悪化する傷を見て見ぬ振りし続けた。

 それは結果的に、安全装置である『理性』が壊れるという結果をもたらした。

「兄に逃げる」という心の弱さが、心象病を発症させたのだ。

 だから、この病を克服する鍵はここにある。

 ユーカという『安全装置』と、再び一つになるためには、兄に依存する心を捨てなければならない。

 それはすなわち、過去のトラウマを乗り越えて、自分本来の演奏を取り戻すということだ。

 夏目幽香、本来の音色。それは──


「ほんとうの音色きもち……私、は……」


 そして幽香は、絞り出すように想いを吐き出した。









「──私は、バイオリンが好きっ!」









 そう。

 それが、幽香本来のバイオリンへの想いだった。

 母親の野望に付き合うためではない。

 兄に聞かせるためでもない。

 はじまりの気持ちは、そんなエゴイズムに満ち溢れたものだった。

 でも、それでいい。

 それが、それこそが、夏目幽香なのだから。


「頑張れ、幽香」


 さあ、きっともう大丈夫。


「幽香ちゃんっ!」


 今なら、立ち上がれる。


『頑張れ、幽香わたし!……!』


 たくさんの人の、想いを受け取って。


「戻ってこい、夏目幽香……ッ!」


 少女は今──


「ぅ……ぐぅぅううう……っ!」


 再び、立ち上がる。


「……よし」


 陽介は泣きながら笑っていた。

 麗奈と繋いだ手の温もりが、今は何よりも心強かった。


『始めましょうか』

「……うん」


 そして、二人の幽香ユーカがバイオリンを構えた。

 その手には既に、震えは──ない。


「──」

『──』


 曲はもちろん、はじまりのあの曲。桜色の旋律。




 パッヘルベルの、カノン。




 幽香ユーカは目を閉じた。

 静寂に包まれていたホールに、少女の色褪せない鮮やかな音色が響き渡る。

 曲はゆったりと、柔らかく始まる。

 長い冬を越えて、ようやく訪れた春を喜ぶかのように、緩やかだが楽しげな旋律がホールを駆け巡っていく。

 次第に、蕾が花開くように、音が広がりを見せ始めた。密度を高め、満開の時を今か今かと待ちわびる。

 幽香の演奏に、ユーカが寄り添う。

 その光景はまさに、これまで夏目幽香を形作ってきた彼女たちの在り方を表しているようだった。

 幽香ユーカは、忘れかけていた想いを必死に音に乗せた。

「楽しい」という気持ちを。

「届いて欲しい」という想いを。

 初めてバイオリンに触れたあの日の、胸の高鳴り。

 自分で一曲演奏出来たときの、達成感。

 演奏すればするほど、新たな旋律が見つかる喜び。

 この想いを、この気持ちを、届けたい。

 全てはそこから始まったのだ。

 そして。

 その時は訪れる。

 誰もが知るあの旋律が顔を出し、一気に音霊が花開いていく。

 刹那──





 ホールに、桜吹雪が舞い散った。





「うわあ……!」


 麗奈が感嘆の声を上げた。


「ぁ、あぁ……ぁ…………っ」


 陽介はもう耐え切れそうもなかった。涙を流しながら、その美しい光景に目を奪われた。

 それはユーカが見せる幻想の桜。

 あの日の気持ちへと回帰した少女が生み出した、心に咲く桜。

 少女の心に呼応するように、蕾は次々に花開いていく。瞬く間にホール中を覆い尽くした春の息吹は、陽介の、麗奈の、健太の頬を撫でて吹き抜けていった。


「夏目……っ」


 健太は、目の前で起きている現象が何なのかを完全に理解することはできなかった。それでも、この「奇跡」が夏目幽香の完全復活を意味しているのは分かった。

 花弁が一つ、健太の手の中に舞い降りた。花弁はほのかな温もりを残して、光の粒となって消えていった。その温もりの中には、少女の溢れんばかりのほんとうの音色きもちが詰まっている。

 ――楽しい。

 ――嬉しい。

 健太は、染み込んでくる温もりを逃がさぬよう、手のひらを強く握りしめた。

 ――夏目。もう一度、お前と演れる日が、来るんだな。

 ブランクはあるかもしれない。でも夏目幽香なら、彼女なら必ず追いついてくる。

 だから。

 もう少しだけ、待つんだ。

 今再びスタートラインに立った、彼女を。


☆★☆


 長き冬を耐え。

 短き春を待ちわびて。

 溢れ出した音の粒たちが、一斉に色づく。

 あまりにも幻想的なその光景に、陽介はただただ、涙を流していた。

 幽香ユーカもまた、泣いていた。

 でもそれは、喜びの涙だった。

 桜の花びら舞い散る舞台の上で、少女二人は涙を流しながら魂の旋律を紡ぎ上げた。

 幽香とユーカのデュエット。重なり合う旋律は、徐々に同調シンクロしていく。

 満開の花びらが彩る世界の中で、ユーカの身体が淡く発光し始めた。

 終わりの時が近い。

 満開の花々は盛りを過ぎていく。一つ、また一つと花弁を散らしていく。胸に儚さとかすかな温もりを残して、泡沫の如く消えていく旋律。

 桜とは、究極の一瞬を生きる花だ。


 ――散ればこそ いとど桜はめでたけれ 憂き世になにか 久しかるべき


 どんな花よりも見事に、盛大に花開き、一斉に散っていく。その刹那に、最高の生を謳歌するのだ。

 そして。

 ユーカもまた。

 役目を果たして、最後の時を迎えようとしていた。

 やがて、全ての桜が散り。

 余韻と共に、静寂が訪れた。

 ユーカの身体が、ひらひらと散っていく。最後の輝きを放ちながら、花びらとなって、消えていく。

 幽香は、ユーカに向かい合った。


「今までありがとうございました、ユーカ」

『いえいえ……ワタシの、方こそ……たくさん、迷惑をかけて、しまって……』

「っ、……そんなこと、ないです」

『なら、一つだけ、最後に……わがままを……言っても、いいですか?』


 ユーカは、消えかけの身体でふらりと観客席の方へ向かった。

 そこには、麗奈と陽介が並んで待っていた。


『氷川さん、少し身体を、お借りしても……いいですか? 怖いと、おっしゃるなら……無理にとは、言いませんが……』


 麗奈は突然のことに驚いていたが、ふっと笑った。


「あなたね、そんな顔で言われたら断れる訳ないでしょ?」


 麗奈は穏やかな笑みを浮かべて、「使いなさい」と身体を差し出した。


『ありがとう、ございます……』


 そして、するりと麗奈の身体に滑り込むユーカ。

 すると、一度ガクンと揺れた後、麗奈──否、ユーカは目を開いた。


「お兄、ちゃん」


 消失に耐えながら、ユーカが陽介に手を伸ばした。

 陽介がその手を取ると、ユーカは嬉しそうに笑った。


「最後の、お願い……聞いて、くれますか?」

「ああ、なんでも言え。僕にできることなら、なんだって……」


 陽介は精一杯笑いながら言った。それを聞くと、ユーカは安心したように一言、


「目を、閉じて」


 そう言った。

 陽介は何も考えずに頷いて、それに従った。

 そして──


「……んっ」


 ユーカは、陽介に口づけをした。

 触れるだけの、優しいキスだった。


「なっ……!?」


 舞台の上で、本体の幽香が目を見開いている。


「ふふっ……ワタシにも、いい、思い出が……できました」


 小悪魔風に笑うと、ユーカは麗奈から抜けた。

 倒れかかってくる麗奈を支えながら、陽介は自らの唇に手を当てた。


「……不思議な感じだ」


 感触は麗奈の唇なのに、ちょっとだけいつもと違うような気がする。そんなキスだった。

 ユーカは、ふらふらと幽香の元へと戻っていく。


「な、な、なななにゃ何して、何してくれちゃってんですかぁ!?」

『いいじゃ、ないですか……あなただって、分かる……でしょう? この、気持ち……』

「うう……」


 そう言われると弱いようで、幽香は唸った。


「……仕方ないですね。あなたは私なので許してあげます」

『えへへ……ありがとう、ございます……』


 そう言って笑うユーカの身体は、いよいよ限界のようだった。

 強まっていく光。輪郭がぼやけて、身体が桜の花びらとなって散っていく。


『お別れ……ですね……』

「……」

『もう、ワタシがいなくても……きっとあなた、ならば……生きていけますよ』

「……」

『なんで、泣いてるんですか……? ここは、笑って、喜ぶ……ところ、でしょう?』

「だっで……だっでぇ……」

『ほら、泣かないで……? せっかくのお化粧が、台無し……ですよ……?』


 釣られて、ユーカの頬からも涙が零れ落ちた。


『よく、頑張りましたね……私。安全装置として、切り離された……ワタシの生は、ここで終わりです。だから────』


 ユーカは穏やかな笑みを浮かべながら、そっと幽香に手を伸ばした。


『ワタシの分まで、ちゃんと……生きて……くださいね』

「はい……はい……っ」


 幽香は必死に涙を拭いながら、ユーカの手に自らの手を重ね合わせた。

 そして。

 そして──


「今まで、ありがとう。私を守ってくれて」

『今までありがとう。ワタシを受け入れてくれて』


 鎖でがんじがらめにされた末に割れてしまった心は今、再び一つに戻った。

 ユーカから生まれた桜の花びらが、幻想の風に吹かれて幽香の胸に吸い込まれていく。

 幽香はそれを、大切そうに胸に抱えて──



 ──おかえり、ユーカ。

 ──ただいま、幽香。



 一際強い輝きを放った最後の一枚が、散った。

 その光景は、どんな桜が散る様子よりも美しく、幻想的であった。

 陽介は、ユーカという妹の存在を胸に刻みつける。


 ──ちょっと恥ずかしがり屋な、僕の大切な妹。ユーカ……君はここで、生きたんだ。


 そしてまた一つ、陽介に一生忘れられない日が生まれた。


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