第09話 暗闇を照らす一筋の光に手を伸ばして
何をするにもまずは腹ごしらえ、ということで、ひとまずは夕食をとることになった。
麗奈の肉じゃがが完成し、キッチンからは良い匂いが漂ってくる。
「幽香ちゃんは食べられるかしら」
「聞いてくるよ」
陽介は幽香の様子を見に二階へ上がった。幽香の部屋を軽くノックすると、「はーい♡」という、いつになく機嫌の良さそうな返事が聞こえた。
「幽香、麗奈が夕飯に肉じゃが作ってくれたんだが、食べられ──」
ドアを開けた瞬間だった。
手首を掴まれ、部屋の中へと引き込まれた。
「なんっ──?」
そのまま思いっきり引っ張られ、そしてベッドに突き倒される。
「おい、幽香……どうしたん、だ……?」
ドアを閉め、近場にあったラックを倒してドアノブを動かないように固定する。
ぐるり、とこちらを振り向いた幽香の瞳は、焦点が合っていないように見えた。
「おにーちゃん♡」
その異常さに、陽介はおもわず後ずさりしていた。
「なんで逃げるの?」
一歩、また一歩と近づいてくる幽香は、妹のはずなのになぜかとても恐ろしいもののように見えた。服装はTシャツ一枚で、いつもは後ろで結んでいる髪もおろしたまま。前髪で隠れた瞳の奥には、爛々と燃え盛る感情が渦を巻いている。
「ユーカ、お兄ちゃんを押さえておいて」
『……』
すると、いきなり目の前にスッと現れたユーカが、陽介の体の中に潜り込んでいった。
「なっ……ぁ、ぐ……っ、?」
瞬間、体の自由が奪われた。まるで金縛りにあったかのように四肢は硬直し、身動きが取れなくなる。おまけに、ろくに声を上げることもできない。
「逃げないでくださいよぉ、お兄ちゃん」
ベッドの上で硬直し続ける陽介に、幽香は覆いかぶさった。
「これからお兄ちゃんは、ずっとこの部屋で生活するんです」
「な……に、いってん……だ、?」
意味不明なことを言い始めた幽香に、陽介はますます混乱する。かすれ声を絞り出して、真意を問いただそうとするが──
「お兄ちゃんもずっと私と一緒にいられたら嬉しいですよね? 嬉しいに決まってます」
つう、と幽香が陽介の太ももを撫で上げる。
「く、ぁ……っ」
ビリビリとした背徳的な感情が背筋を駆け上がっていく。苦悶の表情で、しかし逃げられない陽介。それを見た幽香は、さらに息を荒げて身体中を撫で回した。
「やめ、ろ……幽香……」
「なんでですか? お兄ちゃんも気持ちいいでしょう? こうやって身体を密着させていると、すごく幸せな気持ちになりませんか?」
どんどんエスカレートしていく幽香の行動。足同士を絡めあって、すりすりと内ももを擦り付けてくる。その感触が、快感が、神経を焼き切るような激情となって脳に送られていく。
女の子特有の甘い匂いが、まるで麻薬のように陽介の脳を支配していった。
「お兄ちゃん……好きぃ……」
潤んだ瞳で陽介を見上げる幽香。すでに狂気に染まり、理性の色は失われてしまっている。
「お兄ちゃん……」
そして。
幽香は、ゆっくりと唇を寄せて──
重ね合わせた。
「んんっ、んちゅ……っ」
最初は、優しく軽く。ついばむように、一瞬の触れ合い。
「ちゅ、ちゅ、ちゅ……んんんっ♡」
次第に激しく、貪るように。これまでの募りに募った思いを全てぶつけるように、幽香は陽介を求める。
抵抗することはできない。頭に手を回されて、グイグイと押しつけるように唇を重ねる。
抵抗できない分、陽介にはその快感がより強く伝わってきてしまう。麗奈とのキスとは違う、濃厚で、まとわりつくような重たさ……。
唇と唇の間から、ぴちゅぴちゅといやらしい水音が響く。その音が陽介の思考を、理性を、いとも容易く溶かしていく。この甘美な感覚に身を委ねてしまいたいと考えてしまう。
「んっ、はぁ……っ」
長い口づけが終わり、幽香がゆっくりと身を引いた。唇の間に銀糸が伝う。その背徳的な光景を目にして、幽香はさらに興奮を高める。
「キスって、こんなに気持ちいいんですね……お兄ちゃんは、もっとしたかったですか?」
「……」
「これからはいつでも一緒ですからね。いっぱい、気持ちよくなりましょうね」
頬を染めて優しく微笑む幽香。しかしその目には理性の光は宿っていない。渦巻く狂気が支配する、底知れぬ闇、闇、闇。
「幽香、なん、で……こんな、こと」
「なんで? 理由なんて、簡単ですよ? お兄ちゃんが好きで好きで、たまらないからです♡」
幽香がまた、陽介の身体を触り始める。愛しく撫でるように、全身に指を這わせていく。
「えへへ、お兄ちゃんの身体……かたい……」
幽香の柔らかい指の感触がビリビリと脳を揺らす。抗いがたい快感が、神経を通って直接脳に送り込まれてくる。
その時。
「幽香ちゃん? 陽介君?」
ドアの外から麗奈の声が聞こえてきた。
「れい……な……」
しかし陽介は、声をはりあげることはできない。
「ちっ。いいところで、あのクソアマ……」
幽香は身体を起こすと、ドアの方に恨みがましい視線を向けた。あの可愛らしい少女からは想像もつかないほどに、その表情は恐ろしかった。
「……? なに、これ」
ドアノブがガチャガチャと揺れるが、ラックが引っかかっていてドアを開けることはできない。
「もう、邪魔しないでくださいよ氷川さん。私たちは今、兄妹水入らずの時間を過ごしているんですから」
「兄妹水入らず……? 一体何をして──、陽介君! 陽介君、何が起きてるの!?」
「麗奈……っ」
掠れた声でなんとか返事をすると、それを聞きつけた麗奈が反応する。
「陽介君!? 大丈夫!?」
「あ、ああ……僕は、大丈夫だ……」
ドンドンとノックする音が聞こえてくるが、身体を拘束された陽介は身動きを取ることができない。
「氷川さん、お兄ちゃんの身体は今私の制御下にあります。もし私たちの幸せな時間を邪魔するようなことがあれば……分かってますよね?」
「──っ、?」
「麗奈、今は……言うことを、聞いてやって、くれ」
陽介は直感的に麗奈を遠ざけるべきだと判断した。いまこの少女に、麗奈を近づけるのはあまりにも危険すぎる。
「でもっ!」
「僕は、大丈夫。全部……なんとか、するから」
「……」
またも一人でどうにかしようとする陽介に対して、不満げな空気をにじませる麗奈だったが、大切な彼を言葉を信じない訳にもいかなかった。今現在、氷川麗奈にできることは、ない。それを思い知らされる。
「信じてるから」
だから麗奈は一言、そう声をかけた。
「分かったなら早くそこから消えてください。まあ動かないつもりなら、ユーカで強制的にどかすだけですが」
「……」
渋々、といった様子で、麗奈は階下へ消えていった。陽介としては心苦しかったが、今の状況でできることは、麗奈をこの狂気からなるべく遠ざけることだけだ。
「すまない……れい、な……」
「おにーちゃん」
突然、両手でガッと頭を掴まれて視線を固定される。
「麗奈麗奈麗奈麗奈って……そんなにあの女のことが気になりますか? そんなにあの女のところに行きたいんですか? ……許しませんよ。絶対に許さない」
ヒステリックに声を荒げる幽香。再び乱暴に唇を奪うと、
「ん、はぁっ……、ねぇ、お兄ちゃん」
熱に浮かされたような潤んだ瞳で、幽香は懇願する。
「私だけを見て……? 私以外いらないですよね……? ねえ、そうですよね……?」
幽香が覆いかぶさってきて、完全にベッドに押し倒されてしまう。陽介は、されるがままにその行動を受け入れるしかない。
「お兄ちゃんの口から聞きたいなあ……♡ 『幽香以外いらない』って、言って?」
「……っ」
「言って♡ 言って♡ 言って♡ 言って♡ 言って♡ 言って♡ 言って♡ 言って♡ 言って♡ 言って♡ 言って♡ 言って♡」
狂気を孕んだ瞳からは逃れることができない。埒があかないと判断した陽介は、答えた。
「……幽香以外、いらない」
「あっはぁ……♡」
恍惚とした笑みを浮かべる幽香に、陽介は身震いをした。
──異常すぎる。
もともと兄に対する依存心は高い女の子ではあったが、今の幽香は……明らかに、常軌を逸している。
「あは、ははは、ははははははは♡」
「おい、幽、香……っ!」
「はは、は──」
けらけらと笑い始めた幽香だったが、
「あ、あれ、頭が……」
突然頭を押さえて苦しみ出してしまった。
「大丈夫、か……!?」
「なんか、少しクラクラ、します……」
ふわふわと言葉を発する幽香だが、焦点が合っていない。
「おにい、ちゃ……──」
やがて、くたりと陽介の胸にもたれかかって、幽香は眠ってしまった。
すると、同時に陽介の身体を縛っていた謎の拘束が緩まった。
辛うじて手足を動かせる程度に回復した陽介は、眠ってしまった幽香の様子を確認する。幽香の額に手を当ててみると、
「……すごい熱だ」
案の定、熱は以前よりも上がっていて、息も非常に荒い。幽香の体調は悪化しているようだった。
その時だった。
『──……ゃん、お兄ちゃん!』
陽介は、まるで自分の胸のうちから響いてくるような声に面食らった。
「だ、誰──……っ、ユーカか!?」
瞬間的にその声の主を判断した陽介は声を上げる。
『はいっ、ユーカです!』
「ユーカ、これは、一体何が起きてるんだ!?」
『説明します! でも、ここでは……』
ユーカは少し迷ってから、提案をした。
『お兄ちゃん。何も聞かずにワタシの言う通りにしてください。今なら、本体の目から逃れることができる──』
「何も聞かずって……」
先ほどの異常な出来事があった後では、信じたくても信じられないのが本音だったが──
『ワタシを、信じてください』
ユーカのその一言を聞いて、陽介に反論する意思はなくなった。
「……分かった、言う通りにする。どうすればいい?」
『ゆっくり、目を閉じて。心を落ち着けて、波打たぬように……』
陽介は言われた通りに目を閉じて、これまでの出来事で荒ぶっていた心を静めた。
『そうです。あとはワタシに任せて──』
その言葉を聞いているうちに、陽介の意識はすうっと闇に吸い込まれていく。
深層へ、意識が落ちていく──。
☆★☆
再び目を開けると、そこはすでに幽香の部屋ではなかった。
真っ暗で、自分の体以外は何もない。一面の闇。果てしなく続く暗黒の世界。
「ここ、は……?」
『お兄ちゃんの深層意識の中です、と言っても、想像がつかないかもしれませんが』
突然目の前に、ぽうっと小さな光が現れた。その光はぐにゃりと形を歪めると、少女へと変貌した。
その姿は、夏目幽香と同じ。つまり、
「ユーカ、か?」
『はい、お兄ちゃん』
申し訳なさそうに笑うユーカ。そんなユーカに、陽介には聞きたいことが山ほどあった。
「ユーカ、さっきのアレは一体何だったんだ……?」
ユーカは俯いて、苦しげに答えた。
『大きな精神的な負荷で、私の心が歪んでしまったんです』
幽香はぽつり、ぽつりと語り始めた。
『この話をするにはまず、ワタシという存在が何なのかを説明する必要がありますね。──本体の影響から逃れられるこの場所でしか話せない、ワタシという存在について』
「……ユーカ、お前は何なんだ?」
それは彼女が現れて以降、ずっと疑問に思っていた点だった。
半透明の幽霊、ユーカ。夏目幽香と全く同じ姿形、声音。性格も酷似している。突然陽介の前に現れた、謎の存在。
『ワタシは、夏目幽香の安全装置です』
ユーカはまず一言、自分のことをそう表現した。
『どうやってこんな存在が生まれたのかとか、どういう理屈で存在しているのかとか、そういう部分は分かりません。ただ一つ分かるのは、ワタシはもともと、夏目幽香の心のうちにある安全装置だったということ。心に精神的な負荷が掛かって、歪みが生じた末に「割れてしまった」──夏目幽香の心の一部。言い換えるならば、理性』
「……理性」
陽介は先ほど見たあの狂気に染まった瞳を思い出した。確かにあの瞳には理性の光はなく、深い深い虚無の世界が広がっていたように見えた。
『……自分でこんなことを言うのは恥ずかしくて仕方がないんですが、ワタシはお兄ちゃんのことが好きです。兄として……ではなく、一人の男性として、です』
「う、うん」
陽介としても返答に困る台詞だったが、目をそらすことなく言葉の続きを待った。
『だけどもちろん、ワタシは妹なので……抑えていたんです。この気持ちを、募り続けるこの想いを。それが、理性であるワタシの役目でした』
少しずつ、陽介にも話が見えてきた。なぜユーカが生まれたのか、その理由が。
『あの日──氷川さんと二人で帰ってきて、仲睦まじそうに手を繋いでいる二人を見て、ワタシという存在は悲鳴を上げました。このままでは「夏目幽香」が保たない。だから、理性を捨てたんです。ワタシという存在を、本体から切り離すことによって』
そうして、ユーカが生まれた。
そういうことだったのだ。
安全装置であるユーカは、あのまま本体に残っていたら本体に深刻な負荷をかけてしまっていた。だからこそ、切り離すしかなかった。本体は理性という名の安全装置を切り捨てることで、なんとか負荷を耐え切ったのだ。
『でも、そんな状態で本体が無事でいるはずがありません。何せ、理性を捨ててしまったのですから。ワタシが本体に戻らないと、次第に欲望が抑えきれなくなっていきますし、先ほどみたいな事態に発展することになるんです。言わば、傷口が開いたまま治療もせずに放置しているような状態。このまま放置すればきっと……夏目幽香は、壊れてしまう』
陽介は息を飲んだ。事態は思った以上に深刻だった。体調不良も恐らく、これが原因なのだろう。
「……ユーカを本体に戻すには、どうすればいいんだ」
陽介は思わず聞いていた。大切な妹を守るために。
『……心の弱さを受け入れて、自分の気持ちに素直になること。幽香が心の奥底にしまってしまった、ほんとうの音色を思い出させてやること』
「ほんとうの……」
『──まずい、時間がない。幽香の意識が浮上し始めています』
ユーカは漆黒の空を見上げて、焦ったように唇を噛んだ。
『お兄ちゃんの意識を防壁にしていても、本体が目覚めてしまえばきっと気づかれる。もう時間がありません』
「ユーカ! まだ聞きたいことが──」
『お兄ちゃん』
ユーカはすーっと陽介に近づくと、陽介の手のひらを胸に包み込んだ。深層意識の中ならば、彼女と触れ合うことができるのだ。
『氷川さんに伝えてあげてください。首に痕をつけてしまって、ごめんなさいと』
「おい、待て──」
『ワタシもお兄ちゃんとずっと話していたかったです。でも、ここまでですね。最後に──』
目の前がのユーカがゆらり、ゆらりと像を解いていく。
『ワタシがお兄ちゃんがいないと生きていけないと「錯覚」し始めたのは──あの春の……──』
遠のいていく、涙に濡れたユーカの声。
『ごめ──なさい。あとはお願……──します』
薄れていく、手のひらの温もり。
『おに──ちゃん……──信じてい……──どうか、なつ……──幽香を……──』
そして。
願うように。
祈るように。
最後にユーカは、一際強く輝きを放った。
『──私を、救ってあげてください』
星がその命を燃やし尽くす瞬間のような強い光が、暗黒の世界を照らした。陽介は思わず目を閉じて顔を覆った。
再び目を開けたとき、もうそこにユーカの姿はなかった。
残されたのは、暗黒の世界できらめく、尊き涙の残滓のみ。
急速に意識が浮上していく。
その中で陽介は、胸に手を当てて、託された想いを確かめた。胸に刻まれた、ユーカの『救済』を求める言葉を。
「ああ、ユーカはめんどくさい女の子だ」
こんな回りくどいやり方で、時間をかけて……でもちゃんと、想いを伝えてくれた。『助けて』と、口に出してくれた。
「──僕はその言葉を、ずっと待ってたんだ」
五臓六腑を駆け巡るのは、揺るぎない意志。
情けない兄の魂に宿るのは、燃え盛る決意の炎。
彼女が残した星の輝きは、一人の少女を救う道標。
そして。
大切な妹の切なる叫びを、その胸に抱いて──
少年は再び、立ち上がる。




