第08話 咲き誇れ狂愛の花
「氷川さんー、麗奈ちゃんって呼んでもいいですかー?」
「え? 別に構いませんけど……」
「わーい、やったー」
突然、梨沙が麗奈に抱きついた。
「ふええ!?」
「むー、スタイルがいいとは思ってましたが、着痩せするタイプですかー? 意外としっかり……」
「わああ!? やめてください!」
麗奈は、いきなり制服のブレザーの上から胸を揉みしだかれて目を白黒させていた。
「ちょっと! 陽介くんも何平然と見てるのよ!」
「いつものことだからなあ」
生徒会長は可愛い女の子を見るとすぐに抱きつくのだ。生徒会長の席の周りにある大きなぬいぐるみたちも、その性癖によるものである。
「んー? ここがいいんですかあ?」
そう言って梨沙は、黒いタイツに包まれた麗奈の内ももをするりと撫で上げた。
「ひゃうん!?」
「いい声で鳴きますねー♡」
完全におっさんの顔になった会長が、麗奈のあんなところやこんなところをまさぐる。
「麗奈の太ももは最高……」
「確かに氷川さんの太ももはいいな……」
「あげないぞ」
「そこ男二人っ! バカ言ってないで早く助けてよ!」
しゃーないな、と陽介は梨沙を止めにかかる。
「僕の彼女をあんまりいじめないでください」
「いじめてませんよー。ちょっと可愛い声を出すので興奮しちゃったのですー」
「今度代わりに寧々を連れてきますから」
「ほー。ならまあ今日は勘弁してあげましょー」
ようやく解放された麗奈は、べたりと地面にへたり込んだ。
「なんか、すごいデジャヴるんだけど……私いつもこんな目にあってない? ヒロインの扱いが酷くない? 私がメインヒロインよね?」
麗奈は「あの子と生徒会長を引き合わせたら一体どうなってしまうのだろう……」と不安になった。
「いやー、陽介ちゃんの彼女というからどんな子なのかと思ったら、大変可愛らしい子ですねー」
「でしょう。僕には勿体無いくらい」
「……」
座り込んだまま赤面して俯く麗奈を見て、梨沙は妖しく舌舐めずりをした。
「食べちゃいたいくらい」
「!?」
霧島梨沙は、周りから淫魔ではないかと恐れられている。
☆★☆
「なあ、凛太朗」
「ん?」
「幽霊って、信じるか?」
「信じねえ」
「だよな」
沈黙。
パソコンの打鍵音が生徒会室に響き渡る。
「でも、見ちゃったんだよな」
「は?」
「本物を」
「マジで?」
「ああ。髪は肩口くらいまでで、華奢だけどスタイルが良くて、ものすごく積極的にアプローチしてくる、貧乳の幽霊」
「幽香ちゃんみたいな幽霊だなそいつ」
「そいつが今うちにいるんだが」
「は?」
「そこはまあ、突っ込まなくていい。僕はそいつを成仏させてやりたいんだが、どうすればいいか分からないんだ」
「は、はあ」
試しに聞いてみたが、凛太朗は困惑気味だ。
「幽霊、ね……」
それでも、真面目に陽介が聞いているのだと察した凛太朗は、ちゃんと考え始めた。
「そりゃ、幽霊であるのなら未練をなくしてやるのが解決法だろ。だが……察するに、例え話なんだろ? なら──」
どうやら都合よく解釈した様子の凛太朗は、なぜか常に持ち歩いているらしい白球をもてあそびながら答えた。
「そいつが幽霊になっちまった原因を探して、その原因を取り除いてやるしかないんじゃないか?」
「原因……」
「心当たりはないのか?」
「……どうだろう」
いろいろとモヤモヤしたものが浮かんでいたが、思考をまとめるには、どこかで腰を据えて考える必要がありそうだった。
「でも、ありがとう。参考になった」
「おう」
麗奈に手伝ってもらって仕事も終わった。陽介は荷物をまとめる。
──幽霊になった原因。ユーカが生まれた理由。
麗奈との交際宣言の、その先にある幽香の感情。
それが何なのかを理解する必要があった。
☆★☆
家に帰り、麗奈は夕飯を作ってくれるということでキッチンへ向かい、陽介は幽香の元へ行く。
「ただいま、幽香」
「ん、おかえりなさいお兄ちゃん」
布団にくるまっている幽香の顔は赤く、息も少し荒い。
「大丈夫か?」
「お兄ちゃんが抱きしめてくれたら、治るかも」
「思ったより平気そうだな」
部屋の隅では、ユーカがふわふわと浮いたまま寝ている。
「幽霊って寝るのか」
「あれは寝てるんじゃなくて目を閉じてるだけみたいですよ」
「へえ」
パジャマ姿に変身して、微睡んでいるユーカ。半透明といえど姿形は幽香と同じなので、非常に可愛らしい。
とはいえ、幽香の部屋に来たのは可愛らしい妹の寝顔を見るためではない。
「体調が悪い時にすまないが、ちょっとだけ話を聞かせてくれ」
「は、はい」
陽介はベッドの脇に座って、本題に入った。
「僕が自意識過剰でないとするならば、幽香は僕のことを好いてくれているよな?」
「……もちろんです」
「なら、なんで幽香は僕のことが好きなんだ?」
「え? それは──」
幽香は赤かった顔をさらに真紅に染めて、もじもじしながら答えた。
「お母さんから私を、守ってくれたから」
おずおずと、幽香は語りだす。
「あのときのお母さん、すごく怖くって……そこにお兄ちゃんが来てくれて、私はとても安心したんです。ああ、この人のそばにいれば私は大丈夫だって、思ったんです」
熱に浮かされたのか、瞳を潤ませた幽香はちょいちょい、と手で兄を呼ぶ。
「お兄ちゃん、ちょっと」
何事か、と陽介が顔を寄せると──
「んっ」
突然のことだった。
とても柔らかい何かが、頬に触れた感覚。
それは、
紛れもなく──
「えへへ。好きですよぉ、お兄ちゃん」
「幽、香……」
これは、どういうことなのか。
陽介はまだ感触の残る頬を撫でながら考える。
──幽香は、ここまで大胆な女の子だったか?
確かに夏目幽香は暴走気味なところのある少女だった。しかし思い返してみても、実際に一線を越える行動に起こしたことはほとんどない。それはきっと、彼女の根の部分がとても純粋だからなのだと、陽介は思っていた。
だから、今回のこの行動には若干の違和感が付きまとっていた。
妹として兄に向ける親愛。
女として男に向ける情愛。
彼女の中に渦巻く感情は、いったい何なのか。
「……また様子を見にくるよ」
答えを出すには、もう少し時間がかかりそうだった。
☆★☆
『大丈夫ですか、私?』
「……ええ、ちょっと危なかったですけど、なんとか抑えました」
『……こっちは本家《私》の精神状態に引きずられるんです。あなたが揺れると、ワタシも揺れる。ワタシは割れた思いの欠片。あなたがいくら苦しもうと、ワタシはあなたを助けてあげることはできない。受け止めてあげることしかできない。──でも今は、それも……』
「分かってます。分かってますよ、そのくらい。黙っててください」
『……』
「ワタシなんていなくても、私は平気です。どっかいっててくださいよ、目障りです。」
『ワタシという安全装置が外れてしまった今、夏目幽香という存在はとても危うくなっています。だから──』
「しつこいッ! あなたの存在は私の心の弱さの象徴なんですよ! あなたも私なんだから分かるでしょう? すっこんでてくださいッ!」
『……本当に厄介なんですから、私』
☆★☆
やがて冬休みが終わり、学校が始まった。
麗奈は復学を果たした。今はクラスとは別に、復学に必要な勉強を進めている。
四月、陽介とともに三年生になるためには、膨大な量の勉強をしなければならない。麗奈はそれに悲鳴をあげつつも、
「絶対に同じ大学に行くんだから!」
と、気合を入れて机に向き合っている。
幽香の容態は依然として微妙なままだった。常に微熱で、若干の体調不良が続く現在、学校に行くのは体に良くないということで休んでいる。
薬をもらいに病院にも行ってみたが、どうやら抵抗力が下がっているような状態らしく、薬で改善できるのは一時的なものでしかないようだった。
「お兄ちゃんがそばにいれば、幽香はいつでも元気いっぱいですよ♪」
幽香はそう言うが、体調が好転しない以上、何か策を講じなければならない。
しかもそれが心象病に端を発するものであるならば、なおさら陽介がなんとかしなければならない。
「……」
その日最後の授業の鐘が鳴ったのを、陽介はぼんやりと聞いていた。
「おい、大丈夫かよ?」
後ろから声をかけるのは凛太朗だ。制服のまま野球帽をかぶり、でかいエナメルバッグを肩に担いで、今すぐ部活に行くぜ! という雰囲気である。
「なんの話だ?」
「なんのって、お前だよお前。冬休み明けからずっと上の空だろ」
「あー」
「幽香ちゃんの体調の件か?」
「……まあ、そうだな」
陽介が適当にそう返事をすると、凛太朗はバシッと陽介の背中を叩いた。
「うわっ」
「しっかりしろよ! 兄貴なんだろ? お前がそんなんじゃ、幽香ちゃんだって治るもんも治らねえだろ」
「兄貴、か」
陽介は考える。
これまでに起こった出来事、聞いた話、モヤモヤとしていた考えをゆっくりとまとめていく。
そしてようやく、陽介は一つの結論に近づいていた。
「心配すんな、僕は大丈夫だ」
「……ほんとかよ」
荷物をまとめて教室を後にする陽介の背中に、不安げな凛太朗の声がかけられた。
「昔っから、変わんねーな。お前は」
☆★☆
陽介は、今までの出来事を振り返っていく。
突然倒れた幽香。
首絞め事件。
ユーカの登場。
そして、
──『どう、して……っ、私、頑張らなくちゃいけないのに──』
──『そいつが幽霊になっちまった原因を探して、その原因を取り除いてやるしかないんじゃないか?』
──『あのときのお母さん、すごく怖くって……そこにお兄ちゃんが来てくれて、私はとても安心したんです。ああ、この人のそばにいれば私は大丈夫だって、思ったんです』
聞いた、言葉の数々。
それらから導き出される結論が一つ、あった。
家に帰ると、もはや馴染んだエプロン姿の麗奈が、鼻歌混じりにキッチンに立っていた。
「~♪ ……あら、おかえり。今日は肉じゃが──」
「麗奈。ちょっと、いいか」
陽介は荷物を適当に放り出し、制服もそのままに麗奈に話しかけた。
「どうしたの?」
真剣な声音に、怪訝な顔をした麗奈が台所の火を止めてリビングにやってくる。
「幽香が発症した心象病の原因が、おそらく分かった」
「……ほんと?」
突然の一言に、麗奈は面食らった様子だが、言葉を飲み込むと、次第に笑顔になった。
「よかったじゃない。なら早速──」
「僕だ」
「……え?」
「僕の存在が、幽香の心象病の原因だったんだ」
思い返してみても、陽介にはそうとしか思えなかった。
幽香が倒れたのは、陽介と麗奈の交際宣言だ。あの時は「麗奈のせいだ」という話になってしまったが、逆を見れば「陽介のせい」でもある。
首絞め事件。
陽介は当事者ではないので、伝え聞く話からの推測にしかならないが、おそらく暴走したユーカが起こしたもの。麗奈を攻撃したのは、「陽介を取られまいとする幽香の意志」。ならばこれもまた、陽介が原因の中心にある。
そして、
──『どう、して……っ、私、頑張らなくちゃいけないのに──』
幽香が苦しんでいるのは、陽介のためだ。震える手を押さえつけてまでバイオリンを弾こうと頑張っていたのもきっと、兄に聴かせるため。
──『あのときのお母さん、すごく怖くって……そこにお兄ちゃんが来てくれて、私はとても安心したんです。ああ、この人のそばにいれば私は大丈夫だって、思ったんです』
分かりきっていたことだった。幽香は陽介に依存している。陽介なしでは生きられない体になってしまっている。ならば幽香の変調は全て、陽介に原因がある。道理はそれで、通っている。
──『そいつが幽霊になっちまった原因を探して、その原因を取り除いてやるしかないんじゃないか?』
だとするならば。
答えはもう、決まっていて。
どうすればいいのかは、分かっていて。
そして。
「僕の存在が、幽香の変調の原因ならば──」
陽介は、
「それを解決するには──」
全てを終わらせようと、
「僕が、幽香の目の前から消え──」
バチンッ! と。
破裂音が、リビングに響き渡った。
「……ねえ」
低く、鉛のように重たい声がした。
「あなた、本気で言ってるの?」
「……ぇ」
陽介は、何が起きたのかを理解できなかった。
急激にブレた視界。
じんわりと熱くなる頬。
そして、その熱はじくじくと痛みを発し始める。
「本気で自分が幽香ちゃんの前から消えた方がいいって、思ってるの?」
「で、でも……それ以外に、」
「でももだっても聞きたくないッ! こんな時に男らしくもないッ!」
胸ぐらを掴み上げられる。
麗奈の瞳は、涙で濡れていた。
「あなた、自分が今しようとしてるのがどんなことか分かってるの? そんなの──」
目尻に涙を溜めて、麗奈は絞り出すように言った。
「あなたのお母さんと、同じじゃない……!」
「……っ、」
圭子と、同じ。
あの所業と、同じ?
「……違う」
陽介は自分が苛立ちを覚えているのを自覚した。
「あの女と一緒にするなッ! 僕はあの女とは違うッ! 僕は、幽香のためにできることを考えて──」
「その結論が、これだっていうの?」
呆れるわね、と麗奈は吐き捨てた。
「もう一回引っ叩いてあげましょうか? ……よく考えて。あなたがやろうとしてるのは、幽香ちゃんから残された唯一の家族を奪うということなのよ……?」
「かぞ、く……」
麗奈は言葉を震わせて、陽介の胸に顔を埋めながら、痛みをこらえるように苦しげに言った。
「私に言ってくれたあの言葉は、嘘だったの……?」
──『僕がお前の家族になってやるッッッ!!!!!!』
もちろん嘘な訳がない。絶対にありえない。だが──
「じゃあ、どうしろって言うんだよ……」
学校が始まってからも、陽介はずっと考えてきた。幽香の心象病を治す方法。ずっと側にいてやるだけではダメだった。ならばもう、離れるしか……。
「あの時──」
その思考を断ち切るように、麗奈が言葉を割り込ませる。
「あの時、どんなに絶望的な状況でも、諦めずに私に手を差し伸べてくれた陽介君はどこに行っちゃったのよッ! もともと他人だった私を救って見せたあなたでしょ! 自分の妹くらい……簡単に救ってみせなさいよッ!」
目を真っ赤に充血させて、それでもまっすぐに、麗奈は陽介の瞳を見据えた。
「私はあなたのそういうところに惚れたのッ!」
その中には強い意志と、折れない心を秘めていた。
それは、陽介にもらった強さだ。
麗奈はその気持ちへの感謝を込めて、陽介を支えるのだ。
──寄りかかっていいのだと、教えてくれたから。
だからこそ、彼が道を誤りそうな時は正してやるのだ。
麗奈は決意を胸に、言葉を紡ぐ。
「私もいる」
「麗奈……」
「一人じゃない」
「……分からないんだ。どうすればいいのか。どうしてやるのが、正解なのか」
「大丈夫。一緒に考えましょう。辛かったら、私にもたれかかってもいいから」
そしてゆっくり、麗奈は陽介を抱きしめた。
「……情けないな」
「ほんとよ。なんで今回に限ってこんなに情けないのよ」
「……麗奈がいてくれるから、かな」
「……ばか」
実際陽介の中には、氷川麗奈が常にそばにいてくれるという安心感があった。だからこそ、弱気になってしまったのかもしれない。
「はぁ~、もう。いきなり何を言い出すかと思ったら……」
「……ごめん」
「しっかりしてよね。お兄ちゃんでしょ」
「……面目ない」
これは将来尻に敷かれそうだと、陽介は思った。
☆★☆
「ぅ、あぁ……ぁあああぁ……」
『っ、しっかり、して……っ!』
「お兄、ちゃん……おにいちゃん……お兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁ…………っ」
『ぐ、ぅ……ぁ……っ』
「あは、ははははははははははははははは、はははは――――――――おにーぃちゃん♡ おにーぃちゃん♡ おにーぃちゃん♡──」




