第01話 凍り付いた時計
「氷川、クラスメイトだったのか……」
生徒会室は、生徒会長が勝手に持ち込んだヒーターやらぬいぐるみやらで無法地帯と化していた。生徒会長は学園長の娘なので、先生も容易に口出しはできないのである。生徒に範を示すべき組織としては如何なものかと思うが、過ごしやすいので口出しはしない。
そのヒーターに両手を伸ばしながら、部屋の中でもマフラーを外さない少女──氷川麗奈は機嫌が悪そうに答えた。
「二年一組でしょ。なら同じよ」
「てことは、あの新学期以降一回も登校してないのって氷川のことだったのか」
陽介が名前や容姿を知らなくても当然だった。氷川麗奈は同じ藤が丘高校二年一組だったが、一年生の終わり──冬休みに起きたとある事件以降、一度も登校していない。
その事件こそ、氷川麗奈の人生を狂わせた最大の要因であり、少女の身に起きた不思議な現象の発端であった。
「教えてくれよ、何があったのか」
「嫌よ。なんで無関係のあなたに──」
「無関係な他人の問題に、理由もなく首を突っ込むのが僕の趣味なんだ」
「イカれた趣味を披露しないで。私はもう帰──っくしゅっ!」
可愛らしいくしゃみが寒空に響き渡った。
「……んんぅ」
「コーヒー飲むか?」
「…………~~~~っ」
麗奈は顔を真っ赤にして陽介をキッと睨みつけた。
「恩を売ろうって魂胆かしら」
などと言いつつちゃっかりコーヒーを受け取り、カップを両手で包んでいる。
「寒がりなんだな」
先ほどつかんだ腕も冷え切っていたようだし、冷え性なのかもしれない──と陽介が考えていたところに、麗奈が口を開いた。
「私は体温が低いのよ。なぜかは分からないけど」
「なぜかは分からない……? どういうことだ?」
「そして、これが自殺未遂の理由でもある」
麗奈は陽介に背を向けてヒーターに当たりながら、コーヒーを啜った。
「……本当不思議」
はあ、と吐息がコーヒーの湯気を揺らした。
「今まで人に話したことなんてなかったのに。見ず知らずのあなたにこのことを話すことに、私は抵抗を感じていない」
見ず知らずの他人だからこそ話せることもあるのだろう。カウンセラーが存在するのはそういう時のためだ。家族や親戚に、延々と弱音を言ったり愚痴をこぼしたりすることはできない。 一定の距離感で、そういうモヤモヤを受け止めてくれる人間が必要な時がある。氷川麗奈という少女に今最も必要なのはまさにそれであり、都合よく現れた夏目陽介は人の懐に入り込むのが上手い男だった。
だからこそ。
少女の氷の牢獄に、わずかな軋みが生まれる。
それはほんの些細な変化。
本人でさえ気付かない、始まりの一手。
これが吉と出るか凶と出るか、今はまだ分からない。
しかし。
間違いなく。
──停滞した時計の秒針が今、動き出そうとしていた。
「話すわ。私に何があったのか、何が起きたのか」
☆★☆
三人家族。仲は良好。おしどり夫婦と近所でも話題になる、絵に描いたように円満な家庭。それが、氷川麗奈の家庭だった。
去年の冬休みのことだった。長期休暇を利用して、家族で母方の実家に帰省した。祖母はすでに独り身で、麗奈たちの訪問をいたく喜んだ。
「ねえねえ、次はいつ会えるかしら!」
帰り道を行く車の中で、少女は後部座席から乗り出して両親に尋ねた。
「もう! 危ないからちゃんと座ってなさいって言ってるでしょ!」
母はそんな娘を叱りながらも、すっかりおばあちゃんっ子に育ってしまった麗奈を微笑ましく思っていた。高校一年生になっても、麗奈はおばあちゃんにべったりだった。
「そうだなあ、次は夏休みになるかな。ごめんな、忙しくてなかなか時間が取れないんだ」
父親はどこにでもいるサラリーマンだ。毎日夜の十一時頃に帰ってくる生活で、娘と遊んでやれないのを申し訳なく思っていた。だからこの帰省では精一杯家族サービスができてよかったと、少し満足げに、そして少し誇らしげにハンドルを握っている。
「いいわよ、別に。また来ればいいんだから」
来年も、そのまた来年も、家族みんなで祖父母の家を訪れる。そんな未来を、誰も疑っていなかった。
──なぜなら。
こんな突然悲劇が起きるなんて、誰も予想はできなかったのだから。
「雪が強くなってきたな」
父がワイパーの往復速度を一段階上げた。降りしきる雪で視界は白く染まり、十数メートル先までしか見通せないような状態だった。山道にさしかかり、木々をかき分けるように敷設された道路を走る一台の乗用車。右手には山肌、左手にはガードレールの向こうに崖がある。確かに通るには少し勇気のいる道であったが、父親は運転に細心の注意を払っていたし、何度も通ったことがある道だ。整備もきちんと行き届いている。そこに、危険はない。
だが絶望は唐突に、真上から訪れる。
「地震?」
そう言って、母がふと顔を上げた。
「確かに、なにか……」
数瞬遅れて父が気づく。車の中からでも分かるほど大きな揺れ。
「怖い……」
麗奈は車の取っ手にしがみ付いた。漠然と嫌な予感がした。
「あなた、一旦車を止めた方が……」
「ああ、そうだな」
母の助言に、父は従った。車を止めて、地震が収まってくれるのを待った。
結果的には、それが過ちだったのだろう。
鳴り止まぬ地鳴りに、何か別の音が混じり始める。
「これは──」
父が異変に気がついた時には、もう遅かった。
ドゴゴゴォオオオオオオオオオッ! と、押し寄せる爆音。その正体は、雪崩だった。
そこからは一瞬の出来事だった。山肌を流れ落ちてくる大質量の雪塊。思考する間もなく押し流される車。
ガードレールを破壊し、崖下に落ちていく──。
──そしてどれだけの時間が経ったのか、気を失っていた麗奈は目を覚ました。
体が動かない。前後左右も知覚できない。自分がどのような体勢で、どのような場所にいるのかが全く分からない。朝なのか夜なのかも判断ができない。ただ一つ、辺りは薄暗闇に包まれていて、ここが現実世界であることだけは理解できた。
麗奈は、生きていた。
次第に五感が戻ってくると、少女は状況を思い出す。雪崩に巻き込まれ、家族三人で乗った車は崖下まで転落したのだ。
車の中に侵入した物体が雪だと気がつくと、途端に寒さが襲いかかってきた。いったい何時間こうして気を失っていたのか分からないが、この雪は麗奈を死に至らしめることはなかったようだ。
だがなぜ、生きていられたのか。凍死していても、おかしくはないのに。
「おかあ、さん……?」
そして麗奈は、自分に覆い被さっているモノが両親であるとようやく気がついた。
「お、とう……さん……?」
衝撃から守るように、冷気から遠ざけるように、麗奈は両親に抱きしめられていた。
「れい、な……」「ああ、れいな……」
父と母の掠れた返事が麗奈の耳に届く。そして──
「生きてたのね、良かった……」
「ああ、本当に、良かった……」
両親から流れ出た温かい血液が、麗奈の頬に滴り落ちる。
生温かい血液は、まるで両親の温もりを娘に捧げるように流れ出していた。
「……おかあさん、おかあさん! おかあさんっ!」
その時にはもう、返事はなかった。
「ねえ、おかあさん──」
代わりに返ってきたのは、
「おとうさん──」
まるで、
「嘘──」
死体のように、
「そん、な──」
冷え切って、
「嫌──」
人の手とは思えないほどに硬直した、
「嫌ぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」
死体の、感触だった。
──結果的に両親は、娘を守り抜いた。
救助隊が駆けつけたときには、麗奈はひどく衰弱していたがまだ生きていた。しかし、何時間も外部の冷気に直にさらされていた両親は間に合わなかった。体を温める毛布や上着なども全て麗奈に回していたのだから、大人といえど耐えきれるはずもなかった。
両親を失い、失意の底にあった麗奈に対して、世界はどこまでも残酷だった。
後を追うようにして、祖母が亡くなった。
もともと持病の心臓病がよくなかったのもあったが、そこに追い打ちをかけるように自分の娘が亡くなり、まるで生きることを諦めたようにぱたりと、祖母は亡くなった。
麗奈は、全てを喪った。
同情の言葉をかける友人がいたが、麗奈の耳にはもう届いていない。
少女は、生活保護を受けながら一人で生きていくことになった。自分は誰の目にも留まらず、人知れず死んでいくのだろうと麗奈は思った。自分を守ってくれた両親に対する申し訳なさと、なぜ私なんかを守って死んでしまったのかという葛藤の中で苦しみ、何度も自殺を考えた。
両親がいなくなり、一人きりの部屋の隅で、膝を抱えながら泣き続ける日々。孤独に押しつぶされそうになる生活の中で、ストレスの影響か長髪は総白髪へと変わり果てた。麗奈の心は寒さに蝕まれていき、ゆっくりと凍りついていく。
少女は孤独な牢獄の中に独りきり。
なぜこれほどまでに神様は理不尽なのかと恨むことすら、いつの間にかしなくなっていた。
泣きたくても、凍りついた涙はもう出てこない。
この時、氷川麗奈の時計は止まった。