第02話 不協和音
目が合った瞬間だった。
陽介の両腕が素早く伸び、麗奈の首を捉えた。
「ぁ……ぐ……っ!?」
首を強く締め付けられて、麗奈は呻き声を上げた。
呼吸ができない。
なぜ。
どうして。
そう思考する余裕すらなかった。
「やめ……て……っ!」
理由は分からないが、とにかく今はこの状況を脱するしかない。麗奈は逃げ出そうと足掻いた。
「お前が……お前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前がお前が! お前があああァッ!」
「く……は……っ」
髪の隙間から、陽介の血走った目が見え隠れしている。狂気に染まり、衝動に身を任せたものの目だった。
酸素の欠乏で意識が混濁し始める。陽介の首の締め方は強引で、すぐに意識が落ちるようなことはなかったが、それは逆に苦しみが長時間続くことを意味していた。
「おね、がい……やめて……よ、すけっ、くん……」
陽介が非力な帰宅部といえど、男女の筋力差というものは厳然としてそこにある。加えて体勢も、馬乗りになっている陽介の方が断然良い。力づくで抜け出すということは、不可能に近かった。
「お前が、お前が──」
狂ったように繰り返す陽介。麗奈は、少しでも気道を確保するために腕を押し返しながら、その言葉をただただ聞いていた。
「お前が……いナければ……幽香は……ッ!」
「──、」
お前がいなければ、幽香は。
続く言葉を聞かずとも、何を言いたいのかは分かった。分かってしまった。
──氷川麗奈がいなければ、夏目幽香が倒れることもなかった。妹が心象病を発症せずに済んだ。
陽介はきっと、そう言いたいのだ。
それを理解した瞬間、麗奈は激しい胸の痛みを感じた。その痛みは、首を絞められていることよりもよっぽど辛くて苦しいものだった。
麗奈には、陽介がこんなことをするとはとても思えなかった。
きっと何かの間違いだろうと、信じたかった。
しかし現に、陽介は今こうして麗奈の首を絞めているのだ。
それは紛れもない事実であり。
疑いようのない、真実であり。
「そっ、か……っ」
だから。
「私、の……せい、で……」
麗奈は。
「ごめん、ね……」
一切の抵抗を、やめた。
その瞬間、陽介の両腕が首を一層強く締め上げた。爪が皮膚に食い込み、麗奈の白い肌から血が滲んだ。
「ぅぐ、ぁ……ぅっ」
声にならない掠れ声が出た。
血管が圧迫されたことで、脳に回る血液が滞っていく。
朦朧とし始めた意識の中で、麗奈は謝り続けた。
自分がもし、陽介の心に負担をかけてしまっていたのならば、麗奈はすぐにでも身を引く覚悟があった。
心の底から愛しているからこそ、陽介の足枷になりたくない。苦しめる原因になりたくない。
離れ離れは辛いけど、それでも一人で生きていってみせる──この胸の温もりがある限り、私はきっと大丈夫だから。
陽介が「死ね」というのならば、喜んで死んでみせよう。
陽介が「消えろ」というのならば、すぐにでも目の前から消えてみせよう。
その決意と覚悟の表れが、今回の行動だった。
もちろん麗奈は、陽介はこんなことを言わないと信じている。だから今回はきっと何かの間違いだ、と。
心の底から陽介のことを信じているからこそ、麗奈は身を任せた。
それでも息苦しさが変わる訳ではない。意志とは別に、体が空気を求めて暴れている。
「ご、め…………ん……ね……」
ひゅーひゅーと漏れる空気の中に混じって、何度も何度も「ごめんね」という言葉が繰り返された。
それに対して、陽介は何を思うのか。
狂気に染まった表情からは、どす黒い感情しか読み取ることはできない。
やがて麗奈は、思考すらも放棄した──否、考えることすらできなくなってしまった。
ゆっくりと、視界が狭まっていく。
「お前がァ……ッ!」
感覚が遠のいていく。
「オまえ、が……」
意識が、闇に飲まれていく。
「おま……エ──」
そして。
それは、誰の目からこぼれ落ちたものなのだろうか。
涙が一滴、ベッドにシミを作った。
刹那。
「……どうして…………抵抗、しないんですか」
口を開いたのは、『陽介』だった。
それと同時に首に込められていた力が抜かれた。
「──がはッ! ごほ、げほ……っ」
肺が空気を求めて暴れまわる。酸欠による頭痛とめまいで揺れる視界の中、麗奈は何とか呼吸を整える。
「はぁ、はぁ……っ」
「どうして……」
その様子を虚ろな目で見ていた『陽介』が、口を開いた。
「どうして……抵抗しないんですか」
「はぁ、はぁ……っ、そんなの、決まってるじゃない」
麗奈は激しい頭痛に耐えながら、目尻に涙を溜めながら、それでも笑っていた。
「陽介君を、信じているから」
「しん、じて……」
後ずさる『陽介』に追い打ちをかけるように、麗奈は言葉を重ねた。
「陽介君は、私に手を差し伸べてくれた。あの寒くてたまらない牢獄から連れ出してくれた。私はあのときの温かい手の感触を、絶対に忘れない」
掴んだ掌から伝わってくる、あの温もり。
彼の手は人を救う手であり、決して人に苦しみを与えるための手ではない。
「それに、そのことはあなたが一番よく知ってるんじゃない?」
麗奈は試すような瞳で、『陽介』を射抜いた。
「ね、幽香ちゃん?」
その言葉を聞いた瞬間、虚ろだった『陽介』の表情が揺れた。
「え、ぁ……ワタシは……ち、違う! 僕は陽介です! 何を言って──」
取り乱した『陽介』は支離滅裂な言葉を吐き、頭を抱えてうずくまった。
「僕は……僕は……ワタシは……」
麗奈は、苦しみ始めた『陽介』を、そっと抱きしめた。
「ごめんね」
「──っ、」
優しく背中に手を回し、ゆっくりと撫でる。
「どうしてこんなことになったのか……理屈とかは分からないけど、感覚的には分かるわ。同じ苦しみを味わったからかもしれない」
なぜ『陽介』を幽香と呼んだのか。麗奈自身も理由は分からなかったが、確信していた。
「ぁ……ぅう……」
「突然私なんかが出てきて、不安になったよね。寂しくなったよね」
「私は……」
「でも、大丈夫よ。私は陽介君を奪ったりしない。陽介君は、ずっとあなたの兄のまま──」
「い、や……」
『陽介』はその言葉を遮った。そして、
「いや……嫌イヤいや嫌嫌嫌いや嫌イヤああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ──────」
壊れたロボットのように繰り返して、不意にぱたりと意識を失った。
「幽香、ちゃん……?」
倒れこんできた『陽介』を受け止めながら、麗奈は不可解な現象に疑問を抱いた。
突然の絞首。
狂気に染まる『陽介』の瞳。
その内に在る、陽介ではない別の何かの意識。
一体何が起きているのか。
麗奈は、意識を失ってしまった陽介をベッドに寝かせた。すると同時に、自分もどっと疲労が溢れ出してきて、まぶたが重くなり始めた。
この数分の出来事で、心にも体にも大きな負荷がかかった。そして麗奈も、抗いようのない夢の中に落ちていく。
原因も理屈も、何もかも分からないまま物語は進んでいく。
囚われの姫を縛る鎖は、一層強く少女の体を締め上げた。
☆★☆
目を覚ますと、目の前におっぱいがあった。
何を言っているか分からないと思うが、陽介も何が起きているのか分からなかった。
「やわらかい」
むにゅんと、頬に押し付けられた柔肉が沈み込むように形を変える。なぜかは分からないが、目の前で眠っているのはどうやら麗奈のようで、寧々ほどではないが豊かな胸が陽介に襲いかかっていた。
夏目家で生活する気ではいたが、先日の事件でドタバタしていた麗奈はまだ自分のパジャマを持ってきていない。
今着ているのは、陽介が貸し出した少しサイズの大きいシャツ一枚だ。布地は薄く、肌の感触はほぼダイレクトに伝わってくる。
「ん……すぅ…………」
麗奈が少し体勢を変えたことで、はだけた襟元から鎖骨とブラ紐が覗いた。あまりに無防備だ。
「……ぅおふ」
恐るべきことに陽介は、混乱しつつも寝起きの低速回転気味な脳で冷静に状況を分析した。
その結果。
『悪いのは僕ではない』と結論を出し、これに乗じて存分に愛する彼女の胸の感触を存分に味わっておこうという暴挙に出た。
「んんぅ……」
すると、吐息がむず痒かったのか──否、正しく描写するならば『鼻息が荒かったからか』、麗奈は身震いし、突然陽介の頭を抱き抱えた。
「おぶ」
完全に抱き枕と化した陽介。顔面全体に広がる圧倒的幸福感に昇天しかける。
改めて陽介は、自分の彼女となった少女のハイパースペックに感動した。
太ももを御神体として崇め奉る宗教に身を置いていたが陽介だったが、この心地よさは鞍替えもやぶさかではなかった。
──見ているか、長谷川ァ? これが『勝ち組』だァ……。
どうでもいいが長谷川というのは陽介のクラスメートで腐れ縁の少年である。
加えてどうでもいいが長谷川はモテない。
冬休みで突然人生の勝利者となった陽介は、いかにして長谷川を煽ろうか考え、邪悪な笑みを浮かべた。
「ん、ぅ……?」
そこで、ふと。
眠り姫が目を覚ました。
「……」
「……」
まばたきする麗奈。
邪悪な笑みで胸に顔を埋める陽介。
「……」
「……」
見つめ合うこと、しばし。
「やあ」
「指一本で許してあげる」
「現実的な代償を提示するのはやめろ」
「小指がいいかしら」
「具体性を加えていくな」
麗奈は目を細め、氷の微笑を浮かべた。
「私は小指を失ったあなたも愛していけるわ」
「……尻に敷かれるって、こういうことを言うんだろうな」
「もう。嘘よ、嘘。彼氏なら彼女のお茶目な嘘くらい見抜いてほしいものね」
「今のがお茶目なら拷問現場もお茶目ってことになるな」
まだ半分夢の世界にいるようなふわふわとした声音で恐ろしいことを言う麗奈。
早くも鬼嫁の様相を呈してきた麗奈に戦々恐々とする陽介。
そんな二人は、顔を見合わせると、示し合わせるように同時に笑った。
「おはよう、陽介君」
「ああ、おはよう麗奈」
「……よかった。ちゃんと陽介君ね」
麗奈はゆっくりと体を起こした。「ん~」と伸びをして、可愛らしいあくびをした。
「まだ眠そうだな」
「そう? これでも眠れた方よ。ここ一年は、あまりまともに眠れなかったから」
「……そっか」
眠ってしまったら、このまま目を覚まさないかもしれない──麗奈はその恐怖と、一年近く戦ってきたのだ。
その戦いに終止符が打たれたのが、一昨日。
麗奈にとっては、陽介はまさに救世主だった。陽介のおかげで普通の生活を取り戻すことができた。心の底から人を愛するということを知った。そして何よりも、「彼と共に生きたい」と思えるようになった。
驚きなのは、陽介は麗奈と出会ってまだ一週間と少ししか経っていないということだ。遠い昔のように感じてしまうほど、濃い一週間だったということだろうか。
出会って一週間の少女と同じ布団で眠っていると考えると、かなりの異常事態である。
ありていに言えば、「二人の間には時間では計れない絆がある」ということだ。
「なあ、麗奈。一つ聞いていいか?」
「ん?」
だからこそ陽介は、その『痕』に瞬時に気がついていた。
「首に変な痕があるけど、どうした?」
「っ、これ……は……」
はっとしたように麗奈は首元に手をやった。
麗奈は、深夜に起きた出来事についてそのまま話すかどうか迷った。理由は言うまでもなく、『陽介』にやられたからだ。
しかしあの時の不可解な行動や言動、そしてその裏に見え隠れしていた誰かの面影──
麗奈は、今回の出来事が幽香の身に起きている異常と無関係ではないと感じていた。
きっと幽香の身にも、麗奈の時と同じように現実では計り知れないような異常が起きている。
そう結論付けた麗奈は、深夜に起きた出来事を陽介に話して聞かせた。
「僕が……麗奈、を……?」
それを聞いて、陽介は愕然とした。
意味が分からなかった。
──なぜ僕が、麗奈を?
もちろん身に覚えはない。陽介にはそんな行動に至る理由がない。
陽介は己の手を見つめた。
この手が、麗奈の細く白い首を……。
「陽介君」
まさか、救うと決めた少女を自ら傷つけていた、なんて……。
「陽介君っ!」
「ごめん、麗奈……僕は、そんな酷いことを、君に──」
だが、言い終わる前に、麗奈の手が陽介の頬に添えられた。
「ちゃんと、私を見て」
そして麗奈は、ゆっくりと顔を寄せて、唇を重ね合わせた。
「ん……っ」
驚きに身を竦ませた陽介だったが、緊張はすぐに解けた。
数秒の短い口づけだった。
しかし、麗奈の伝えたかった思いは、陽介にしっかりと届いていた。
「安心して。私、あなたに何されても嫌いになんてならない」
頬を撫でる掌から、麗奈の温もりが伝わってくる。あの時とは違う、温かい手がそこにはあった。
「れい、な……」
「それに、昨日の陽介君は何かおかしかった。いや、きっとあれは陽介君じゃなくて……」
「……どういうことだ?」
麗奈は自分の考えを話した。あの時の陽介の行動に、幽香の面影を感じたこと。理屈は分からないが、何かが起きているということ──。
「は? 僕が、幽香だった?」
陽介はかつてない困惑の中にいた。理解できない出来事の連続で、陽介は脳がパンクしそうだった。
「なんでそう思うんだ?」
「だって君、私に敬語なんて使わないでしょ?」
「……確かに」
麗奈はあの時の口調を思い出す。
『どうして……抵抗しないんですか』
麗奈が薄れゆく意識の中で聞いた『陽介』の声は、どこか彼らしくない言い回しだった。
それに、麗奈はあの時こう声をかけた。
『でも、大丈夫よ。私は陽介君を奪ったりしない。陽介君は、ずっとあなたの兄のまま──』
きっと、その言葉こそが幽香に必要だと思ったからだ。
しかし、結果として『陽介』は拒否反応を起こしたように気絶してしまった。
麗奈は、自らが陽介の「家族になってやる」という言葉に救われたように、きっと幽香にも必要な言葉があるのだと考えていた、のだが……。
「どういうことなんだ、これは……」
それを聞いた陽介も、違和感が募り始めていた。
理解できない現象が多すぎる。
解決するには、どうするべきか──。
取れる行動は、限られていた。




