第01話 割れた心
「「ただいま!」」
その一言のための旅路だった。
長いようで短い戦いだった。
体温は正常値まで戻り、髪色はかつてのような鮮やかな黒に戻った。投げ出しされた命は、陽介が繫ぎとめた。
氷川麗奈は、間違いなく夏目陽介に救われたのだ。
そして、心象病を巡る氷川麗奈と夏目陽介の物語はここに幕を閉じる。
──だが。
「やっと帰ってきたんですね」
夏目幽香は、少しやつれた自らの兄を見て苦笑し、そして並び立つ麗奈の少し前と比べて一変した姿を見て、口を開いた。
「すべて、終わったんですか?」
「ああ。終わったよ」
ぽん、と幽香の頭に手が置かれた。大好きな兄の大きな手が、わしゃわしゃと幽香の頭を撫でた。
「遅いですよ。ご飯、もう冷めちゃいました」
目を細めながらその感触に身を委ねる幽香の言う通り、テーブルの上には食事が用意されていた。湯気は立っていない。準備されてから相当な時間が経っていることは明白だった。
「私の分がないんだけど」
麗奈がじっとりとした目で幽香を見据えた。確かに食卓に用意されたのは二人分の食事である。
「解決したなら早々に私たちの愛の巣から出て行ってください。あなたの席はありませんから」
「あー、そのこと、なんだが……」
むっとする麗奈を宥めつつ、陽介が前に出た。そして──あのとき彼女を救う決め手となった一言を、改めて口に出した。
「僕は、麗奈と付き合うことになった。ゆくゆくは……家族になる」
「へ、へえ……ぁ? は?」
瞬間だった。
夏目幽香の思考が、止まった。
付き合う?
「今後、おそらく一緒に住むことになると思う」
家族になる?
「いきなりでごめんなさい、幽香ちゃん」
氷川麗奈と?
「戸惑うかもしれないが、受け入れてほしい」
お兄ちゃんが?
「お、おい、幽香?」
──いきなり、何を、言っているの?
ピキリ、と。何かがひび割れる音がした。
見れば、二人は手を繋いでいる。大切そうに指を絡めている。麗奈は恥ずかしそうに頬を染めて俯いている。事情を知らない幽香から見ても、二人が心を通わせ合っているのは一目瞭然だった。
ひびが大きくなっていく。
──ふざけないで。
痛みを伴って、広がっていく。
──私のお兄ちゃんを、奪うの?
ガラスのように脆く、儚く。
──どうして?
いとも容易く。
──ふざけないで。
少女の許容限界を超えた。
──ふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるなふざけるな私のお兄ちゃん私だけのお兄ちゃんあなたにとってはたまたま好きになっただけの男でも私にとってはかけがえのない唯一無二の存在いきなり出てきて付き合うなんてありえない家族になるなんて認めない奪うことなんて許さない何があっても渡さない私の方がお兄ちゃんのこと好きなのにこんなに愛しているのにずっとずっとずっとお兄ちゃんのことだけを見てきたのになんでお兄ちゃんは私のことを捨てるのあんな女なんかを好きになるの私の方を見て私のことだけを見てお願い見捨てないでお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃんお兄ちゃん──────
──お兄ちゃん。
私を、見捨てるのですか。
ギリギリと心を締め上げるのは太い鎖だ。がんじがらめの鎖が、幽香の心を縛っている。
そしてついに耐えきれなくなった夏目幽香の心は悲鳴を上げ──
瞬間、二つに割れた。
自分を支えることすらできなくなった幽香はふらりと揺れて、崩れ落ちた。
遠くから陽介の声が聞こえる。
混濁する意識の中で、自分を呼びかける兄の声が何度も何度も木霊している。
だがその言葉は──
決して少女の心の奥底には届かなかった。
超えてはならない一線があった。
夏目幽香にとっては我慢の連続だった。兄はいつも誰かのために動いていて、自分に向いてくれる時間はほとんどない。
――『お、お兄ちゃん? 今日は私の課題を手伝ってくれる約束では……』
幽香と話していても他の誰かのことを考えていたり、話すことがあっても話題の中心は幽香ではなかったり。
それでも幽香は、そんな兄が好きだったのだ。いつも誰かのために行動していて、かつて幽香を救ったように他の誰かを救うために奮闘している。
でも。
付き合うなんて。家族になるなんて。一人の女にこれほど入れ込む兄を見るのは初めてだ。
夏目幽香は、極めて不安定な少女だった。
落ち着いて考えれば、陽介が幽香をないがしろにするはずがないことはすぐに分かる。それでも幽香は一度抱いた恐怖を忘れられない。兄がいなければ幽香は生きていくことができないからだ。
兄が別の誰かのものになってしまうのではないか。
自分のことを捨てるのではないか。
考え始めると止まらない。これまで綱渡りでやってきた少女の心は、ついに限界を迎えてしまった。
だからこそ、割れた。
一種の自己防衛だった。二つに分かれなければ耐えられない。掻き乱された心が壊れないように、自分が自分でいるために。それほどまでに、幽香にとって兄の存在は大きいものだった。
兄を想う気持ちと、迷惑をかけてはならないと抑える気持ち。
幽香は、その気持ちを切り離すことで、自分の心が完全に壊れてしまうのをかろうじて防いだ。
しかし。
しかし──
☆★☆
ふらり、と。
倒れ行く幽香。陽介にはまるでスローモーションのように感じられた。だが、引き伸ばされた時間感覚の中でも、陽介は何が起きているのかを理解することができなかった。
思考とは別に、反射的に幽香を支えようと体が動いた。
その時、幽香の目の奥に、鎖でがんじがらめにされて吊るされている幽香の幻影を見た。無残にも心は二つに割れ、光が失われていく。
ぎり、ぎりと締め付ける鎖が幽香の体に食い込んでいく。陽介はそれを、見ていることしかできない。今の陽介は、少女の心の奥に手が届かない。
「幽香っ!」
「幽香ちゃんっ!?」
そして、時間感覚が元に戻る。
慌てて駆け寄る二人。倒れ込む幽香を受け止めた陽介は、何度も幽香に声をかけた。
しかし──反応は、返ってこない。
「一体、何が……?」
「……」
突然の出来事に、陽介は混乱の極致にあった。
倒れた幽香は、いつまで経っても目を覚まさない。
何の病気なのかも判然としない今は、とりあえず布団に寝かせている。
熱はないし顔色が悪いわけでもない。体調は至って健康に見えた。なのに、目を覚まさない。
どうにもならないと判断した陽介は、救急車を呼ぼうとスマホを手に取ったのだが──
「待って」
その手を止めたのは、麗奈だった。
「陽介君。これ……きっと、心象病よ」
「……っ!」
麗奈は苦い顔をしながら幽香を見つめている。
「経験のある私だから分かる……ってわけじゃないけど、数秒前まで健康だった人が突然倒れるなんてありえないもの。きっと、心に強い負荷がかかって……」
──それで、心象病になったってことか。
陽介は額に手をやった。頭痛がしそうだった。せっかく麗奈の問題を解決したのに、今度は幽香に──
いや。
麗奈の問題を解決してしまったから、と言うべきなのか。
「原因って……」
陽介が恐る恐る麗奈に尋ねる。麗奈は幽香の顔にかかった髪をよけてやりながら、
「恐らく……いえ。間違いなく、私との交際宣言なんでしょうね」
重苦しい沈黙が部屋を包み込んだ。
幽香のことは、理解しているつもりだった。幽香が自分に依存していることも、陽介はある程度理解しているつもりだった。
しかしまさか、心象病を発症するほどの拒否反応を起こされるとは思っていなかった。対する麗奈は、恐れていた事態が起こってしまった、というような反応を見せていた。腕を組んで、少し俯いている麗奈の表情は、陽介からは伺えない。
「でも、私のときとは違って解決法は見えてる。それは──」
何を言おうとしているかを直感的に察した陽介は、
「麗奈」
「……っ」
少し強い声音で続く言葉を遮った。
「それ以上は言わなくていい」
──私たちが別れれば、恐らく全て解決する。
きっと麗奈が言おうとしたのは、そういうことなのだろう。
だが。
陽介は絶対にそんなことするつもりはなかった。大切な誰かを救うために他の誰かを切り捨てるなんて真似は、陽介には絶対にできないから。
「別の解決法を探すしかない」
陽介は幽香の手を握った。
「絶対に僕が救ってみせる。全部、救ってみせる」
陽介の中に強迫観念が生まれる。
かつて幽香を守ると誓ったあの日から、自分の中に染み付いている衝動。
その衝動が、全身を支配するように広がっていく。
「……」
その様子を背後から心配そうに見つめる視線があった。
危うい、と。麗奈は感じていた。
周りの誰かが困難に直面するたびに陽介に頼っていたら、いつか必ず反動が来る。
きっと今のままでは、いつか陽介の心まで壊れてしまう。
麗奈は一人、決意を固めていた。
『それ以上は言わなくていい』──そう止めてくれる彼の優しさに甘えていてはいけない。陽介が他の全員を救うと言うのなら。
──私だけは、あなたを救うために生きる。
それは、単なる恩返しではない。彼の隣に並び立つ女として、共に生きていく伴侶として、自分に何ができるのかを考えた末の結果だった。
──落ちていく私の手を握ってくれたあの時、寄りかかっていいのだと知った。
──共に朝日を見たあの時、生きる希望の光を見た。
だから。
今度は、一人じゃない。
かけがえのない妹を救うために。
大切な家族を救うために。
少年は、再び立ち上がる。
少女は、その支えとなる。
そして──
夏目陽介と氷川麗奈の、歪な少女を救うための戦いが始まった。
☆★☆
原因は、麗奈との交際宣言。
しかし、交際を解消する訳にはいかない。陽介には、幽香を救うために麗奈を切り捨てるような選択肢を取ることはできないからだ。
麗奈の時とは違い、目の前に解決法が見えているがそれを選択することができない状況。新たな解決策を見つけなければならないが──
「いくら妹といえど、女の子の気持ちなんてそう簡単に分からないぞ……」
陽介は頭を抱えていた。なんと言ってやれば救いになるのか見当もつかなかった。
「とりあえず今は、目を覚ますのを待つしかないわね……」
今日はひとまず様子を見るしかない。幽香が目を覚まさない……なんてことはないと信じたいが、現状はどうしようもなかった。
すっかり冷め切った食事がテーブルの上に並んでいた。幽香が用意してくれたものだろう。しかしその本人が食卓を囲むことはない。
「転居とか私たちのこれからのこととかは、後回しになりそうね……」
麗奈とは一緒に暮らす予定だったが、今はそれどころではなかった。
「幽香ちゃん……」
麗奈は、幽香の看病のために夏目家に残ることに決めた。自分がここにいることは幽香にとってよくないことかもしれないとも思ったが、それではいつまで経っても問題は進展しないと麗奈は考えていた。
──ちゃんと、幽香ちゃんと向き合わないと。
これからも夏目陽介と生きていくために。
夏目幽香の存在をないがしろにしていいはずがない。
麗奈は決意を新たに、一人きつく拳を握りしめた。
☆★☆
食事を終えて、夜になっても幽香が目を覚ますことはなかった。その夜は、何かあった時のために陽介が幽香の部屋で寝て、麗奈が陽介の部屋で眠ることになった。
──のだが。
「……もぉ、こんな時なのに、私は……」
麗奈は悶々としていた。
目の前には陽介の使っているベッド。今から麗奈は、このベッドで眠るのだ。
「……んんっ」
頬が熱くなっていくのを感じつつ、麗奈は覚悟を決めて布団に潜り込んだ。
「…………ぉほ」
麗奈は、かつて幽香が「お兄ちゃんの布団で寝ます!」と言って譲らなかった時のことを思い出した。
──幽香ちゃん。今なら少しだけ、あなたの気持ちが分かるわ……。
幽香が倒れ伏しているこんな時に申し訳ないとは思うが、麗奈は幸福感を抑えきれなかった。
まず、全身を包み込む陽介の匂い。これが最初にして最大の問題点であった。
陽介に抱きしめてもらっているかのような感覚を疑似体験することができるのだ。圧倒的ホールド感。
麗奈は布団にくるまり、思い切り深呼吸しようとしたところで……ようやく、我に返った。
あの時「ヤバい」と感じた幽香と全く同じ行動をしようとしていることに気づいてしまったからだ。
「嘘でしょ……私、変態になっちゃったのかしら……」
しかし、数秒考えたのち、麗奈は考えを改めた。
──悪いのはきっと陽介だ。彼からは女を変態にするフェロモン的なものがドバドバと出ているのだ、と。
「……」
罪悪感がすごい。
「ごめんね、幽香ちゃん……ほんとに……」
多幸感に包まれながら、麗奈はゆっくりと眠りに落ちていった。
「陽介君……ふふ……」
陽介に抱きしめられたまま眠るという、若干桃色の妄想をしながら。
☆★☆
ゆらり、ゆらり。
『それ』は揺れている。
幽玄なる世界の中で、揺れている。
姿ははっきりとしない。
形もはっきりとしない。
『物』なのか、『者』なのか、はたまたどちらでもないのか。
『それ』は、何かを探し求めて彷徨っているようにも見えたし、何かから逃げ惑っているようにも見えた。
不安定で、歪で、苦しそうに、痛そうに、悲しそうに、辛そうに、不安そうに、寂しそうに、揺れ惑う『片割れ』。
ふと、『それ』は動きを止めた。
暗黒に満たされた空間の中で、何か強い光を発するものがあった。
光を浴びた『それ』は、やがて意味のある形へと定まっていく。
幼い赤子の姿になり、成長を経て一人の少女の姿を取った。
『それ』にとって、光は希望だった。
いつでも守ってくれる、優しい温もり。寂しさを遠ざけてくれる、温かい光。
少女の姿をした『それ』は、光に惹かれるように近づいていく。
『それ』は、ゆっくりと光を取り上げると、大事そうに胸に抱えた。
やがて、光は少女と同化していく。
光は『それ』の胸の中に吸い込まれていった。
温もりが『それ』の胸の中に広がっていく。しかし代わりに、光は吸い込まれて輝きを沈めていく。
『それ』は、感情が芽生えるのを自覚した。
この光は、誰にも渡さない。
そして『それ』──いや。
夏目幽香の形をした何かは、言った。
『この光は……ワタシだけのもの』
☆★☆
とん、とん。
午前二時を回った頃。丑三つ時と呼ばれる時間帯。
そんな真夜中。皆が寝静まった頃に、夏目家に一定のリズムで響く音があった。
とん、とん。
足音だ。
ゆっくりと、ざざざと服の裾を引きずるような音とともに、どこかを目指す足音が廊下に木霊している。
とん、とん。
やがてどこかの部屋の扉の前で、足を止めた。
ノブがゆっくりと回り、ぎいぃと蝶番が軋む。
部屋に侵入した何者かは、目的の場所へ向かって一直線に歩みを進めていく。
とん、とん。
そのベッドには少女が安らかな寝息を立てて横になっていた。
足を止め、何者かは少女を見つめている。虚ろだった何者かの表情に感情が強い感情が芽生えていく。
「ぉ……まぇ、が……」
低く掠れた声が、声帯を震わせた。
何者かはベッドに足をかけた。スプリングが軋み、ベッドが沈み込む。
「おマえ、が……ッ」
その時。
ようやく、少女が目を覚ました。
少女──氷川麗奈は違和感を覚え、意識を浮上させた。しかし、起き上がろうと思っても体が動かない。
「っ、なに……?」
脳が回転し始め、麗奈はようやく自分が何者かに馬乗りされていることに気がついた。
「……っ!? あなた──」
そして。
ついに。
目の前にいる何者かを──
補足した。
「陽介、君……?」




