プレリュード 春の日の演奏
それは、桜の花びら舞い散る季節だった。
少女は、春の風に吹かれて一つ、また一つと花弁を散らしていく桜を見上げていた。
当時まだ小学三年生だった幽香に、その趣きを理解することはできなかったが、それでも子供ながらにその光景を「美しい」と感じていた。
バイオリンのケースを背負い直し、先を行く母、圭子の背中を追った。
世界中を飛び回る有名なバイオリニストである圭子の影響で、転校は日常茶飯事だった。今日もまた新たな家に向かっている。大して多くない荷物は、先に新居に送ってあり、今は最寄り駅から新居に向かって圭子と二人歩いているところだ。
音楽にしか興味のない圭子に嫌気がさしたのか、父親は離婚して出て行ってしまった。女手一つで育てられた……と言えるほど母親は教育には熱心ではなかった。もともと娘のことなど考えずにあちこち飛び回るような女性だ。
そんな生活を続けているから友達は作りようもなかったし、彼女自身無口であまり人と関わるのは得意ではない性格だった。
しかし幽香は、それを苦に感じたことはなかった。
少女の友達は、『音楽』だった。
彼女の傍にはいつもバイオリンがあった。母の紡ぎだす音色に憧れて、見よう見まねで弓を動かす。音楽しか頭にない母親は、そんな少女の中に才能を見出したのか、熱心に指導するようになっていった。
来る日も来る日も練習。弦を震わせるだけの生活。それでも少女は満足していた。自分が目に見えて上達していくのを感じていたからだ。
そんな生活に変化の兆しが訪れた。
桜並木の道を行き、さらに少し歩いた住宅街。一軒家にたどり着くと、圭子はインターホンを押した。
「や、やあ。ようこそ」
ドアを開けたのは、痩せ気味のひょろひょろとした男性だった。眼鏡をかけており、背が高い。見知らぬ男性の登場に、幼かった幽香は思わず母親にしがみついた。
「夏目慶次さん。あなたのお父さんになる人よ」
突然のことで、幽香は当たり前に混乱した。もちろん事前に知らされてはいなかった。
「今日からこの家で暮らすの」
現実味のない言葉が脳内を空回りしていた。幽香はぎゅっと母親の服の裾を掴んだ。
その時。
男性の向こうに、ちらりと人影が見えた。
たったったっ、と走る音が聞こえ、慶次の横から顔を出したのは──少年だった。
年上なのだろうか、幽香より少し背が高く、興味ありげにドアの隙間から覗き込んでいる。そんな少年に幽香が面食らっていると。
瞬間。
「──」
「──」
目が合った。
目線の高さが近いので必然的に起きる現象ではあったが、それでも何か運命的なものを感じた。
一瞬が永遠に感じられる、なんて言葉を鵜呑みにした訳ではない。別に少年に一目惚れした訳でもない。ただただ、こちらを見つめる彼の瞳に引き込まれた。少年の目には、そんな不思議な力があった。
それまで音楽にしか興味がなかった幽香は、自分が初めて他人に──それも異性の少年に──興味を持っていることに気がついた。間違いなく、この時はまだ恋ではなかった。
幽香の体感的にはしばらく見つめ合っていたような気がしたが、どうやら視線が交錯したの一瞬のことだったらしく、何事もなかったかのように時の流れは再開した。
家の中に招かれ、お茶を出され、男性と少年の二人とテーブルに座る。
自分の向かいには例の少年がちょこんと座っている。話を聞くところによると、少年の名前は『夏目陽介』というらしい。
どうやら男性──慶次の方も妻と離婚して単身陽介を育てている、という生活だったらしい。加えて慶次も音楽家だという。圭子との出会いは演奏会で、共通の話題と境遇を持つ二人は意気投合して……というのが事の顛末らしい。詳しいことは小学三年生の幽香には分からなかっ たが、その後成長してから理解した。
この結婚は幽香のためだったのだ、と。
この頃になると、幽香の音楽の才能は完全に開花していた。楽しいから演奏しているだけの彼女に自覚はあまりなかったものの、その才能は同年代の少年少女とは比較にならない域にまで達していた。母親はいち早くそれに気がつき、自分以外の優秀な人材による『幽香の育成』を目論んでいたのだ。
そして選ばれたのが、この夏目慶次という男。
そもそも脳に音楽のことしか入っていない圭子にとって、自身の幸せを考えた結婚などありえない。全ては音楽のため。そして娘が自分を超える高みに到達する可能性を示した今、何より優先すべきは夏目幽香。優秀な音楽家だという慶次の指導を取り付けるための結婚だったのだ。
とはいえ、当時の幽香にそこまで考えられるほどの深い思慮はない。
母と新たな父親が隣であれこれ説明しているのを聞き流しながら、話が終わるのを待つ。
おとなしく膝に手を置いて待っていると、同じようにして向かいに座っていた陽介がじっとこちらを見ていることに気がついた。
「……」
じっとこちらを見ている。
「…………」
瞬きすらしていないのではないかというほど、じっとこちらを見ている。
「………………」
穴が開くほどこちらを見てくる陽介に、幽香は恥ずかしくなって目を逸らした。
──なんなの、この人。
幽香はそこはかとない敗北感を覚えた。先に目を逸らしたら負けなんてルールはないが、妙な悔しさがあった。
「──それじゃあ、幽香ちゃんを部屋に案内してあげてくれ」
「分かった」
そう慶次に言われると、スッと椅子から降りた陽介は、幽香の隣までやってきて手を差し伸べた。
「こっち」
何が何だか分からないまま、幽香は陽介に手を引かれて二階に連れて行かれた。二つ並んだドアのうち、手前のドアで陽介は足を止めた。
開けると、そこはどうやら空き部屋のようだった。 ベッドやテーブルなどの最低限の家具しかない、殺風景な部屋だ。
「ここ使っていいよ」
目を白黒させつつも、幽香はそこに足を踏み入れた。
「僕が掃除したんだ。大変だったんだぞ」
「ぁ、ありがとう……ございます……?」
自慢げに胸を張る陽介に、幽香は縮こまった。人と話すことが苦手な幽香にとって、陽介のようなグイグイ来るタイプは相性が悪い。どうやら第一印象は「苦手な男の子」で決まりのようだった。
「敬語て。一個下だって父さんに聞いたけど」
まあ座るといいよ、と言いつつ陽介は隅に置かれていたダンボールの上に腰を下ろした。
「改めて。初めまして、僕の名前は夏目陽介。どうやら君の兄になるらしい」
困惑しつつも、幽香はぺたんと床に座り、縮こまった。
「私はあか──」
言いかけたところで、幽香は思い至る。その名前は既に旧姓であると。
「夏目、幽香」
幽香は改めて自分の名前を名乗った。それに対して陽介は「よろしく」と朗らかに笑うと、
「家庭の事情ってやつは厄介だよな。子供の僕たちにはどうしようもない。親に頼ってるといつか失敗する」
小学四年生にしては、少年は嫌に達観していた。
「だからこれからは、僕らだけで生きていくつもりでいないと。僕も、君も」
「……」
「荷解き、手伝うよ」
そう言いつつダンボールに手をかける陽介。
「な、なんでそこまで……」
「なんでってそりゃあ、兄妹だから?」
「……」
そう言い切る少年の適応の早さに、幽香は驚いた。自分はまだ混乱しきったままなのに、この少年は既に事態を飲み込んで落ち着いている。それに、「兄妹だから」とあれこれ手伝ってくれる陽介は、たった一つ年上とは思えないほど頼り甲斐があった。
「あ、あの……」
「? どうした?」
ダンボールを持ち上げていた陽介が振り返った。目が合うとすぐに緊張が襲ってきた。一対一で男の子と話した経験などほとんどない幽香にとって、自分から話しかけるのはそれだけで勇気のいる行動だった。しかし、このまま彼にばかり仕事をさせるわけにもいかない。意を決して、幽香は口を開いた。
「……私も、やります」
「うん。二人で一緒に終わらせよう」
陽介の屈託ない笑みに、ずっと無表情を貫いていた幽香も釣られて微笑んでいた。
「苦手な男の子」から、「苦手なタイプだけど優しい男の子」へ修正しなければならないな、と幽香は心の中で彼への印象を改めた。
☆★☆
「へえ、バイオリンやってるのか」
棚に並べ終わった音楽の教本や楽譜のファイルなどを、陽介が興味深そうに眺めている。
「はい……まあ、その……少し」
「少しっていう割には──」
陽介は、多くあるダンボールの中でも特に厳重に梱包されたそれを指し示した。
「このトロフィーやら賞状やらの数は、普通じゃないと思うぞ?」
「そう、なんでしょうか……?」
女の子一人の部屋に運び込まれるダンボールにしては、やけに量が多いなと感じていた陽介も納得した。その大半はコンクールなどで獲得したトロフィーなどだった。
幽香自身はあまり自覚がなかった。幽香はただただ、バイオリンの演奏が楽しんでいただけ。母に言われるままコンクールに出て、そこで自分の好きなように演奏をしていたら、いつの間にかこんなにもトロフィーが貯まっていた。
「なあ、聴かせてくれないか?」
「……ふぇ?」
「え、ダメか?」
「だ、ダメじゃないです……けど……」
幽香は少し戸惑っていた。「誰かに聴かせるために演奏する」という経験が少なかったからだ。コンクールでさえ自分の好きなように演奏していただけの彼女にとって、たった一人の観客のためにバイオリンを弾く、というのは未知の経験だった。
幽香がまごまごしていると、ふと陽介が笑った。
「僕はさ、どうやら音楽の才能がないらしいんだ」
「ぇ……?」
「父さんの影響でいろいろな楽器をやらされたよ。木管金管、弦楽器に打楽器、ギターやドラムも触ったことがある。どれもダメだった。運動も芸術も苦手で、取り柄がないんだ」
ひたすらに自分を貶す陽介に「そんなことはない」と言ってやることはできない。なぜなら幽香には才能があり、そんな彼女の慰めなど、逆効果にしかならないからだ。
「だから──」
沈痛な面持ちで表情に影を落としている──幽香はそう思っていた。
しかし、陽介は笑っていた。
「だから、聴いてみたいんだ。僕にできなかった『音』ってなんなんだろうって、ずっと考えてたから」
「──、」
自分の奏でる音。
誰かのための音。
これまで何も考えず、自分の好きなように演奏してきた自分にできるだろうか。
聴衆のことなんて考えたことはない。たとえ『上手い演奏』ができるのだとしても、『心を動かす演奏』ができるとは限らない。コンクールで得た評価など、決して自信にはつながらない。
──私に『心を動かす演奏』ができるだろうか。
不安はあった。それでも──
「聴いてみたい」と言ってくれた彼に、届けたい。
音楽が持つ、自由で優しい世界を、見せてあげたい。
「……うん」
幽香はバイオリンのケースを手に取り、設置したばかりのオーディオの電源をつけ、練習用の音源を再生する。
静かに陽介に見守られながら、取り出したバイオリンを構えた。
開いている窓からゆっくりと春風が吹き抜けていき、桜の花びらが部屋に舞い込んだ。
暖かい春風に髪を揺らされながら、幽香はゆっくりと弓をあてがった。
曲は、パッヘルベルの『カノン』。
きっと誰もが一度は耳にしたことのある、有名な一曲だ。追複曲の名の通り、この曲は一定の旋律が繰り返し現れる演奏形式だ。一人では演奏できないため、音源に頼る。
この曲は、母親と二人で演奏し、そして幽香が初めて暗譜で弾けるようになった思い入れのある一曲だ。普段は厳しい母親がその時ばかりは優しく褒めてくれたのを、幽香はよく覚えていた。
そんな、思い出の曲だからこそ。
彼に届けたいと思ったのだ。
「…………」
幽香は目を閉じた。
静寂に包まれていた部屋に、バイオリンの澄み渡った音色が響き渡る。
曲はゆったりと、柔らかく始まる。春の陽気の中にいるかのように、緩やかな時間が流れていく。
次第に、蕾が花開くように、音が広がりを見せ始めた。密度を高め、満開の時を今か今かと待ちわびる。
一定のリズムで繰り返されるメロディが、様々に形を変えてその姿を現しながら、徐々に高まりを見せ始める。
幽香は胸の高鳴りを必死に音に乗せた。「楽しい」という気持ちを、「届いて欲しい」という想いを、精一杯音に乗せて──
そして。
その時は訪れる。
誰もが知るあの旋律が顔を出し、一気に音霊が花開いていく。
──これだ。
幽香は、無意識のうちに体を揺らしながら演奏をしていた。気持ちが乗っている証拠だった。
何千何万と繰り返してきた旋律は、幽香にとっては耳に馴染んだ音色だ。陽介にとっては、どうだろう。
やがて曲も終盤に近づき、満開の花々は盛りを過ぎていく。一つ、また一つと花弁を散らしていく。胸に儚さとかすかな温もりを残して、泡沫の如く消えていく旋律。
そして、すべての音霊が消えていった。
室内に再び静寂が舞い戻る。余韻が胸に染み渡っていくのを、幽香本人も感じていた。
果たして彼にこの音は届いたのだろうか。ゆっくりと目を開けた幽香が目にしたものは────
目元に溢れんばかりの涙を湛えた少年の姿だった。
「え……?」
陽介も、幽香も、呆然としていた。
「どうして、泣いているんですか……?」
幽香は思わず尋ねていた。陽介が泣いている理由に心当たりが全くなかったからだ。
「なんで、だろう……分からない」
陽介自身も、なぜ泣いているのか理解していない様子だった。幽香はますます困惑した。自分が何か酷いことをしてしまったのではないかと不安になった。
「でも──」
頬を伝う涙を拭い、陽介は真っ直ぐに幽香を見つめた。
「綺麗な音、だった」
自然と、その言葉が口から漏れ出していた。
その言葉を聞いた瞬間、幽香は心の中に温かい気持ちが溢れだしてくるのを自覚した。賞賛の言葉なんて飽きるほど聞いたはずなのに、その少年からもらった一言は、何よりも深く、心の奥底まで染み渡るように温もりを広げていった。
幽香は初めて、誰かのための演奏をした。
そして同時に、『演奏する目的』を見つけた。
☆★☆
それから幽香の演奏は少しずつ変わっていった。陽介に聴いて欲しい、褒めて欲しい──その思いだけが膨らんでいった。
「お兄ちゃん、私頑張るので……見ててくださいね」
「もちろん。いってらっしゃい」
陽介はぽん、と幽香の頭に手を置いた。幽香は気持ちよさそうに目を細め、その感覚に身を委ねた。
幽香の出る演奏会、発表会などには、ほぼ必ず陽介が見に行っていた。今日も幽香はとある演奏会に参加している。
控え室へ入っていく幽香を見送り、陽介は観客席へ向かった。
間も無く演奏が始まった。
素人から見ても、演奏会の水準は高かった。小学生の部とはいえ、全国から集まった猛者たちだ。
やがて、幽香の出番がやってくる。煌びやかなドレスに身を包んだ幽香が、堂々とした所作で一礼する。
静寂を突き破るように演奏が始まると、会場の空気が一気に変わるのが肌で感じられた。これまでの奏者たちとは一線を画す、凄みを秘めた音色。小学生にして既に完成に至ったその旋律に、観客たちは皆一様に息を飲んだ。
鬼気迫るような、全力で訴えかけてくるような、そんな演奏に、ただただ圧倒された。
そして幽香の演奏も終わり、結果が発表された。
もちろん金賞は幽香。また一つ賞状が増えたなと、舞台の上で表彰を受けながら幽香は思った。
幽香にとって重要なのは演奏会の結果ではない。兄が喜んでくれるかどうかが大切なのだ。
「お兄ちゃん、今日の演奏はどうでしたか……?」
帰り際、道を行きながら聞いてくる幽香に、陽介は笑いながら答えた。
「いつも以上に良かったよ。今日は気合が入ってたな」
「ふふふ」
「? なにニヤニヤ笑ってるんだ?」
「いえ、なんでもないですよ」
辛い練習も、このときのためだと思えば耐えることができた。幽香にとって、陽介に褒められることは至福の喜びだった。
そんな兄妹水入らずの時間に、割って入る者がいた。
「お、おい!」
幽香と同じくらいの年齢の少年だった。
「知り合いか?」
「いいえ」
「知り合いだよ! 覚えとけよ! 俺の名前は八重樫健太! 今日の演奏会に参加してて、今回もまた負けた、お前と同じバイオリニストだ!」
「そういえばそんなのがいたような……」
幽香が首を傾げて記憶を掘り返している。基本的に周りにあまり興味がない幽香は、同じ演奏会に参加している奏者のことなど眼中にない。
「ああ、いつも銀賞の」
「うっ……」
陽介は、名前を聞いて思い出した。今日も幽香のとなりで機嫌悪そうに表彰されていた少年。いつも幽香の次に名前を呼ばれていたので、かろうじて思い出すことができた。幽香の演奏を聴きに来ている陽介にとって、他の奏者の顔をいちいち覚えるようなことはしていない。
「そ、そうだよ! いつも銀賞の八重樫健太だ!」
顔を赤くして逆ギレし始めた健太に、幽香は嫌な顔をした。
「いつも銀賞の人がいつも金賞の私に何の用ですか?」
「うがああああああああああああ!」
それはキレてもいいなと陽介は思った。
「幽香、いくら彼がいつも銀賞だからって、あんまりいじめちゃだめだ」
「銀賞銀賞うるせえ!」
はぁはぁ、と息を吐きながら、健太は幽香を睨みつけた。
「次は……勝つからな」
今にも泣き出しそうな表情で健太は宣言する。
「次は絶対に……絶対に勝つからなぁっ!」
それだけ言うと、健太は走り去ってしまった。
なんだったのだろうと、幽香と陽介は顔を見合わせた。
☆★☆
時が過ぎて、幽香は中学二年生になった。同年代の演奏者の間では知らぬ者はいないほどになり、バイオリンの腕はさらに磨きがかかっていた。
それに比例するように、母親による直接指導は過酷になっていった。
友達と遊ぶこともせず、毎日何時間も練習に明け暮れる日々。陽介の前では笑顔を絶やさない幽香だが、憔悴しているのは間違いなかった。
そんなある日、契機になる出来事があった。
実力は上がっているはずなのに、思うような結果が出なくなり始めたのだ。
コンクールや演奏会に参加しても、どうにも結果につながらない。それがなぜなのか、幽香自身にも分からなかった。
ある演奏会では「自由な表現力が不足している」と言われた。
ある演奏会では「心と技が噛み合っていない」と言われた。
ある演奏会では「焦りや不安といった感情が演奏に出ている」と言われた。
これらは、直そうと思って直るものではなかった。どれも技術の問題ではなく、感情の問題だからだ。どれだけ練習しても音楽が応えてくれない。そんな状況に、幽香は唯一の友達に裏切られたような気持ちになった。
それに追い打ちをかけるような出来事が重なった。幽香にテレビ出演のオファーが来たのだ。
『国際バイオリンコンクール最年少優勝の美少女バイオリニスト』という題目だった。しかしその出来事が彼女にもたらしたのは、さらなる苦痛だった。
煌びやかな姿でテレビに出演した幽香は、学校でクラスメートに恨みを買ってしまったのだ。他の人間ならば人気者になれる未来もあったのかもしれないが、もともと幽香は人とあまり接したがらない性格だった。
それが災いし、クラスメートからの印象は悪い方向へ流れて行ってしまったのだ。こういう時、学校という閉鎖空間は何よりも残酷に精神を追い詰めていく。
そうして次第に練習に対して消極的になっていった幽香は、練習をサボるようになった。ただし、陽介に心配をかけないために、人知れず。
そんな状況に対して、最も早く限界を迎えたのは母親だった。
いつものように部屋の一室で練習をする幽香と、それを指導──いや、監視する圭子。二人の間には、重く苦しい空気が横たわっていた。
「幽香。なんでできないの」
一言。
そう告げた母親の目には、娘の姿は既に写っていなかった。その時にはもう、圭子にとって幽香は、自分がたどり着けなかった高みへ至るための道具でしかなかった。
「その演奏は何? 言った量の自主練習はこなしているんでしょうね? 私の言うとおりにやったら、こんな演奏にはならないはずです」
それはまるで尋問のようだった。
「幽香、もう一度聞きます。なんでできないの」
「……」
「答えなさい」
「……分からない、です」
怯えるように身を縮ませる幽香。なぜできないのか、何ができていないのか。それすらも分からない、空虚な時間。
「私、もうバイオリンは……やめます」
幽香は衝動的にそうつぶやいてしまっていた。
「おーい、そろそろ夕飯だって……」
そこに、ドアを開けてやってきたのは陽介だ。だが、彼が目にしたのは──
「バイオリンを弾かない幽香なんて、私の娘ではありません」
パァン、と。
強かに頬を叩かれる、幽香の姿だった。
「な、にを……」
陽介は愕然とした。
母親が。
娘を。
叩いた。
針を刺すような空気の中で、陽介は長い沈黙を経て、それが意味することをゆっくりと認識した。
「何をしてんだああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
陽介は怒鳴り声を上げ、うずくまる幽香に駆け寄った。
「ぁ……ぅう……」
幽香は震えていた。
幽香は泣いていた。
「なんでだ。なんでだよ……母さん」
「幽香がちゃんと言いつけを守らないからです。陽介には関係のないこと──」
「関係ない訳あるかよっ!○幽香は……僕の妹だっ!」
「お兄……ちゃん」
──未だに敬語は直らないけど、最近になってようやく、恥ずかしがっていた幽香が「お兄ちゃん」と呼んでくれるようになったんだ。
実の父親から愛情を感じることができなかった陽介だからこそ、幽香を何よりも大切にしていた。
そんな大切な妹に、圭子は手を上げたのだ。陽介に許せるはずがなかった。
なのに──
「血も繋がっていないくせに」
その一言が、陽介の胸を貫いた。
「今……なんつった?」
血が滲むほどに、拳を握りしめた。
「音楽の才能もないあなたの口出ししていい場面ではないと、そう言ったのです」
激情が、脳を支配した。
「────、」
陽介は幽香に「大丈夫だからな」と語りかけると、ゆらりと立ち上がった。
そして。
陽介は圭子に思いきり体当たりをかました。
「ぐ……っ!?」
身長は高いが体は細い圭子は、中学三年生だった陽介の体当たりに思い切り吹き飛ばされた。背中から壁に激突し、鈍い音が響いた。
衝撃でラックに並んでいたトロフィーがガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
「何を……、」
圭子は怒りをぶつけようとしたが、その言葉を言い終える前に陽介は次の行動に移っていた。
尻もちをついた圭子。その顔面を全力で殴りつけたのだ。
「が、は……っ」
べぎ、と嫌な音を発しながら撃ち抜かれる拳。
「終わりだな」
──僕が、守らないと。
「お前は、僕らの親じゃない」
──この女から、幽香を守らないと。
妹がこんなにも小さく、儚い存在だったことを、陽介は今になってようやく理解した。
娘に手を上げるような母親など、母親でもなんでもない。
もともと陽介は親というものを信用していなかった。しかしこの時、この瞬間、さらに強く再認識した。
──幽香を守るのは、この僕だ。
「絶対に──」
震える幽香を抱きしめながら、陽介は言い放った。
「絶対に、許さないからな」
気圧される母親の目には、いったい何が写っているのか。陽介はもはや、興味もなかった。
「私、私は……」
振り抜いた自分の掌を見つめ、強かに撃ち抜かれた頬を撫でて、何か言おうとする圭子だったが、結局言葉が紡がれることはなかった。
──家族は引き裂かれた。
陽介は固く決意した。
大人を頼ってはいけない。本当に信じることができるのは自分だけだ。この身一つで幽香を守り抜く。
全ては、二度とこんな思いをしないために。
せめてこの両手が届く範囲だけは、何もかも救ってみせる。
幽香は拠り所を求めた。
この事件以降、幽香はバイオリンを辞め、両親は陽介に追い出されるようにして家を出て行った。
同時に幽香の性格は変わり果て、自分の代わりに怒ってくれた兄に依存するようになった。それはあの時の悲しみを忘却するためなのかもしれない。
こうして、歪な夏目家の現状が出来上がったのだ。
これは、そんな歪な少女の物語。
見失ってしまった『ほんとうの音色』を取り戻す物語────
ナミダイロシンフォニー 第二楽章
サクライロカノン
サクライロの旋律。
少女が奏でる、ほんとうの音色。




