フィナーレ ただいま
それからのお話。
体温が正常値まで戻った麗奈だったが、体力は未だに衰えたままだった。このまま山道を戻るのは厳しいと判断し、陽介と麗奈は、無人となった祖母の家を間借りすることにした。
「別に、僕がおんぶして降りればいいのに」
「体力のないあなたにそんなことできる訳ないでしょ」
「お姫様抱っこでもいいのに」
「……っ、それはまた別の機会にやりなさい」
ニヤニヤと笑いながら顔を覗き込んでくる陽介に、流石に感傷も薄れてきた麗奈は若干苛立った。だが、お姫様抱っこは絶対にいつかして欲しいという、自分の気持ちには逆らえなかった。
二人、手を繋ぎながら廃屋となったその家を目指す。
「それに、今は二人っきりでいたいから」
それが麗奈の本音だった。
人の目をはばかることなく、目一杯陽介に甘えられるこの時間を、麗奈は何よりも欲していた。
あと少しだけ、この逢瀬を続けさせて欲しい。そんな思いが、彼への愛おしさが、溢れて止まらないのだ。
「だいぶ荒れてるわね……」
住む者がいなくなって一年ほどの月日が経過した祖母の家は、元々古い家だったというのもあってかなり荒れていた。庭の草木は生い茂り、至る所に蜘蛛の巣が張り巡らされ、廊下は埃だらけ。
「懐かしい……なんて、感傷に浸れないわね。この有様じゃ」
麗奈は掃除を始めようと思ったが、そう思って一歩踏み出した瞬間ふらっと身体が揺れた。
「おっと」
それを、陽介が支えた。
「麗奈、君はまだ体力が戻ってないんだ。あんまり無理するな。それに掃除道具がない」
「……それもそうね」
「また来よう。その時に、綺麗にしてあげればいい」
「うん」
次がある。その喜びを、麗奈は何度でも噛み締めた。
だがとりあえず、一日寝泊まりする部屋だけでも生活できる状態にしなければならない。
「ここがいいわ」
麗奈が示した部屋は、縁側に面する和室だった。
「分かった」
陽介は蜘蛛の巣を取り払い、埃を払った。
縁側に座り、その様子を麗奈は眺めていた。
「……そんなにじろじろ見られたらやりにくいんだが」
「何よ。私に見られるのがそんなに嫌な訳?」
むすっと頬を膨らませる麗奈。そんな彼女も可愛らしいと、そして同時に、本当はこんなにも表情豊かなんだと、陽介は思った。
「……もういい。好きなだけ僕が労働をする様を見ていてくれ」
「終わったらご褒美あげるから」
障子にもたれかかりながら、幸せそうに麗奈が笑った。
「何をくれるんだ?」
「終わってからの秘密」
「焦らされるとゾクゾクするな」
「なんか言い方が気持ち悪いわね……」
そんな軽口を交わしながら、部屋を整理する。物置を開けてみると、黴くさいが布団が一つあった。
「これ、寝れるかな」
「あんまり寝心地は良くなさそうね」
広げてみると、きちんと物置にしまわれていたのでさほど状態は悪くないように思えた。体力を使い果たして、もうクタクタの二人には、この布団でも十分熟睡できるだろう。
「終わった」
「お疲れ様」
一通り部屋を綺麗にして、まあこれならなんとか人が生活できるか、と思える程度になった。陽介は麗奈の隣に腰を下ろした。
「じゃあ、ご褒美をあげないといけないわね」
麗奈は、ぽんぽんと両膝を叩いた。
「いいよ」
「まさか」
陽介は息を飲んだ。これはもしや、世に言うあの伝説の──
「膝枕か?」
「あなた、太もも大好きでしょ」
「!? ……なぜ、それを」
陽介は驚愕に言葉を失った。突然好きな人に自分の性癖を言い当てられたら、誰だって言葉を失い、パニックになるだろう。
「な、なななななんで分かった? あれか? 僕の部屋にあるアレを見たのか? 巧妙に隠してあったはずなのに、なぜバレたんだ!?」
「あなたの部屋にあるアレとやらについては、後で詳しく話を聞かせてもらうわね?」
「あ」
その瞬間になってようやく、陽介は墓穴を掘ったのだと理解した。
麗奈は「はぁ」と嘆息した。そして恥ずかしいのか、両手を組み合わせて俯いた。足をぶらぶらと揺らす麗奈の耳は、ほんのりと赤く染まっている。
「あなた、私が初めてこの服着た時、ずーーーっと太もも見てたでしょ」
思い返せば確かに、そうだったような気がする。
白いタートルネックに薄桃色のコート。紅色のスカートとニーソックスが織り成す、完全無欠の絶対領域。その神々しさに目を奪われたのを、陽介はよく覚えている。
「だって、お前……ニーソックスは卑怯だろ」
「私もちょっと頑張りすぎたかなって思ったのよ? でも、なんかすごく受けがいいから……また着てみた」
「うん。すごく似合ってる」
「ありがとう」
麗奈は心の底から幸せそうに笑った。
その花開くような微笑みが見れるからこそ、陽介は麗奈を喜ばせたいと思えるのだ。
「だから……いいよ。来て?」
再びぽんぽん、と膝を叩く麗奈。陽介ももう誘惑には抗えなかった。
「お、お邪魔します」
「ふふっ、お邪魔しますって」
陽介は恐る恐る麗奈の太ももに頭を下ろした。
「はぁ……………………………」
恍惚とした笑みが漏れ出るのを、抑えきれなかった。
「ああ、生きててよかった……」
人生の夢が叶った思いだった。柔らかく沈み込む麗奈の太ももに、自分の体重を任せる。そのまま身体ごと溶けていってしまいそうな至福の感触がそこにあった。頑張ってここまで麗奈を追いかけてきて、その手を掴み取ったのが、今のこの瞬間全て報われた。
「膝枕って、そんなに気持ちいいものなの……?」
陽介があまりに幸せそうにしているので、麗奈は気になって尋ねた。陽介は目を細めながら太ももの感触を味わいつつ、それに返答した。
「気持ちいいとか、そういうことじゃないんだ。女の子の、太ももに、頭を乗せている。その事象一つ一つが、僕の心を満たしてくれるんだ。分かるか?」
「いやごめんなさいあんまり分からない」
「僕の膝枕で寝てみるか?」
「遠慮するわ」
「そうか。残念だ」
麗奈には男の膝枕で寝る趣味はなかったので断ってしまったが、よくよく考えるとちょっと興味が湧いてきて惜しい気がしてきた。だが今更「やっぱり膝枕してほしい」なんて言い出したら陽介が調子に乗るので、麗奈は口に出さなかった。
「だいたい膝枕なんて、幽香ちゃんや寧々に頼めばいくらでもしてくれたでしょうに」
「いくら太ももが好きでも妹や幼馴染の膝枕で狂喜乱舞するほど見境なくはない……いや、ちょっとは嬉しいな。あれ? 割とアリかもしれない。今度頼んでみようかな」
「バカ言ってると庭に叩き落とすわよ。ダメに決まってるでしょ。もう私という存在がいるのに他の女の膝枕で寝たらその首へし折るからね」
「麗奈って独占欲が強いのか?」
「……陽介君だけよ、こんなこと思うのは」
「そ、そうか」
「陽介君がいなくなったら、私今度こそ死んじゃうから。あと浮気したらあなたを殺して私も死ぬから」
「き、気持ちは嬉しいが怖いな……」
満面の笑みでそんなことを言われると背筋が震える。
「まあ、こんなに素晴らしい僕専用の膝枕があるなら、そんな心配はいらないと思うけどな」
「膝枕だけが陽介君を繋ぎ止めてるみたいで気に食わないわ」
「この太ももだって麗奈の一部なんだから同じだ。僕は麗奈が好きで、そんな麗奈の太ももも大好きなんだ」
「今自分がすごく気持ち悪いこと言ってるの分かってる?」
「やめろよ今そういうこと言うの」
まあでも、と麗奈はまた一つ陽介の髪を撫でた。
「陽介君が喜んでくれたなら、良かったわ」
「ああ。最高のご褒美だ」
「異常なほど喜ばれたからちょっと引いちゃったけど」
「僕は麗奈のことはなんだって知りたいし触れたいんだ」
「私も」
「柔らかい頬に触れたい」
「うん」
「綺麗なその髪を撫でたい」
「うん」
「張りのある唇に触ってみたいし、華奢な手を握っていたい」
「うん」
「あと──」
陽介は真剣な顔で最後に一つ付け足した。
「おっぱいだって触りたい」
「うん……ん?」
「このアングルから見上げるとすごい目立つんだよな」
陽介が見上げると、麗奈の顔との間にその豊かな双丘があるのだ。視界を圧迫するその存在感は女子高生の平均的バストと比べると大変優秀と言えるだろう。
「………………」
麗奈はプルプルと震えた。肩から滑り落ちた長髪が黒のカーテンとなって陽介の視界を遮る。
「怒った?」
陽介が頬を引きつらせながら聞くと、麗奈は首を横に振った。
「……いや。あなたがそういう人なのは、さっきの膝枕で大体分かったから」
「そ、そうか。良かった。……いや良かったのか?」
「でも胸は触らせてあげないわよ」
「そんな! 命救っても触らせてくれないなら僕は一体どうすればいいんだ? 世界でも救えばいいか?」
「そうね……」
麗奈は青空を見上げて言った。
「同じ大学に行けたら……その時は……」
「その時は?」
「その時考えるわ」
麗奈は焦らすのが上手かった。将来陽介は尻に敷かれることになるかもしれない。
「私、勉強一年分遅れちゃってるけど、頑張るからね」
「ああ」
「きっとこれからもたくさん迷惑かけると思う」
「お互い様だ」
「疲れたらすぐ寄りかかっちゃうかも」
「どんとこい」
「陽介君……ずっと、ずっと私の隣にいてくれる?」
「ああ――」
きっといくら言葉を重ねても、その不安は拭えないのだろう。だから何度でも言う。麗奈が 不安になるならば、陽介は何度だってその言葉で麗奈を安心させてやるのだ。
「一緒に笑って未来のことを考えよう。もう麗奈には明日があるんだ。これからの毎日は、これまでの一年分を取り返すような、そんな濃密な明日にしよう。僕はずっと、傍にいる」
「うん、うん……」
麗奈は泣いていた。暖かな涙を流していた。
「もう……、陽介君のせいで、私泣き虫になっちゃったじゃない」
はらりはらりと、雪が舞い落ちるように。
麗奈の目の端から頬を伝い落ちる。
そして陽介の頬で、弾けて光の粒となった。
「泣き虫でもいいんじゃないか? 僕の前でなら、いくらだって泣いていいんだ」
「うん……うん。そうね、ありがとう……っ」
そうしてしばらく、二人はその体勢でいた。
太陽は空高く昇っている。時刻は昼前くらいだろうか。一月の冷え込みは厳しいが、陽光がそれを和らげてくれていた。
麗奈は、風に吹かれてたなびく黒髪を抑えながら、陽介の頭を撫でた。
どこからか雀の鳴き声が聞こえる。眼下の街は今頃活気付いている頃だろうか。きっと今も 変わらず、日常が繰り返されているのだろう。
麗奈は空を見上げて、目を細めた。
明日が来る。
光り輝く、明日が来る。
当たり前だと思い込んでいたそのことが、今は何よりも尊いものなのだと麗奈には思えた。
☆★☆
夕方、陽介は駅長さんにもらった非常袋を開けて、囲炉裏に火を付けた。中にあるものを物色していき、食べられそうな非常食を二人で分け合って食べた。
やがて夜になると、陽介と麗奈は再び縁側に座った。
雲のない無限の夜空には、満天の星空が広がっていた。
「あれが、冬の大三角形」
麗奈が空を指差した。一際強く輝くその星は、麗奈に応えるように瞬いた。
「そしてあれが、オリオン座」
陽介の肩に頭を乗せて、指を絡めるように手を繋いでだ麗奈は、遥か彼方に輝くその星に思いを馳せた。
「昔こうやって、おばあちゃんが教えてくれたの」
何光年も離れた星々に祖母との思い出を重ね合わせるように、麗奈は語った。
「ここは空気も澄んでるし、街の光も少ないから星がよく見えるんだって、おばあちゃん言ってたわ。初めて冬にここへ来た時のこと……全部、全部覚えてる」
家族みんなで星を見上げたあの日。もう二度と来ないと思っていたあの光景が、今目の前にある。
「来年も、そのまた来年も、ここに来ましょうね」
それは、あの時の願いの続き。止まっていた時が再び動き出した確かな証拠だった。
「ああ。絶対に来よう。そして、星空を見上げよう」
陽介の言葉を聞くと、麗奈は安心したように一つあくびをした。
「私、眠くなっちゃった」
「そうだな。僕も疲れた」
黴くさい布団に二人で一緒に入った。そしてしっかりと、手を繋いだ。
「私ね、徐々に体温が下がっていって……朝起きたら冷たくなってるんじゃないかって、怖くて眠れなかった」
麗奈は陽介の手を強く握った。
「でも今は、陽介君がいる。もう、怖くない」
そして麗奈は、陽介と額をくっつけた。
「ねえ、ぎゅーってして? 痛いくらいに、力いっぱい抱きしめて?」
「ああ、分かった」
陽介は麗奈の腰を抱き寄せると、そのまま両腕を背中に回し、その華奢な身体を胸に抱いた。
「あぁ…………………………」
麗奈が恍惚とした表情で、胸の中から陽介のことを上目遣いで見つめてくる。瞳は潤んでいて、月明かりに照らされた頬はやはり朱色に染まっていた。
「……好き……好き、好き、好き好き好き好き好き好きっ! 大好きっ!」
抑えきれない気持ちをぶちまけるように、麗奈はその言葉を何度も連呼した。そしてそのまま、陽介に口づけをした。
「……んんっ、」
口づけをするたびに、愛しさが胸の内から溢れ出してくる。何度も、何度も口づけをした。その度に、押し寄せる愛しさは強くなっていった。
「……っはぁ、もう、こんな気持ち初めてよ。どうしてくれるの?」
なぜか怒ったようにそんなことを言う麗奈に、陽介はおもわず笑ってしまった。
「なんで笑うのよ!」
「いや、だって、はははっ……そんなこと僕に言われてもどうしようもないよ。だって──」
陽介は、今度は自ら麗奈の唇を奪った。
「僕だって同じくらい、君のことが好きなんだから」
数秒の間、麗奈はぽかんとしていた。しかしやがて麗奈もふふっと笑い始めた。
そうして、夜はゆっくりと更けていった。
☆★☆
そして、次の朝。二〇一七年一月二日。
二人とも疲れて昼までぐっすりと眠っていた。先に目を覚ましたのは陽介だった。
「おはよう、麗奈。多分もう昼だ」
スマホの充電はもう切れてしまったので時間を確認する手段はなかったが、空高く昇った太陽が大まかな時刻を教えてくれていた。
「んんぅ……もう、ちょっと……」
そんな子供みたいなことを言いながらしがみついてくる麗奈。その可愛らしさに胸を打たれながらも、陽介は心を鬼にして麗奈を揺り動かした。
「ほら、僕たちの家に帰らないと」
そう言葉をかけると、麗奈は渋々といった様子で目を擦りながら起き上がった。
「んゅ……ふぁぁ。おはよう、ようすけくん」
女の子の寝起きの無防備さに、割と耐性があるはずの陽介は打ちのめされていた。
「写真に収めたい……なんでスマホ切れてるんだ……」
麗奈は大きく伸びをして、両手でパンと頬を叩いた。
「よし、起きたわ」
「もう終わってしまった……」
「ん? 何が?」
「いや、なんでもない。行こうか」
二人は立ち上がり、布団を綺麗片付けて祖母の家を去った。
「……そうだ」
麗奈はふと足を止めた。
「ちょっとだけ、最後に寄っていいかしら?」
それを聞いて、陽介も言いたいことを察した。頷くと、二人で手を繋ぎ、その場所へ足を向ける。
そこは、両親の眠る墓。
冬の奇跡を見せてくれた、大切な地。
「お父さん、お母さん……」
麗奈はゆっくりと両膝をついて、優しく墓石を撫でた。
「私はもう大丈夫」
そう一言だけ口に出した。そして両手を合わせて、祈りを捧げた。隣で陽介もそれに習った。
それが終わると立ち上がり、「また来るわね」と残してその場を後にした。
二人が去った、その後。
墓石の上には、優しく微笑む夫婦の幻影があった。
──もう、大丈夫ね。
──ああ。これで安心して、眠りにつける。
去りゆく我が子と、それを救ってくれた勇気ある少年の背中が、少しずつ小さくなっていく。
風が吹き抜けた。
麗奈はそれにつられて最後に一度、振り返った。
そこには既に、幻影はなかった。
☆★☆
二人は時間をかけて、ゆっくりと山を下った。
やがて麓にたどり着き、駅に向かった。電車に乗る前に、陽介は非常袋を返すために駅員室を訪ねた。
「おっ、少年君帰ってきましたよ駅長!」
若い駅員が駅長を呼んだ。後ろから新聞を折りたたむ音が聞こえ、すぐに初老のいかつい男性が顔を覗かせた。
「……」
手を繋いで並んだ陽介と麗奈の姿を見て、駅長はニッカリと笑った。
「青春、したんだな」
「はい。青春しました」
そして、非常袋を駅長に返した。それ以上言葉を交わすことなく、陽介は深く頭を下げ、そしてよく分からないなりに麗奈も同じように頭を下げた。
そうして去っていく二人を見つめながら、若い駅員は言った。
「彼ら、何があったんですかね」
「きっと、俺たちは知らなくていいようなことだ」
いいものを見たと笑いながら、駅長はタバコを咥えた。そして再び新聞を開いて──
「だがあのお嬢ちゃん……髪の毛、どうしたんだ?」
☆★☆
電車に揺られながら、二人はたわいない話をし続けた。あの駅長さんと何があったのかを話したり、寧々や幽香との思い出を話したりした。
「……そういえば」
何か思いついたように、麗奈が口元に手を当てた。
「今の私たちは…………付き合ってる、ことになるのよね?」
「まあ、そうなるんじゃないか」
互いに好きであることは何度も確認し合ったが、そういえば肝心の「付き合ってください」の一言はなかった。それも何も「家族になってやる」なんて、三段飛ばしくらいの台詞を吐いたのが原因なのだが。
この段階になってようやく、二人はカップルであるという共通認識を得た。そしてこの共通認識を得たことによって生じる問題があった。
「……寧々と幽香ちゃんに、なんて説明しよう」
「……あー」
陽介は頭を抱えた。それは本当に厄介な問題だった。
「どうしよう。まずい。大変まずい」
寧々はまだいい。ただ、幽香がどうなるか全く想像ができない。「僕たち付き合い始めました」なんて言ったら麗奈が殺されてしまうかもしれない。
「大丈夫。大丈夫だ。僕が守るからな」
「何言ってるの? あなたこそ大丈夫?」
「僕は、大丈夫じゃないかもしれないな……」
幽香に何をされるか分からない的な意味で。
「……まあ、二人には僕から言うよ」
「いいの?」
「ああ。こんな時くらい男を見せないとな」
「普段のあなたって貧弱メガネだしね」
「もうちょっとオブラートに包んでくれないか」
「朴念仁根暗帰宅部もやしクソメガネの方が良かった?」
「待って? なんで悪化した?」
「いやでもこれもう朴念仁じゃないわね」
麗奈はいつぞやの感情を思い返して笑った。
「私は、そんな陽介君のことも好きよ?」
「それは褒めてるのか? 貶してるのか?」
「さて、どっちでしょうね」
朗らかに笑いながら、麗奈は陽介の肩に頭を乗せた。
ゆっくりと時間が流れていく。そんな時間を楽しむように、麗奈は目を閉じた。
やがて電車は、陽介たちの街の最寄り駅まであと二つというところまで来た。そこはあのショッピングモールがあった駅だ。
「そうだ、麗奈」
「ん?」
「一度降りないか?」
麗奈を連れて、陽介は一度電車を降りた。そしてショッピングモールを訪れる。
「もうなんか、懐かしく感じるわね……」
年始で客は大勢おり、ショッピングモールは非常に混雑していた。だが陽介はその隙間を縫うように、目的の店を目指した。
それは、あのカチューシャを買った雑貨屋だった。
「麗奈。ちょっと待っててくれるか」
「え、あ、うん。分かったわ」
そう一言残して、陽介は店内に入った。店員に話しかけ、望みのものはあるかどうか聞いてみる。しばらく悩んだ末に、店員はその品物を陽介に手渡した。
「……うん。ピッタリだ」
陽介はそれを迷わず購入し、ベンチで足をブラブラさせていた麗奈に駆け寄った。
「ごめん、待たせた」
「何を買ってたの?」
「これだ」
包みを開けると、そこにあったのはカチューシャだった。
だが今度は、純白だった。小さなリボンがあしらわれ、端には小さな雪の結晶のアクセサリーが揺れている。
「言ったろ? 新しいカチューシャを買いに行こうって」
「……」
麗奈はカチューシャを受け取って、食い入るようにそれを見つめた。
麗奈は目を奪われていた。
揺れる雪の結晶が、キラキラと輝いていてとても美しい。今日というこの日をかけがえのないものにしてくれる、これ以上ないプレゼントだと思った。
早速それを付けてみる。
「うん、よく似合ってる」
「嬉しい。とっても嬉しいわ……」
髪に手を添えて、麗奈は微笑んだ。その目の端には涙が光っていた。
「さあ、帰ろう」
「ええ」
再び電車に乗った。
「……」
「……」
しばらく無言が続いたが、その沈黙も今は心地よく感じられた。
「いろいろなことが、あったな……」
しみじみと、陽介はつぶやいた。
結局、心象病とは一体何だったのだろうか。
あの一言によって急激に回復した体温、そして一変した髪色。常識では説明できない何かが起きている――その事実だけが残されていた。
だが、考えても答えは出ない。今はまだ、この幸せに浸っていたかった。
そうしてまどろんでいると、ようやくたどり着いた。
「帰って、来たんだな」
「……とっても長い旅を終えたあとのような、不思議な感覚がする」
駅からしばらく歩くと、その家が見えてくる。二人の帰るべき場所。
二人手を繋ぎ、ゆっくりと歩みを進める。
その玄関に一人、座り込んでいる少女がいた。
「……お前ずっとここで待ってたのか?」
陽介が声をかけると、その少女はゆっくりと顔を上げた。
「よう、ちゃん……?」
「ああ。言った通り、ちゃんと救ってきたぞ」
目元が赤い。泣いたのだろうか。
「麗奈……?」
「ええ。髪の毛は黒くなっちゃったけど、あなたの知ってる氷川麗奈よ」
その少女──白坂寧々は、夏目陽介と氷川麗奈の姿を認めると、勢いよく立ち上がり、駆け出した。
「もう、バカッ!」
そして、二人を思いっきり抱きしめた。
「心配したんだよっ! なんで連絡の一つも寄越さないのっ!」
「悪い。スマホの充電が切れちゃってな」
「バカ、バカ、バカバカバカバカ……っ」
「ごめん。心配かけたわね」
「ほんとだよっ! 麗奈と、せっかく友達になれたのに……いなくなっちゃうかと思って、わだじ、わだじぃいいいいい……」
「わー! 泣くな泣くな! 僕の服で鼻水を拭くな!」
だが寧々はしばらく泣き止まなかった。抱きしめられた二人は顔を見合わせ、そして笑って寧々を抱きしめ返した。
二人は寧々を好きなだけ泣かせてやることにした。泣き虫な二人だからこそ、気持ちがよく分かったから。
「バカ……バカ、バカバカ……っ」
繰り返す言葉を、二人はすべて受け止めた。その言葉こそ、寧々が心の底から心配してくれていた証拠だと分かったから。
「二人とも、大バカだよ」
そして泣きながら、
「せっかくの温かいご飯、もう冷めちゃったよ。でも──」
しかし満面の笑みで、寧々は言った。
「おかえり!」
陽介と寧々はそれを聞くと、二人声を揃えて返事をした。今ならば自信をもって言える。ずっと言えなかった、その言葉を――
「「ただいま!」」




