第10話 キミに捧げる小夜曲
──まだだ。
まだ、終わらせない。
夏目陽介はその少女を諦めない。
本人でさえ諦めたその命を、決して諦めない。
絶対に掴み取ってみせる。
たとえ百人が百人「もう無理だ」と投げ出しても。
たとえ大人が「どうしようもない」と手を引いても。
夏目陽介だけは、その少年だけは──泥臭く足掻いて、その手を掴み取るのだ。
そう──────、
初めて出会った、あの時のように。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッッ!!!!!!!!」
陽介は全力で地を蹴った。
筋肉が引きちぎれるかと思うほどに、全力で駆け出した。
──頼む、間に合ってくれ。
そう祈りながら、闇に沈みゆく少女に手を伸ばす。
だが。
──くそ、届かないのか……!
あと一歩。
あと一歩、なのに。
刹那の思考で理解できてしまう。きっと夏目陽介の手はあと一歩、ほんの数センチ届かないのだと。
麗奈が自ら手を伸ばせば、その差が埋まって手を掴み取ることもできるだろう。だが闇に堕ちていく麗奈は既に目を閉じている。今さら手を伸ばせと叫んでも、もう遅い。
──救えないのか?
──僕は、彼女を、救えないのか?
ここまで来て、
本当に、あと一歩だったのに、
目の前で氷川麗奈を失う?
そんな、
そんな、
誰か、
もう誰でもいい、
彼女を、
闇から、
孤独な牢獄から、
救い出して────────────、
☆★☆
──ぃな。
誰かが麗奈を呼んでいる。
──れいな。
優しい声音で、呼んでいる。
──麗奈。
『おかあ、さん?』
それはかくも懐かしき、母親の声だった。
『なんで、お母さんが……?』
──もう、あなたがこっちに来ようとするからじゃない。
真っ暗な視界に、次第に朧げに揺れる母親の像が結ばれた。そして同じく隣に、父親も現れた。
『お父さん? お父さんなの!?』
──ああ。大きくなったな、麗奈。
麗奈は全力で駆け寄ろうとした。だが、いくら足を動かしてもその二人の像には近づけない。
『お父さん、お母さん、私、私……っ!』
胸の内から洪水のように思いが溢れ出してきた。麗奈はその思いを伝えようとするが──
──ごめんな、麗奈。そんなに時間がないんだ。
父は首を横に振り、麗奈の言葉を遮った。そして「いいか、よく聞け」とかがみ込んで、
──麗奈。君はまだこっちに来る時間じゃない。
父親は優しく諭すように言った。
『で、でも私、体温が……』
それを聞くと、両親は一度見つめ合って、花が綻ぶように笑った。
──大丈夫よ。あなたのボーイフレンドは、どうやら諦めてないみたいだから。
──ああ。彼があまりにも強く願うものだから、私たちも起こされてしまったんだ。
母は両手で優しく麗奈の手を包み込んだ。
──彼を信じて。きっと、なんとかしてくれるわ。
──さあ、ゆっくりと手を伸ばすんだ。
父の力強い手が添えられた。
母の優しい手が添えられた。
──ごめんね。もう時間がないから、最後に一つだけ。現実に戻ったらきっと忘れてしまっているだろうけど、言わせて欲しいの。
──麗奈。寂しい思いをさせてごめんな。
──辛かったよね。苦しかったよね。……でもね。
──もう大丈夫だ。私たちの代わりに、彼が隣にいてくれる。だから。
そして両親は声を揃え、大粒の涙を零しながら言った。
──「「麗奈。君はもう、一人じゃない」」
そして、麗奈は手を伸ばす──
あの、光射す方へ。
☆★☆
──その刹那。
陽介は、夫婦の幻覚を見た。その二人は微笑むと、麗奈の右腕に手を添えた。
──私たちの娘をよろしくね。ヒーローさん。
──大事にしてやってくれ。私たちの分まで。
一言そう残して、幻覚は消え去った。
そして再び時が動き出す。
あとに残されたのは、変わらず麗奈のみ。しかしその腕は──
もうきっと、陽介の手が届く。
「──────────────ッッッッ!!!!!!!!」
そして、陽介は掴んだ。
冷え切った華奢なその腕を、掴んだ。
麗奈の頭から黒いカチューシャが外れて、深淵に消えていった。だがそれでも、麗奈だけは繫ぎ止めた。
「な、んで……」
驚愕に目を見開く麗奈。
陽介は歯を食いしばりながら、二度と離すまいと力を込めた。
「『死ぬなら一人で死んでくれ』って言ったじゃない。だから、私は……私は……っ」
「その後に、僕はこうも言ったはずだ」
陽介は笑った。
固く閉ざされた麗奈の心を優しく溶かすように、笑った。
「僕の手の届く範囲では死なせないってな。ほら──」
繋がれた手の存在を確かに感じながら、陽介は力を込めた。
「ちゃんと、届いた」
「────っ、」
全力でで引き上げる。人一人を持ち上げるのは帰宅部の男子高校生には辛い。だがこの程度で根を上げる夏目陽介ではない。明日は全身筋肉痛だな、と陽介はこんな場面でどうでもいいことを考えた。
「く、ぅおおおおおおおおおおっ!」
そして。
なんとか、陽介は崖上に麗奈を引っ張りあげることに成功した。
「はぁ、はぁっ、はぁ……!」
ここまで走ってきた分の疲労と心労で、陽介の身体はもう限界だった。雪の上に大の字になって倒れる。幸い、吹雪はもう止んでいた。
「あなた……体力、ないのね」
麗奈は現実をうけとめきれない様子で、両親の墓石にもたれかかりながら呆然とそう呟いた。
「はぁ、はぁっ……命の、……恩人が、徒競走、万年ビリ争いだと……がっかり、するか?」
その言葉を聞いた麗奈は一瞬虚をつかれたように目を見開いたが、すぐに泣き笑いの表情になった。
「そう、ね……今はもう、身長の高い、イケメンより……あなたの方が、良いって思える、かもね」
麗奈は途切れ途切れになりつつも、か細い声でそう答えた。
「……氷川?」
陽介は起き上がった。麗奈の様子がおかしい。
「はぁ……っ、はぁ……っ、」
「氷川、おい氷川っ!!」
急いで駆け寄った。そしてその体に触れた瞬間、陽介は全身に震えが走るのを確かに感じた。
その体はもう、とても生者とは思えないほどに、冷え切っていた。
「ごめ、んね……。せっかく、助けて、もらったのに」
「だめだ氷川、しっかりしろッ!」
「身体が、寒いの。……寒くて、寒くて、仕方ない」
陽介は麗奈に自らのジャンパーを着せた。だがそれも雀の涙だ。
「気づいたんだ。私、夏目君と、触れ合うたびに……体温が、下がってるんだって。家族の温もりを、感じるたびに……心の温度が、下がってるんだって」
「そん、な……」
陽介は絶句した。自分が麗奈を苦しめていたなんて。助けようとしていたのに、真逆のことをしていたなんて。
「それは、いいの。夏目君は何も、悪くないわ。悪いのは、私。このまま体温が、下がって……死んじゃったら、きっと夏目君に、迷惑かけるって、思って」
「バカ野郎ッ! だからって一人で死のうとするなよ! そんなの許さない! 絶対に許さないからなッ!」
陽介の目から大粒の涙が次々と零れ落ちていく。それは麗奈の頬に落ちた。
「そうやって、泣いて、くれるんだろうなって、思ってたわよ……」
麗奈の手が陽介の頬に伸びる。まるで氷のように冷え切った、白く細い手だ。
「だから、君のこと、嫌いにならないとって、思ったの。このままだと、私……夏目君に、あの孤独を、味わわせてしまうんだって思うと、怖くて、怖くて、震えが止まらなかった」
「うっ、ぁぁぁあああっ、ああああ……」
陽介は声を上げて泣いた。もう笑いかけてやる余裕すらなかった。
麗奈のその言葉は、もう死を避けられないのだと分かった少女の覚悟が嫌というほどに感じられた。
「ああ……普通の生活が、したかったなぁ。誰かと結婚して、子供を産んで……お母さんと、お父さんみたいに、幸せな家庭を、築ければいいなって、ずっと、思ってた」
「やめろ、やめてくれ、氷川。そんな……」
「でも、もう無理みたい」
無理やり作った笑顔は、あまりにも痛々しかった。
「さっきから、目が見えないの」
「────っ、」
それは体温の低下が及ぼした影響だろう。今麗奈の身体機能は、大部分が失われていた。五感で生きているのは、触覚と聴覚だけ。きっともう、まともに動かせる部位は無い。
「夏目君、どこ……?」
「……ここだ。ここにいる! ちゃんといるぞ、氷川っ!」
自分の存在を主張するように、陽介は麗奈の右手を握り締めた。
「ああ…………温かいわ。うん、夏目君の手だ」
どうすればいい。どうすればいい。どうすればいい。
「ねえ、夏目君。最期に……麗奈って、呼んでくれない?」
最期。
これで本当に、終わりなのか。
彼女の物語は、ここで終わってしまうのか。
「……最期なんて言うなよ、麗奈。いくらだって、名前なんていくらだって……呼んで、やるから……」
「泣かないで、夏目君。君は、笑ってなきゃだめよ……」
「無理だ、無理だよ麗奈……っ」
「私も、陽介君って……呼んでいいかな?」
「……ああ。ああ、いいよ。僕のこと、何度だって呼べよ! 困ったらその名前を呼べ! 迷惑だなんて思わない! いくらだって頼ってくれていい! だから、だからさ、頼むよ……」
「ああ、結局私は、陽介君を、悲しませちゃうのね……」
麗奈は今にも消えて無くなりそうな声で言った。か細く、頼りないその声音が陽介の胸を締め付ける。
もう、残された時間はあとわずかだ。
「でもね……ごめんなさい。私、今とっても、幸せなの。とっても、満たされているの。だって、私……」
その言葉を聞いた瞬間、陽介は嫌な予感がしてたまらなかった。その先を言わせてはいけない。そんな直感があった。
それを言わせてしまったら全てが終わる。
彼女が、終わってしまう──そんな、直感が。
「だめだ、麗奈──」
だが、麗奈は首をわずかに横に振って微笑んだ。
「やめろ、やめてくれ──」
言わせて欲しい、と。最期に私のわがままを聞いてくれ、と。
そして──終わりを定める、その言葉を口にした。
「だって……大好きな人の、腕の中で……この人生を、終えられるんだから」
「ぅ、くっ、あああああああああああああああああああああ……っ、麗奈、麗奈……っ」
滂沱の涙が溢れ出ていた。流れ落ちる光の雫が、麗奈の頬に落ちては、弾けて消えていく。
「だから、最期の言葉は……きっと、『ごめんね』じゃないね。ねえ、陽介君。もっと……近くに来て?」
「れい────」
麗奈はその存在を確かめるように、温もりを感じるように、顔を寄せた陽介の頬を撫で──口づけをした。
そして、ふわりと微笑むと。
最期の力を振り絞るように。
これまでの感謝を込めて。
麗奈は改めてその言葉を、紡ぎ上げた。
あ り が と う
さ よ う な ら
その言葉は、まるで雪のように夜の闇に溶けて、消えていった。
そして少女は、ゆっくりと目を閉じた。
その崖には、少年の慟哭だけが残された。
痛く、苦しい慟哭だけが、響き渡っていた。
いつまでも、いつまでも、鳴り響いていた。
☆★☆
暗い。
寒い。
淀んでいいて、息が苦しい。
そんな黒く塗り潰された空虚な世界で、陽介はふと温もりを感じて、ゆっくりと目を開けた。
──初めまして、夏目陽介君。麗奈の母です。
温かい声音で、そう言った。
『麗奈の、お母さん……?』
──まずは、お礼を言わせて。先に死んでしまった私たちの代わりに、この五日間麗奈の側にいてくれてありがとう。
『そんな、僕は結局……何も……』
──そんなことないわ。麗奈はあなたがいてくれたから、死を選ぶことなくここまでこれたのよ。
『でも! 僕は最後、彼女を救えなくて……』
──いいえ。まだ、終わってない。
『え……?』
──まだ終わってないわ。麗奈はこっちに来ていない。ちゃんと息をしているし、心臓を動かしている。確かにこのままだといずれ死んでしまうかもしれない。でも、まだ間に合う。だってここにはあなたがいるもの。
『間に合う……?』
──ええ。時間は残されていないけど、でもあなたなら絶対に、間に合うわ。
『どうすれば……、僕はどうすればいいですかっ?』
──素直な気持ちをぶつけてあげて。きっとそれこそ、麗奈が一番求めているものだから。
『素直な気持ち……』
──ごめんなさい、これ以上は教えてあげられないわ。自分の本当の気持ちじゃないと意味がないし、そうじゃないときっと麗奈には届かないから。
麗奈の母は微笑みながら、俯く陽介の頭を撫でた。
──自信を持って。大丈夫、あなたならできる。
像が解けていく。消えていく麗奈の母に手を伸ばすが、掴むことはできない。
──それじゃあ、もう行くわね。あなたの強い思いが私たちを呼び起こしてくれた。最後に麗奈ともう一度会えて、本当に、本当に嬉しかった。私たちが守った大切な娘の姿を見ることができて、幸せでいっぱいです。
像は虚空に消えていった。そして、最後の一言だけが残された。
──私たちの大切な娘を、よろしくお願いします。
そして。
そして────────────────
☆★☆
「麗奈────ッ!」
陽介は衝動に突き動かされるように、叫び声を上げた。そうしなければならないという確かな衝動だけがあった。届いているのか、届いていないのかは分からない。それでも、声の限り叫んだ。
届け、この思い。
孤独な牢獄にいる彼女に、届け──。
「僕がお前の家族になってやるッッッ!!!!!!」
それこそが、夏目陽介の素直な気持ちだった。
家族を失い、孤独な牢獄に囚われた一人の少女を救いたい。
少女の光になってやりたい。
人生に疲れたのなら、その支えになってやりたい。
絶望に心沈む日があるのなら、手を掴んで希望に引っ張り出してやれる存在になりたい。
手を繋いで、彼女の隣を歩いている──そんな存在になりたい。
そして──
そんな絶望に抗いながら進んでいく少女が、何よりも愛おしい。
だからこそ。
彼女の家族になりたいと、願うのだ。
胸に空いた大きな穴を、夏目陽介という存在が埋められるのであれば、それはきっと何よりも幸福なことで。
絶望という闇に沈みかけた少女を、夏目陽介という光が照らしてやれるのであれば、それはきっと何よりも嬉しいことなのだ。
だから、だから頼む。
どうか、届いてくれ。
陽介は神に祈りを捧げる思いだった。
──頼む。都合のいい奇跡よ、起きてくれ。
そんなうまい話あるかとバカにされてもいい。ご都合主義だと一笑に付されても構わない。だから、今だけは。この少女だけは。
そう願った、刹那。
天は、願いを聞き届けたのだろうか。
麗奈の頬に、一筋の涙が伝った。
それは、陽介が出会ってから初めて見る、氷川麗奈の涙だった。
そして────────────────、
「ちゃんと、届いたよ。陽介君」
「あ、あ、ぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ…………っ!」
その声が鼓膜を震わせた瞬間、陽介は無我夢中で麗奈を掻き抱いた。
「……痛いわ、陽介君」
そして、麗奈はゆっくりと目を開けた。
今、この時。
氷川麗奈を閉じ込めていた氷の牢獄は破壊され。
止まっていた時計の秒針は、再び時を刻み始めた。
「陽介君、私、生きてる。生きてるよ……っ」
凍りついていた麗奈の涙が、まるで雪解け水のように溢れ出した。陽介の背に手を回して、強く、強く抱きしめた。後から後から涙が出てきて、決して止まることはなかった。
「あぁぁぁぁ……っ、っひぐ、うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……っ!」
二人とも泣きながら、互いの存在を確かめ合うように強く抱きしめ合った。
そしてさらに奇跡は起きた。涙が零れ落ちていくと同時に、髪色が毛先からゆっくりと黒に戻っていったのだ。
それはまるで、氷川麗奈にかかった呪いが解けていくようだった。
そんな奇跡を祝福するかのように、一筋の陽光が陽介と麗奈を照らし出した。
「あ、これは……」
「初日の出、ね……」
昇り始めた朝日が、柔らかく二人を包み込んだ。冬の寒さを押し退ける温かい光が、冷え切った二人の体と心をゆっくりと温めていく。
「温かい……。ぅぅ……とっても……っひぐっ、温かい……」
麗奈は泣きながら、不思議そうに自らの手を見つめた。
その手は、もう決して死人のように真っ白で弱々しい手ではなかった。隅々まで血が通った、生者の手だ。
そう。
麗奈があの氷の牢獄に閉じ込められていたのは、決して雪崩で遭難して長い間閉じ込められた経験が原因ではなかった。
本当の原因は、その事故で家族を失ったことから来る孤独が原因だったのだ。
その原因は、もう決して取り戻せるものではないと思われた。麗奈の両親はもうこの世にはいないからだ。だが、それを陽介が破壊した。陽介の「家族になってやる」という一言で救われた。
そのたった一言さえあれば、氷川麗奈を救うことができたのだ。
もちろんそれは、夏目陽介の心からの叫びであったからこそ、麗奈の心の奥底にまで届いたのだが。
「私、もう来年を迎えることはないと思ってた……」
一年分、溜まりに溜まった涙は止まることを知らない。
二人並ん座って墓石にもたれかかり、初日の出を眺める。少し失礼な気もしたが、麗奈の両親ならばきっと許してくれるだろうと思った。
陽介は、いつの間にか日が昇るほどの時間が過ぎていたことに今更驚いていた。今日という一日は、それほどまでに長かった。
新雪が太陽光を反射し、キラキラと光り輝いている。昨夜吹雪いていたのが嘘のように、雲ひとつない無限の空が広がっていた。
「陽介君」
そう呼ぶ麗奈の横顔は朝日に照らされ、涙がキラキラと光り輝いていた。
陽介はその光景を、世界で一番美しいものだと思った。
「どうした、麗奈」
「キスして。今度は、陽介君から」
頬を赤く染め、朝日を見つめながら麗奈は言った。
陽介は少し面食らいながらも、すぐに笑顔になった。
「ああ、いいよ」
麗奈の頬に手を伸ばした。温かみの戻った柔らかな頬を撫でて、顎をわずかに上向かせた。
そして──
ゆっくりと、唇を重ね合わせた。
それはもう、別れの口づけではない。
二度と離れないという、誓いの口づけだ。
「ん……っ」
小さな吐息が漏れ出す。
もう麗奈は躊躇わない。全力で夏目陽介を求める。それが許されるのだと知ったから。
「……っはぁ」
短い息継ぎの後、麗奈はすぐさま陽介の唇を塞いだ。もう一秒だって離れていたくない。その思いが胸の内から溢れ出して仕方なかった。
首に手を回し、必死に抱きついて、陽介を求めた。そこには、麗奈が心の奥底でずっと探し求めていた家族の温もりがあった。
陽介は麗奈の全て受け止めた。彼女の背負った悲しみも、苦しみも、全て受け止めた。そして代わりに、愛を返した。
「麗奈。僕は、君が好きだ」
それを聞くと、麗奈はそれまで以上に涙を流し、そして今までで一番美しい笑顔を花開かせた。
「私も。陽介君のことが、好き」
麗奈の頬を伝う涙を指先で拭ってやり、陽介はその長い髪を一房手に取った。
「綺麗な、黒色だ」
「元に戻ったのね。少し、名残惜しくはあるけど」
一体何が起きたのかは分からない。でも今は、そんなことはどうでもよかった。
「今度、白色のカチューシャを買いに行こう。この前買ったやつは、崖下に落としちゃったな」
「そうね。今度……もう今は、次があるものね」
麗奈は自らの髪を触り、ふわりと微笑んだ。
太陽が昇っていく。
新たな一日が始まる。
動き出した秒針は、今も確かに時を刻んでいる。
止まっていた時間を取り返すように、これからは二人、濃密な時間を過ごしていくことだろう。
もう二度と拝むことはないのだと思っていた、その日差しの眩しさに目を細めながら。
繋いだ手の温かさに、心を震わせながら。
二人で明日を迎える、その喜びを分かち合いながら。
いつまでも。
いつまでも二人、空を眺めていた。




