プレリュード 雪の日の邂逅
吐く息が白い。
曇に覆われた空は日差しを遮り、肌寒さを一層感じさせる。
夏目陽介は自転車を校舎裏の駐輪場に置き、マフラーを引き上げて顔を埋めた。マフラーから漏れ出た吐息が眼鏡のレンズを曇らせている。
寒さに震えながら、ポケットに手を突っ込んで、裏玄関を目指した。表玄関は開いていないのだ。
十二月二十六日。
県立藤が丘高校は冬休みに入り、人気も少ない。みなクリスマスを満喫し終わり、今は自宅でのんびりと長期休暇を楽しんでいることだろう。それなのに、陽介は学校に来ている。生徒会の仕事を任されてしまったからだ。
夏目陽介はちょっとした有名人だった。
任されたらなんでもやる。不可能ではない限り、断らない。どころか、困っている者を見つけると見知らぬ人でも率先して助けようとする。
よく言えば正義感に溢れた少年。悪く言えば偽善者。
そんな彼が、二年生に上がってすぐに面倒な生徒会書記を任されたのも当然の帰結だし、こうして冬休みまでに終わらなかった仕事を頼まれるのも無理のないことで──
ふと、鼻先に冷感を覚え、空を見上げてみると、ちらちらと白い綿が空から降り始めていた。雪だ。
「……つめて」
鼻の上で溶けて水滴になった雪を拭った。これは帰る頃には積もっているかもなと、空を見上げた先に──陽介は見つける。見つけてしまう。
学校の屋上。その縁ギリギリに、人影が見えた。見間違いではない。
「……」
見てしまってはもう遅い。陽介は裏口から学校に入り、階段を駆け上がった。屋上に繋がる扉の南京錠は外されていた。南京錠はだいぶ古くなっており、簡単に手で外すことができるのを知っている生徒は多い。陽介が扉を開け放つと、十二月の寒風が雪とともに吹き付けてきた。屋上は地上よりも断然寒い。
少女の背中はすぐに見つかった。風鳴りの音のせいか、少女は陽介が来たことに気がついていないようだ。陽介は刺激しないように声をかけ──
「────、」
陽介はその背中をはっきりと見た瞬間に、言葉を失った。
流れる長髪は、まるで降り始めた雪のように白かった。身なりは制服にマフラーに黒いタイツと、どこにでもいる標準的な冬装備の女子高生なのに、髪だけが日常にない。そこだけ別の世界が広がっているかのように、異彩を放っている。
「……」
陽介は息を飲んだ。少女の立ち姿は堂々としたものだった。とてもこれから自殺しようとしている風には見えない。
だが、屋上の柵を乗り越えて、両手を握りしめて立っているというだけでも危なっかしくて仕方ない。陽介は意を決して少女に歩み寄り、柵越しにその肩を叩いた。
「何をしているんだ」
「ひゃっ!?」
「うわっ!?」
いきなり触られた少女は飛び跳ねた。
柵の向こう側。
何も落下を阻むもののない──
その崖っぷちで。
「ぁ────」
想定するべきだったことだ。突然触られて驚かない人はいない。それこそ、あれだけ思いつめている最中ならば。
少女は足を踏み外した。それは自殺を考えていた少女にとってはいいきっかけだったのかもしれないが、陽介がそれを許せる訳がなかった。
「くそっ──!」
柵から腕を突き出し、祈るような思いで少女の腕へ手を伸ばす。
間に合え。間に合え。間に合え。
必死に手を伸ばしたその先。瞬間的に加速した思考の中で、陽介は少女の顔を見た。
──その瞳の中には様々な色が過ぎ去っていった。
『やっと、この恐怖から解放される』。
『これで楽になれる』。
『お父さんとお母さんのところへ行けるんだ』。
『だけど──』
そして瞳の中に揺らめく一条の光を、陽介は確かに感じた。
『もう少しだけみんなと、生きたかった』、と。
その瞬間、陽介は何が何でも繋ぎとめてみせると決意した。
「──ッ!!」
陽介は、すんでのところで少女の手を掴んでいた。
「……っは、はぁ、はぁ」
止まっていた呼吸がようやく再開し、肺が空気を求めて荒ぶる。
少女の手は死人のように冷たくなっていた。冬空の下、どれだけの時間外にいたのだろうか。
「……離して」
そこで、始めて少女の口から声が漏れた。
「いやだ」
陽介は即答した。
「私がどうしてこんなところにいたのか分かるでしょ。死のうとしてたの。だから、離して」
「いやだ」
「なんで……っ!」
「死にたくないって目をしていたから」
聞いた瞬間のその表情を、陽介は決して忘れないだろう。
顔を歪め、苦痛に耐えるように、陽介を見据えてくる。
その葛藤が、苦しみが、瞳を介して陽介に流れ込んでくる。
寒い、寒い、寒い。冷えきった牢獄に、独りぼっち。そんな心象風景が、陽介の脳をぐちゃぐちゃと掻き乱す。脳天を貫く冷気が思考を狂わせていき──
「ぐ──、ぁああああッ!」
陽介はそれを振り払うように腕に力を込めた。そして──
「くっ、は、しんど……」
非力な男子高校生である夏目陽介だったが、なんとか少女を引き上げることに成功した。
「あなた、体力ないのね」
そんな命の恩人である帰宅部男子に向かって、少女は温度のない言葉を浴びせかけた。
「命の、恩人が、徒競走万年ビリ争いだと、がっかりするか?」
ぺたんと座り込んだ少女は、強く掴まれていた手首をさすりながら、あろうことか崇め奉るべき命の恩人様をジロリと睨みつけていた。
「せっかく救われてやるなら、もっと身長の高いイケメンが良かった」
「救われてやるなんて言い回し人生で初めて聞いたな」
「言葉の通りよ。あなたが勝手に私のことを助けたんじゃない。死のうとしてたのに」
「嘘をつくな。本気で死にたいなら自宅で首でも吊ればいい。わざわざ学校まで来て、制服も着て、何分屋上で思い悩んでいるつもりだったんだ?『誰か止めてください』って言ってるようなもんだ。未練たらたらだ」
「そ、それは」
言葉に詰まる少女。彼女の中に相反する感情が渦巻いているのを、陽介は知っている。
「その辺の事情は生徒会室で聞こう。あそこはヒーターがあるし、暖かい。それを聞く権利くらいは僕にもあるんじゃないか」
それは体を冷やしていた少女への配慮であると同時に、自分が休むためでもあり、加えて一体どういう事情だったかを聞き出す口実でもあった。
「……」
陽介は立ち上がり、渋々といった様子で頷いた少女に手を伸ばした。
「僕は夏目陽介。名前を教えてくれないか。いつまでも君だのあなただのではやりにくい」
一瞬の逡巡ののち、少女は諦めたように──まるですべてを投げ出して人任せにしたように手を取った。
「氷川麗奈」
ぼそりと答えた少女の声音は、怖いほどに冷たくて。
それと同じように、手のひらも血が通っていないのではないかと思うほど凍りついていて。
少女は心身ともに、芯まで凍えきっていた。
十二月ニ十六日。これから本当の冬が来る──そんな季節が、夏目陽介と氷川麗奈の出会いだった。
雪が二人の間を降り落ちていった。いよいよ本格的に降り始めた雪に、街は静かに染められていく。
しんしんと。しんしんと。
静かに、冷たく──ただひたすらに、雪が降っていた。