月見里爽と雉場浩輔の場合
雨の青と赤い頬のコントラストが、柔らかく二人を包んだ。
どうもこんにちは。立木芽衣です。毎朝のラッシュって大変だよね。特に横浜から乗ってくる人が多くて嫌になる根岸線。雨が降っているから普段徒歩の人も使うこの電車は、いつもより混んでいる。
「(し、しぬ…!)」
大変なんて言葉じゃ片付けられないほどの、尋常じゃない混み具合に私は押しつぶされている。今日のお弁当は好物のミートボールなのに、きっと中身はぐしゃぐしゃだろうな。ああ、ブルーになるのは天気のせいだけではない。せっかく巻いてきた髪も、湿気のせいで早くも取れかかっている。鞄をもう一度抱き直し、軽く息を吐く。吸い込んだ呼吸に混じった微かな香りが鼻腔を満たして、少し華やかな気分が戻ってくる。出処を探して少し目線を動かせば、なるほど、横のお兄さんが持っているハンカチからだ。一目でわかるほどに整った顔立ちの彼は、それを鞄に仕舞うと再び背筋を伸ばして窓の外を見つめた。うーん、やっぱり神は不平等に人を作りたもうた。平凡な自分を思って、苦笑いが漏れた。顔が良いのと良い香りなのはイコールで繋げられるか分からないけど、彼は雨の憂鬱さを和らげる方法を確かに知っているみたい。
「(あ、降りなきゃ)」
いつの間に石川町についていたのか、危うくドアが閉まるところだった。みんなが降りた電車はがらがらで、ここから座って行ける人がちょっとだけ羨ましい。まあ、私はこれからずっと座って授業なわけなんだけど。そう思って階段を下ろうとした私の足に、ひらりと妖精のように舞い落ちてくるものがあった。薄手で、自模様があるシンプルな一枚。つるつるとした生地を摘んでみると、エルメスのロゴマークが刺繍されている。とんだブランド物を手にしている驚きで一気に吐きそうになった。なんでこんな高価なものが。必死に周りを見渡して落とし主を探すが、既に人はいなくなっていてホームは閑散としている。
「おいおい…誰のだい一体…」
鼻に近づけると、ふわりと空気が揺れて優しいオレンジの香りがたつ。これは多分、いや大分想像がつくぞ。さっきのお兄さんに全ベットだ!なんて一人で真顔でいたら、いや多少にやけていたのかもしれないが、前から来た人影に気づかなかった。
「あの、すいません」
「はっ」
苦笑いをしながら話しかけてくる人の良さそうなお兄さん。それは、さっき隣にいた人に変わりなかった。恥ずかしさで顔から火が出そうな私に優しく微笑みかけるその人からは、確かにこれと同じ香りがする。
「それ、僕のです」
「そ、そうですか!ごめんなさい!」
「…いえ、全然」
嗅いでしまったことに謝罪しながらハンカチを渡す。その一瞬だった。
「え」
「あ、ごめんなさ…」
網膜にはっきりと焼きついたのは、色でいうなら空色。柔和な目元のまま次から次へと溢れる雫が、鉛玉の重さでホームに落ちる。染みはどんどん増えて止まらず、細かい水玉が跳ねてじわりといびつな形に広がる。お兄さんも慌てているが、私はそれ以上に落ち着かない。そんなに匂いを嗅がれたのが嫌だったのだろうか。そりゃあ嫌だ。
「あの」
「…はい」
「ご、ごめんなさい。泣かないで…」
下を向いたらもっと涙が零れちゃうよ。泣くのは空だけで十分だし、できればイケメンには笑っていてほしい。世の中の女性の為にも。特にわたしは泣き顔に滅法弱くて、クラスで誰かが泣いているとそれが例え男子であろうが、いや、男子はもうそうそう泣かないけれど、気分が落ち込んでしまう。だからこの人にもこれ以上悲しい顔をしないでほしいのだ。しかしその願いは届かず、顔を上げたお兄さんは目が合うと更に表情を歪めて、嗚咽交じりに喋り始めた。きゅっと握られた手の温もりはハンカチの冷たさと相反して、じんじんと心を伝えてくるようだ。
「…きを」
「えっ?」
瞳の奥がきらりと輝いた。それは涙ではなく、覚悟を決めた強い意志の色でわたしを貫く。逃がしはしないと。
「浮気を、されています」
2
やっと落ち着いたのだろう、握った缶コーヒーを横に置く。既に朝会の時間は過ぎており、ラインが何度も通知音をたてている。それに速攻で返事を打ち鞄へシュートして、私も飲んでいたブラックコーヒーを握り直した。
「そ、それで…あの」
「…はい。浮気をされているんです」
「こ、恋人にですか」
そりゃそうだろうと自分でツッコミを入れて、頷いたお兄さんをじっと見た。アニメのイケメンみたいに整った顔と柔らかな物腰、このハンカチから見るにきっとスーツもいい物だろう。ちょっと気弱そうだけど、そこも可愛いと思えるくらいの好物件だ。そんな人を差し置いて遊ぶ奴がいるとは、相手は一体どんな人なんだ。あ、相手っていうのは恋人さんもそうだし、その浮気相手のことも言う。というか、やっぱり恋人はいるんですね。好きな芸能人に彼女がいたときに似ている気持ちを抱きながら、静かに話の続きを待った。
「三週間前くらいからです。よそよそしくなったり、ぼうっとしたり」
「うーん、何か悩みがあるんじゃないですか?そういう事ってありますよ…多分」
「いえ、決定的な事があるんです」
そこまで言ってまた俯いてしまう彼に、膝に置いたまま返していないハンカチを差し出そうとした。それを右手で制して、ぐっと息を飲んでから重々しい空気に潰されている小さな声で、彼、月見里爽さんは話し始めた。
「僕の顔を見て、何かを言おうとするんです。けれど、ちょっと戸惑うような仕草を見せて結局言わず仕舞いで。これって、別れ話をしようとしてるとしか思えないんです」
そうかなあという私の返答に、勢い込んで頷かれたらそうとしか思えなくなってくる。確かにそれは怪しいし、それまでの他の行動を考えると一番に疑うのは浮気だろう。だけど、本人に面と向かって言おうとするなんて今時珍しい。私の過去の彼氏たちは、皆ラインかメールか良くて電話だ。思い出すとふつふつと怒りが湧いてくるから思考をシャットアウトして、相手の人のことを思ってみた。きちんと顔を合わせて伝えようとする誠実な人が浮気なんてするかなあ。まあ、でも外面だけいい人もいるしなあ。いや、恋人ってのは外面を繕わなくていい人のことだから、やっぱり中身も真っ直ぐなんじゃないかなあ。思ったことをそのまま伝えると、月見里さんの顔に少し生気が戻ってきた。湿気に負けて萎れていた背中がしゃんとして、自信なさ気だった頰にも赤みが戻ってきた。そうでしょうか、と聞いてくる声も弾んで、その勢いで手と手が重なった。ぐいっと身体を寄せて、しかもそれをまるで気にしないまま楽しそうに恋人がいかに素敵な人なのかを語り出す。なんでも、自分とバディを組んでいて仕事ができて、自分に厳しく人に優しいんだそうだ。ここまで嬉しそうに語れる人に出会えたら、人生に意味があるのかもしれない。晴れの日のように話す彼を見て、憂いを帯びた顔も素敵だけど、調子が戻ると周りをもっと魅了するんだと気付いた時、突如として目の前の顔がぶれた。
「おまえ!」
「…へ」
3
いきなりだが聞いてほしい。私が思うに、修羅場が起こるのはいつだって突然だ。しかも、その内一人は絶対に現状が飲み込めていない混乱を抱えているから余計に場がややこしくなる。この場合は誰だろう。月見里さんか、突然現れたもう一人のスーツ姿の彼か、それとも私か。いや、今回で言うならば誰も状況を分かっていないのではないだろうか。
「浩輔さん…」
「お前、何やって…」
「浩輔さんこそ、何でここに…?」
「お前がこんなとこで降りたから、具合でも悪いのかと思って引き返してきた」
「それは…すみません」
浩輔さんと呼ばれたお兄さんは、心配そうな顔で月見里さんを見つめる。それと同時に、未だ重なっている私たちの手と、近すぎる距離に気付いて眉を顰めた。濃いグレーのスーツは吹き込む雨に濡れて、肩がしっとりと重そうな色に変わっている。浩輔さんの顔が怖いから、小心者の私はいたたまれない気持ちになった。意図してやっているわけではない距離なのだからやましく思うことはないのだが、この怒りようを見ていると悪いことをしているようだ。彼がなぜそんなに怒っているのか、私はこの時点で閃くものがあったし、そしてそれは大体合っていると思う。
「なに…お前高校生とお付き合いでもしてんの」
「どういう事ですか。この方は関係ないでしょう」
「今のこの状況でそう思えるやついたら相当ハッピーなやつだろうな」
淡々と吐き出される言葉に刺々しさを含ませる、という妙な芸当をしてみせる目の前の人は、右手をぷらぷらと振って月見里さんを睨んだ。どうやらこの人が力一杯はたいたらしい。この、優しそうな、暴力とはさらさら縁のなさそうな月見里さんを。はっとして隣を見ると、徐々に頬の赤みが増して、痛々しい色に変わってきていた。そうは言っても私も先ほど会ったばかりだから、もしかしたら本当は毎日殴り合いとかしているのかもしれない。でも、あんな顔で他人の事をーいや、きっと月見里さんは今自分を殴った張本人のことを想っていたのだろうー話す人が殴られて、問い詰められているのをただ黙って見ている事なんて私には出来なかった。
「あの」
「…なんですか」
「この人と私はさっき会ったばかりで、あなたが誤解しているような関係ではありません」
「…っ、じゃあ、何なんだよその距離。おかしいだろ」
そこで初めて私を見て、またすぐに隣を見た。不機嫌を隠さずに吐き出されたことば。それを言われてしまっては何もできない。私が戸惑っているのが伝わったのか、やっと近すぎることに気がついたのか、月見里さんがごめんなさいと言って慌てて身体を離した。その動作ですら今や腹立たしいのだろう、更に語尾を強めて彼の詰問は続く。
「お前、最近仕事でもなんか落ち着かなかったもんな。その子のこと考えてたのか?」
「違います。僕は…僕は」
「なんだよ」
「…浩輔さんのことを考えていました」
「そんな見え透いた嘘で騙されると思うなよ」
「本当です」
そこまで言って、今まで大人しく座っていた彼はすっと立ち上がった。所作の一つ一つが丁寧で様になる人がいるもんだ。というか、ここまでの会話で私は確信した。
この二人は恋人同士だ。
それなら浩輔さんが想像した、私と月見里さんが付き合っているのではないかという発言も理解ができる。そういう誤解をするのは女だけじゃないんだね。むしろ、そういう関係でなければ付き合ってる云々のセリフは出てこないだろう。それに、たかだか会社の同僚の為に二つ前の駅まで戻ってくるのもおかしな事だ。
そして、そして悲しいことに私はまた巻き込まれている。この前好きな人が同じクラスの男子と付き合っていることが判明したばかりなのに、傷心の女子高生にこの仕打ちとはなんということなのだろう。もういい、さっさと殴り合いでも何でもいいから解決させてくれ神様。向かい合う形になった二人の遥か頭上に視線を漂わせて祈りながら、というか二人ともでかすぎる、どうにでもなれと思っている中で月見里さんも語調を強めて言い返した。
「浩輔さんこそ、僕に隠していることがあるんじゃないですか」
「ねえよ。少なくとも女子高生と浮気はしてないね」
「じゃあ、ここ数ヶ月の態度は何ですか。心当たりがないとは言わせませんよ。ぼんやりしたり、何かを言おうとして隠したりしてるの、僕が気付いてないとでも思いましたか」
「それは…話が違うだろ」
その時、初めて浩輔さんと呼ばれた彼の瞳が揺らいだ。初対面である私だって気付いたのだから、多分恋人であろう月見里さんが見逃すわけはなかった。その一瞬で、今までの受け身一方だった会話の主導権を握って話し出す。
「違くないでしょう。僕になにか言いたいことがあるはずです。言ってください」
「…だから」
「っ…言わないで…一人で本社に行くつもりですか」
「お前!なんで、そのこと…」
「知らないと思いましたか?僕が、どれだけあなたを見ていると思っているんですか」
最後は確かめるような音だった。どれだけあなたを見て、想っているのか。それを自分自身に聞いているようでもあった。そこまで言い終わると、月見里さんは悲しそうに微笑む。ほんの少しだけれど、空気の流れが変わったのが分かった。雨のおかげで澄んだ駅のホーム。泣きそうなのは、二人ともだ。
「…そうだよ。そのことを、話そうと思ってた」
「そうですか…やっぱり。本当は、半々だったんです。浮気とその事、どっちなんだろうって考えてました」
つまり、あれだけ悩んで涙まで流していたのに半分の可能性でしかなかったわけだ。じゃあ、百パーセント浮気だとしたらどれだけ狼狽したのだろう。もしかしたら、それこそ死ぬほどなのかもしれない。そのまま続ける月見里さんは、安心したのか吹っ切れたのか分からないが先程よりもずっと柔らかな態度で浩輔さんの言葉を待った。その顔を見て、対峙する彼は観念するように口を開いた。
「お前には、言わねーとって思ってた。でも、怖くて言えなかった」
「何を、ですか」
「アメリカに行くことと……一緒に、来てほしいってこと」
「…え…?」
「俺が本社に行く事がほぼ決まった時から、ずっと言おうと思ってた。でも…でも、言えなかった」
「どうして…」
「お前を、本当に縛ってしまう気がして」
「そんなこと…」
そこまで言って、悔しそうに唇を噛んで黙る月見里さんの気持ちが、少しだけわかる気がする。きっと、自分に自信が無いのだろう。いつも仕事でリードしてくれるあの人と、ついて行く自分。サポートをしているつもりだけど、褒めてくれるけれど、それは本当かなあ。本当は一人で全部できて、自分はお荷物なのかもしれない。こんな自信のない自分だから踏み込めない。だっていらない迷惑をかけるかもしれないから。触れられたくないかもしれないから。そうやって心の距離を置くから、大切な事は言ってもらえ無いんだ。そんな状態が続けば誰だって思うだろう。もしかして、自分たちは恋人じゃなくなってしまうのではないかと。
「二人のうちどっちかが本社に行きたいって希望して、成績が良かったら…ってのは知ってるよな?」
「はい」
「俺たちの成績が良いことも、知ってるな。当然」
「いつも、浩輔さんが頑張ってくれるから…」
「ほら、それだよ。俺だけが頑張ってるみたいに思い込んでるところ、あるよな。お前」
「実際、そうですよね」
「俺は、お前のその考えが怖かった。お前を、潰してしまいそうで」
声に不安が混じる。泣きたいのに泣かない浩輔さんは、今度も涙を堪えた。むりやり眉間に皺をよせて、表情をコントロールする。これまで生きてきた短い中で、似たような顔を何度か見たことがある。そう、頑張り屋さんがよくする顔だ。往往にして努力家というのは涙を惜しむ。彼らには泣いている暇なんて無いからだ。そして、その後回しにした感情が一番大切だったりすることに気付くのには誰かの助けがいる。だから、自分で泣ける人間は強い。浩輔さんのような完璧主義者は誰よりも真面目で、孤独の思考にがんじがらめに縛られては一人で結果を出し、それを誰とも分かち合え無いで喘ぐような人なのではないか。仕事の話ではなく、愛だとか恋だとか、未来だとか過去だとかの話をするのを怖がっているのだ。そしてまた、一人で溺れて。
「だから、別のやつと日本で組んだ方が良いと思ってる。お前は、自分で思ってるよりずっとできる奴だから」
「それは、先輩としての考えですか?」
「…そう、だ」
「僕は…僕は貴方の考えを聞きたい。先輩ではなく、恋人の、貴方自身の気持ちを」
「俺は」
沈黙が落ちる。苦しくて仕方がないけれど、ただ黙って時が過ぎるのを待つしかなかった。通過線が通り過ぎた轟音の余韻も消えて、張り詰めた空気が波を打って音を成した。
「俺は、一緒に来て欲しい。誰に反対されてもいい。お前と、お前と一緒になりたい」
こんなこと人前で言うことじゃないと分かっているのだろう。だけど、ここで素直に伝えなかったらもうチャンスはないという事も、同時に痛いほど理解しているのだ。本当は、こんな日常の中で普通にある場面じゃなくて、もっとそれだけの為に割いた時間で話したかったのだろう。でも、そうしたらまた格好をつけて、自分よりも相手のことを考えるふりをして本音を言いあえずにお別れしてしまったかもしれない。喧嘩をしてそのまま、そして時間が経って手遅れになってから気付くなんてよくある話だ。そうして相手を失うくらいなら、己のプライドに構っていられないのだろう。
「なあ、ごめんな。本当は怖くて怖くて仕方ないんだ。お前を失いたくないのに、一緒にいる自信がないんだ」
「なんで…」
「だって、俺はどこまでいっても男だ。とっくに別れる覚悟もしてた。なのに、このザマだよ」
「浩輔さん」
「自信がないのはお前じゃない」
俺だ。一つで全てを拒む響きは、今までの生き方の一部を垣間見せた。この人は、いつもそうやって別れを重ねてきたのだろうか、それともそんな関係をつくることすら諦めてきたのだろうか。それを乗り越えて、覚悟を決めて月見里さんと恋人になったのなら、それはどれほど怖いことだったのだろう。恋愛は怖くないと教えてあげることは出来ていないのだろうか。だけど、この人に寄り添ってきた月見里さんが、俯いた目から溢れたこの涙をみすみす見逃すほどの使えないやつだったら、とっくのに浩輔さんと歩むことを諦めているのではないか。大切なものなら、どんな無様なことをしたって守れ。ふと思い出したある作家の言葉だ。あなたが今止めなければ、この人は本当に一人になってしまう。どんなにかっこ悪くてもいい。そのままの気持ちを、一人で生きていくという間違った覚悟を決めている彼に言ってあげて。アドバイスでも何でもない。これは、私の願いだ。
かくして、願いは風に溶ける。
4
「浩輔さん。俺、絶対一緒に行きますから」
「っ…おまえ、話聞いてたのかよ」
「どこまでも男なのは、俺も同じです。だけど、浩輔さんの幸せなはずの未来を横から奪うのは、俺でありたいんです。例えば子供を産むことも、産ませてあげることもできない、俺で」
「爽、」
「浩輔さんの言っている幸せが分からないから、一つの潰される可能性です。奪うだなんて言いかた悪いですけど、俺は、この先どんな人にも貴方を譲る気はない。それは、もちろん周りから見た幸せというやつにも、です」
「…もういい、もういいから」
あなたの言葉が胸で溢れて目尻に溜まる。もう、今の言葉だけで十分幸せに生きていけると思うほど心が満たされる。涙を堪えるのにも限界があるのだろう。遮る浩輔さんの声は、止めようかどうしようか迷っていた。でも、そんな小さな声じゃその人は止まらないよ。だって月見里さんは気づいてしまったんだ。貴方を大切に思うってことがどういうことか。
「幸せから奪った先が不幸だなんて思わないで。世界には果てない幸せがあります。俺たちは、その一つを捨てて、また一つを選ぶ。それだけです」
「…お前はっ、いいのかよ!俺はお前が思ってたような男じゃねーんだぞ。笑顔の裏で、一人なんだ。本当は、幸せになる自信もないような、男なんだぞ」
「知らなかったことは僕のせいでもあります。だけど、おかしいですよね。知らないあなたを知るたびに、好きになっていくんです。今日だけで、また僕は浩輔さんを好きになった。」
「爽…」
「浩輔さんのことが好きです。愛しています。だから、僕とー」
残ったセリフは、入ってきた電車によって掻き消された。ドラマをぶち壊すのはいつだって人の手だ。けれど、ああよかった。伝えたい相手にはちゃんと伝わったのだろう。雉場さんの目元には、涙とは違う朱色がふわりと色づいている。それに綺麗な指が触れて、色が移ったかのように月見里さんも朱い。
かくして私は、不本意ながらもまたホモの修羅場をくぐり抜けてしまったわけなのだが。一つだけ言っておきたいのだ。いくら自分たちしかいない駅のホームだろうが、一介の女子高生の前で堂々とキスをするものではないと。そりゃあ朱くもなるだろうと。
5
「はあ、疲れた」
雨の日って憂鬱だ。どんなに明るい音楽を聴いたって、じっとりと身体にのしかかる重みは本物。髪の毛だっていつも通りってわけにはいかないし、嫌になっちゃう。だけど、今日は少しだけいい気分…いや、どれだけ感動的だったと言えどホモの修羅場だ。痴話喧嘩だ。犬も食わねえようなやつに巻込まれたんだから、いい気分とは言えないだろう。学生鞄の中から二枚のハンカチを取り出して、さっきまでのことを思い出す。
「えっ、立木なんでグッチのハンカチなんて持ってんの?」
「あ、安納おはよー。すごくない?わたしエルメスも持ってるから」
実はあの後、返すタイミングを失って持っていたままだったハンカチを月見里さんがくれたのだ。そんな良いものもらえるかと思ったけれど、せめてものお詫びにと言うイケメンの瞳のパワーはすごかった。普通なら話す機会はないだろう人。エルメスのハンカチ。少しだけ潤んでいる瞳を全部天秤にかけ、最終的にありがたく頂戴する事にした。
「じゃあ、俺のも」
まだ一回も使ってないからと言って雉場さんの鞄から出てきたのは、水色が上品なグッチの新作のハンカチだった。もうやめて。一枚だけで十分お腹いっぱいなのに二枚目なんて。分不相応すぎる。でもこちらも断れない雰囲気だ。クレジットカードのCMのように選択肢が目の前にあるが、限りなく一択に近い。そう、頂くしかないのだ。私のような小娘には似合わないこの一流ブランドの商品を。皮膚に優しく触れる二枚のハンカチを持ちながらよくよく観察したら、二人が身につけているのは上から下までブランド物だった。嫌味なく着こなせているのがすごい。着られているのではなく、着こなしている。すごい。
「迷惑をかけてすまなかった」
「い、いえ、そんなこと…」
「学校の前なのに、本当にすみませんでした。でも、ありがとうございました」
「あんた…いや、あなたがいなかったら、俺たち、どうにもならなかったかもしれない。ありがとう」
「とっ、とんでもない!お二人も、お仕事頑張ってくださいね!」
遅刻確定だな。そう言って笑う雉場さんと、肩を合わせて笑う月見里さんはどこからどう見てもお似合いだった。幸せになるのに、自信も権利もいらない。だって、そこに今もあるのだから。それに気付くのが遅いか早いかの問題なのだ。ただそれだけなのだ。そうして気づいたらもう止まらない。なんてったって、幸せは周囲を巻き込みながらいつまでも続くものだから。
「じゃあ、またどこかで」
「学校、頑張ってくださいね」
「あ、ありがとうございます」
ラッシュが過ぎて比較的空いている車内。誰もが注目するであろう二人。だって、見てしまうよ。そんなに幸せそうだったら。そんな回想も程々に、雨の日だというのにいつもと変わらない安納の笑顔はきらきらとしていた。
「何で持ってんの?お前、まさか怪しいアルバイトとかしてんの?」
「しないよ!ちょっと…理由…が…」
安納のくるくると変わる笑顔は、たくさんの人に影響を与える。私だって、落ち込んでる時にこいつの笑顔を見て何回励まされたことか。でも、こういう奴の彼女は大変だよなあと思ったこともある。誰にでも分け隔てなく接し、差別なく振りまかれる笑顔はとても魅力的だ。ちょっと彼に興味がある子だったら、特別扱いされてるのかも、なんて勘違いしちゃうんじゃない?
「…ね、安納って彼女いたっけ?」
「ええ、なんだよ急に!」
「いいから、教えてよ」
勘違いっていうのは誰もがするものだけど、そうやって舞い上がってる子を見ている本当の彼女の気持ちを考えたことがあるかな。本当は私だけのものになったっていいのに、誰も彼もにそうやっていつだって。そんなのおかしいんじゃないかな。でも、言ったら嫌われちゃうかもしれない。彼女の可愛いワガママだったら許せるよね。だけど、
だけど、自分は男なのに?
「実はね、いるんだ」
「そうなんだ。どんな子…?このクラス?」
「うん。これ以上はちょっと言えないけど」
さっきからビシバシ注がれる視線で背中が痛い。教室の一番後ろの窓際の席。バスケ部の市川くんからの熱視線。それはきっと私に対して、そして目の前で照れている彼に対して、なのだろう。
「ああもう、またか…」
「ん?何が?」
いちいち距離が近い安納の顔を押しのけることしかできない私は、後で市川くん直々に呼び出されることなど知る由もなく、だけど何か悪い予感を感じながら幸せのハンカチを仕舞うのであった。
読んで頂いてありがとうございます!
立木芽衣ちゃんとほものはなしは書いててすごく楽しいので続けていきたいなーと思っています。多分今夜の月見里爽は野獣(笑)姫と無事仲直りできて良かったね…