2015年11月上旬
例の発言の話
気温が下がり、そろそろ秋から冬の支度に切り替わる時節。
早苗の腕時計は午後5時過ぎを差していた。
さっき会社に連絡を入れ、出先から直帰する事を伝えていたので、このまま帰っても問題は無い。
問題は無いのだが、彼女はこのまま帰るつもりは無かった。
何故なら――
(陽輔と舞じゃねーか!何だよ、学校帰りにデートかやったぜ!)
そう、人ごみの向こうに、見知った制服のカップルを捕捉したのだ。
早苗は渋谷の、数千人が行きかうビル群の片隅、と言うか歩道の真ん中でスキップをした。
周囲の人たちの白い目を物ともせず尾行を開始する。
そもそもこの人ごみの中、特定の二人を見つける事自体が不可能に近い筈だが、どういう理屈か、早苗はそれをやってのけている。
そして実は、会社に直帰を伝えたのも、これが理由である。
突然の連絡だったが、会社の同僚は慣れた様子だったので早苗としては問題無かろう。
ただし、会社の方は心配無いとは言え、わざわざ立て看板や電柱に身を隠す辺り、完全に不審者である。
(おっ、マルキューか…)
早苗は二人を見失わない程度に離れ、巨大なビルの一つに入って行った。
二人に気付かれないよう物陰に隠れ、後を付ける。
子供たちに指を差され、親たちがそれを引き剥がすが、当の本人はお構いなしに尾行を続けた。早苗に取って今重要なのは世間体では無い。
アパレルショップに入り、次は喫茶店で一休み、今度はゲームセンターに入ってプリクラ…早苗はその全てを見届けた。
この後は電車に乗って帰るらしい。
どうやら早苗の見守り尾行もここまでのようだ。
時計を見るともうすぐ午後8時になろうとしている。
そろそろ腹も減って来た。
何処か居酒屋に入って晩飯でも食うか。
「おや、早苗さんじゃありませんか?」
「んぁ?」
聞き覚えの有る声に振り返ると、見慣れた人物がスーツにネクタイを締めた姿で立っていた。
不思議そうにこちらを見つめる顔は、勝手知ったる間柄と早苗が常々思っている朝香のご子息だった。
「よぅ、康介じゃねーか!」
満面の笑みになった早苗が手を振りながら歩み寄る。
「何をなさっているんですか、こんな所で?」
「おう?只の会社帰りだよ。おめーこそこんなとこで何してんだ?病院は?あ、もしかしてサボりかぁ?」
早苗にバシンと強めに胸板を叩かれ、康介は苦笑いしながらそこを撫でた。
「げほっ…違いますよ、私もこれから帰宅です」
「ふぅん。じゃあどっか食いに行くか」
「あぁ…そうですね、軽くならお付き合いしますよ」
「よっしゃ、じゃあバーでも行くか」
頷く康介を従え、早苗は夜の街に繰り出した――。
~午後8時20分頃~
店のカウンターに、二人で座る。
傍からはどう見えているだろうか。
尤も早苗自身はそんな事気にしない。
現に、早速カクテルをかっくらっていた。
雰囲気も何も有ったものでは無い。
「くあー!やっぱ酒うめーなぁ!」
まぁ、テンション全開になると縦横無尽に大暴れするから、これでも大人しい方だろう。
康介は苦笑しながらノンアルコールに口を付ける。
そう言えば、とふと思う。
早苗は件の法師の事をどう思っているのだろうか。
いつも法師だけを狙い撃ちにして酒を飲ませる。
まさか好きな相手を虐めたくなる心理でも有るのだろうか。
「あの、早苗さん…ちょっとお聞きしたい事が有るのですが…」
「んぁ?何だ康介?」
おずおずと切り出した康介に、早苗がおつまみを頬張りながら聞き返す。
「以前から疑問に思っていたんですが…」
「おう」
「レオ丸法師の事はどう思ってらっしゃるんですか?」
意を決して聞いてみた。
たとえそう言う気持ちが有ったとしても、持つ事自体は構わない。
もしそうなら、ちゃんと伝えるべきだと、康介はそう言おうと思っていたのだが。
「オモチャ」
「…はっ?」
「奴隷、下僕、サンドバッグ、くそハゲ」
質問から一秒足らずで、すらすらと回答が返って来た。
更に聞くと、酒の席では、と但し書きが付いてきた。
「あの野郎、ゲームだと口煩い癖に酒の席だと付き合い悪ぃからよぅ、あたしが飲ませてやってんだよ」
「えっ…」
「飲ませるとよ、反応がおもしれーんだよ、いやー、アレ見ると酒が進むな」
けっけっけ、と嗤う早苗に、康介は二の句が継げない。
固まる康介に構わず、早苗はグラスを呷った。
「にしてもアイツよぉ、『ゲコゲコ』うっせーな。何であんなに蛙みたいな事言うんだろうな」
「いや、あの、早苗さん、『下戸』って言葉、ご存知無いですか…?」
康介が慌てながらフォローを開始する。
「知ってんよ、酒飲めねえって意味だろ?だったら飲み会来なきゃいいだろが。来るって事は飲むってこったろ」
次のグラスを呷りながら早苗が愚痴を零した。
身も蓋も無いとはこの事か。
「わざわざ来るって事は飲むって事だろ。じゃあ飲まなきゃダメだろうが」
頭が痛い。眩暈がする。
康介はその暴論に黙り込んだ。
何をどうしたらそんな結論に至るのか、訳が分からない。
「ん?康介どうした?顔色悪いぞ?」
「…い、いえ…何でも、有りません…」
「そうか?ならいいけどよ。医者の不養生なんてシャレになんねえから気を付けろよ」
一体誰の所為だと思っているのか。
早苗はその原因に気付かず、出てきた料理に手を伸ばした。
数十分後、康介の財布から、福沢諭吉が二枚ほど等価交換された。
幾ばくかの小銭になって――。
――数日後、風見邸にて――
「母さん、ちょっとお話が有るのですが…」
「む?康介どうしたんだ改まって…」
早苗
「飲み会っつったらアレだろ、『飲む会』だろ?だったら飲まなきゃもったいねーだろ」
だそうです