2009年2月上旬
お姉さん登場です
節分が終わってもまだ寒い時節、都内のレストランバーに一人の女性が居た。
カウンターに座る彼女は少し小柄な体型で、ふくよかな胸が服の上からでも分かる。
背中まで伸びた黒髪は良く手入れされていて、彼女が笑う度に店の照明を反射して艶やかにさらさらと揺れる。妹のぼさぼさ頭とは正反対だ。
彼女は40台前半だが、一見すると5~6歳は若く見える。
「良く来てくれたな、愛子」
「いえいえ、朝香先輩のお誘いですから。それに康介君のお蔭で舞の勉強も捗っているみたいですし」
「そうか。康介も役に立ってるようで何よりだよ」
「一度お礼に伺おうと思ってたんですけど」
「そんなのは構わんさ。康介から時々報告は受けているからな」
隣に座る朝香と烏龍茶を飲みながら談笑に応じる。
愛子は早苗の姉であり、舞の母親であり、朝香の大学の後輩でも有る。
「処で…」
愛子は周囲をきょろきょろと眺めて朝香に訊ねる。
「私も参加してもいいんですか?SNSか何かの打ち上げですよね…?」
「まぁ、私が主催だし、そこまで頭の固い連中では無いから大丈夫だよ」
朝香は愛子の懸念を笑い飛ばし、グラスの酒を一口呷った。
実際、周りの参加者たちは、愛子が挨拶すると気楽に返事を返し、普通に会話に参加しに来る。何となく居心地が良いのは事実だった。
カランカラン――♪
「ふぃ~、やっと着いたで」
店の扉を関西弁の声が押し開けて入って来た。
「法師、遠路はるばるお疲れ様です」
「やあやあ御前さん、本日はお招き頂き感謝感激ですわ♪」
朝香と「法師」と呼ばれた中年の男が手を振り合い、握手を交わす。
「お、そちらさんがお噂の…」
「はい、こちらが早苗の姉の愛子です」
「初めまして」
「こちらこそ初めまして」
二人で頭を下げ、簡単に自己紹介をする。
男は松永忠順と名乗り、大阪で寺の住職をしているらしい。
「じゃあ、さっき先輩が法師と呼んでいたのは」
「うむ。現実の職業の故だ。<エルダーテイル>の中で何度もお世話になっていてね。今回もその慰労を兼ねてお呼びしたんだよ」
<エルダーテイル>の中では「西武蔵坊レオ丸」と言うキャラで活動しているそうである。
門外漢の愛子に取ってはそちらの方は良く分からないが。
一通り話し終えた所で、三人でカウンターに座り直す。
朝香が両隣に愛子と法師を案内した。
「お?愛子さんは烏龍茶でっか?」
「あ、はい。お酒は弱くて…」
「愛子は早苗と違って下戸なんですよ。多分、法師と同じくらい…」
「へぇ~…姉妹でも全然ちゃうんですなぁ」
愛子と同様に烏龍茶を啜りながら、法師は驚いた表情を顔に出す。
もし早苗であれば、法師が入って来た瞬間に飛び掛かり、地獄絵図が展開されていただろう。
姉妹だから顔が似ているのは当然だが、事前に話も聞いていたが、こうまで性格が正反対だとは思わなかった。
「そう言うたら…早苗さん、時々言うてはりましたな。女性らしさの9割以上はお姉さんが持って行ったって」
「まぁ、あの子がそんな事を…?」
「あぁいつも言っているよ、君の話になるとな」
二人に言われ、愛子は苦笑した。
そう言えば、早苗は子供の頃から活発と言うかお転婆で、頭より体の方が先に動くタイプだった。
そう言う意味では、早苗に女性らしさはどれほど残っているのか心配になってくる。
そうだ、お転婆と言えば。
「あの、先輩」
「む?何だ?」
「早苗が何かご迷惑お掛けしてませんでしょうか?」
愛子の質問に、二人の動きがピタリと止まった。
「うん、まあ…その、な」
「せやねぇ、まぁ、ちぃとばかし、鬼ごっこみたいのは…たまに…」
二人とも妙にお茶を濁す。
お転婆なのは相変わらずらしい。三つ子の魂何とやらか。
実際には一方的な虐待に分類されるのだが、流石に本当の事を言うのは躊躇われる。
「本当に済みません、うちの早苗が」
「いやいや、愛子の所為では無いから」
二人にペコペコと頭を下げる愛子を二人は宥める。
落ち着いてまた三人で飲み始めた所で、店の扉が開いた。
「お~、愛ちゃんじゃないかぁ♪ご無沙汰だねぇ~」
「あ、咲良先輩、ご無沙汰してます」
お互いに挨拶を交わし、咲良は法師の隣に座った。
「姉さん、何飲む?」
「麦ロックぅ」
「初っ端から飛ばしますなぁ、先生は」
法師の言葉に、愛子はクスリと笑った。昔から変わってない先輩を見て何となく微笑ましくなったのだ。
「先輩は相変わらずですね」
「とーぜん♪」
咲良が酒で喉を潤してから、世間話や近況を話し合う。
「へぇ~、舞ちゃんの成績上がったのかぁ」
「はい、お蔭様で」
「じゃあこー君に感謝しないとね」
「そうですね。先輩は相変わらずお忙しいんですか?」
「うん、結構抱えてるかなぁ。まぁ忙しさはここ数年あんまり変わらないけどね」
「姉さん、働き過ぎじゃないか?」
「そぉ?私は別に何とも無いけど」
咲良はあっけらかんと言い放ち、ショットグラスをグイッと飲み干す。
その様子に朝香と法師と三人で苦笑した。
「あ、すみません、ちょっとお花摘みに行ってきます」
「あぁ、分かった」
「あいよ~」
愛子は三人に頭を下げて席を立った。
~3分後~
朝香の携帯に着信が有った。
どうやらメールのようである。
『あと2~3分ぐらい 早苗』
文面を見た朝香の顔色が変わった。
「総員戦闘態勢!フォーメーションA!法師を囲め!!」
「ラジャー!!」
その号令を合図に、周囲の参加者たちが素早く動き出す。まるで軍隊のようだ。
皆それまでの和やかな雰囲気をかなぐり捨て、一瞬で険しい形相になり、緊張感を孕んだ顔つきだ。
全員が法師を囲み、法師の隣に朝香が陣取った。
ただ一人、咲良だけは集団より外れ、その光景を肴に酒を飲んでいた。
ニヤニヤ笑っているのは、酒が美味いのか状況が面白いのかは不明だ。
愛子はまだ戻ってきて無いようである。
そして。
バン――カランカラン――!
「ぎゃあああああああああああああああああああああああ!!!!!」
「あひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!!」
「な、何だとっ!?」
法師の悲鳴と悪魔の高笑いと御前の叫びが同時に店の中に響いた。
扉が開いた瞬間、早苗の姿が見えなかったのだ。
扉を開けた一瞬の間に獲物を視認し、距離を詰め、集団を躱し、法師を抱えたのである。
「し、しまっ」
周囲の反応が遅れたらしい。悪魔はそのまま生贄を掻っ攫い、近くのテーブルの上に立った。
哀れな羊を小脇に抱え、いつの間に手に入れたのか、反対側の手にワインの瓶を持っている。既に封が開いているようだ。
テーブルの上に仁王立ちになり、顔には例の悪魔の笑み。
「うるぁああああああああああ!!!」
「ノオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」
法師の胸倉を掴み、瓶を振りかぶる。
誰もが失敗を悟った――
「あら、早苗じゃない」
「…えっ?」
丁度トイレから戻って来た愛子がにこやかに声を掛ける。
早苗の動きがピタリと止まり、悪魔モードが瞬時に解除された。
聞き覚えの有る声に、ギギギギギ、とぎこちなく振り向く。
「ね、姉さん!?」
「あら?…そんな所で何をしているの早苗?」
愛子はきょとんと首を傾げる。
無理もない。愛子の目の前には、不可思議な状況が展開しているのだ。
打ち上げの参加者が全員、さっきまで自分達の座って居た所に集まり、それと対峙するように早苗が法師と一緒にテーブルの上に立っている。
唯一、咲良だけが集団から外れ、一人で酒を飲んでいる。
何とも言えない混沌が醸し出されていた。
「ひやっ…あの…」
しどろもどろになる早苗、彼女に胸倉を掴まれて怯えた表情の法師、必死の形相で対峙している先輩たち。
愛子にはその様子でピンときた。
先ほど、朝香と法師がお茶を濁した理由もだ。
「早苗、ちょっとそこに座りなさい?」
愛子はにっこりと微笑んで手近なソファを指差した。
「いいいいいいいや、ああああのあのあのぉ…」
「さ な え?」
震える声で反応する早苗に、愛子は微笑んだままで促す。
有無を言わせない迫力に、早苗はガタガタと体を震わせ、だらりと力を抜く。
法師と瓶が落ちたが、一人で飲んでいた咲良が持ち前の運動能力で走り寄り、両方ともにキャッチした。
一方、早苗はテーブルから降り、ソファに向かう。よく見ると青ざめた顔になり、滝のような汗をダラダラと掻いている。
肩を落とし、しょんぼりしながらすごすごとソファに座る様子に、その場に居た全員が――ただ一人を除いて――唖然として硬直している。
信じられないという風にぽかんと口を開けたり、「そんなバカな…」と呟いたりしながら事態を見守る。
早苗は虚ろな表情で涙目になり、項垂れてソファの上に正座した。
「違うんだ…一緒に飲もうと…」
何やらぶつぶつと呟いてる様子は、先ほどまでのテンションとは180度変わっている。
その早苗と向き合うように愛子が正座し、膝を突き合わせる。
「早苗」
「ふぇいっ!?」
未だ微笑んだままの愛子に呼ばれた早苗は、背筋をびくんと伸ばして前を向いた。
「早苗?あなた何をしているの?もうすぐ40になるのよ?先輩方や遠路はるばるお越し頂いた法師様にご迷惑を掛けるなんて。しかもあの方、私と同じくらい下戸だと聞いたわよ?それを無理やり飲ませるなんて何を考えているの?昔からお転婆だったわねあなた。元気で活発なのは構わないけれど、何も考えずに突っ走って周囲の迷惑を顧みずに、後始末はいつも他人任せじゃない。子供の時からそうだったわね。幼稚園の時、園の庭に有った大木に登って先生たちを困らせたり、小学生の時だって…
~以下作者の力不足により30分省略~
…あなた朝香先輩や咲良先輩や康介君にもお世話になってるそうじゃない。分かってるの早苗?」
「……あい…」
笑顔を貼り付けたまま訥々と説教した愛子に対し、早苗は弱々しく返事をした。
頭がオーバーヒートを起こしているらしい。湯気が立ち上り、くらくらとその頭を揺らしながら白目を剥き、ぽかんと口を開けている。
その口からは白い風船のような塊が飛び出し、天に昇ろうとしているのが見えるが、気のせいだろう。
愛子が慣れた手付きでそれを口の中に押し込んだような動作を何人かが目撃したが、きっと気のせいだ。
参加者たちは喉の渇きも忘れてその様子をじっと観察していた。30分ずっとだ。
何故か咲良だけは酒を飲んでおつまみを齧っている。ニヤニヤと微笑みながら。
朝香はその様子に疑問を覚え、問いかける。
「姉さん?何でそんな…」
「ん~?落ち着いてるかって?」
「うん」
「それはねぇ」
咲良が口を開いた所で、早苗の叫びが耳に飛び込んで来た。
「痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い」
「本当にうちの早苗がすみません!ほらあなたも謝りなさい!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
見ると、愛子が早苗の頭を片手で鷲掴みにし、参加者一人一人の所に連れて行き、無理やり謝らせていた。
ガクガクと腰から90度に折らされ、一人当たり20回ほどだろうか、高速で往復運動をやらされている。
頭蓋をギリギリと締め付けられ、脳を上下に揺さぶられ、目が回っているようだ。
あんな細腕の何処にそんな力が有るのか。それとも握力は無関係なのか。
「本当にすみません」
「ごめんなさいゴメンナサイ御麺名娑意GOMEN-NASAI…」
頭を下げさせられる度に言葉を発し、早苗の中ではゲシュタルト崩壊を起こしているようだ。ついでに頭を下げる度に謝るという反射運動に昇華されているらしい。
最後に朝香たちの所に来て謝らされる。こちらは念入りに三人分まとめてだが、軽く100回を超えた。
なお、回数については後で咲良から聞かされたモノで、100を超えてからは面倒臭くてやめたそうな。
「全くこの子ったら本当に。お二人ともすみません」
「うん、いや、もう分かったから…」
「ぼ、僕も気にしてまへんから…」
早苗をカウンターに座らせて尚も謝る愛子に、朝香と法師はたじたじのようだ。
「う……あう…」
顔だけ横向きにカウンターに突っ伏し、涙と鼻水と涎と舌を垂らしながらピクピクと痙攣する妹を見ると、それも止むを得ないか。
「この子昔からこうなんです…全く、何度謝らせたか…」
「おべんらざい…」
法師が視界に入っているのに、気にする様子が全く無い。否、意識に入っていないらしい。
「愛ちゃん大変だねぇ」
「まぁ私は慣れてますけど」
「…ゴベンナザイ…」
「すげぇ、早苗さんが『ごめんなさい』しか言ってねえ…」
どうやら相当な精神的ダメージが有るらしい。
周りの参加者たちがゴクリと唾を飲んだ。
「それじゃあ私たちはそろそろ…」
「む、そうか。分かった」
「舞ちゃんにも宜しくねぇ~」
カウンターを立って頭を下げた愛子に、朝香と咲良が手を振った。
「早苗、行くわよ」
「ぅえい…」
愛子に手を引かれ、早苗もフラフラと店を出て行った…。
「処で姉さん」
「何?あーちゃん?」
「さっきの話の続きだが…」
「あ~、落ち着いてたって話?」
「うん…」
「愛ちゃんが居たからね。大抵身内には勝てないもんよ♪」
「なるほど…お転婆でも頭の上がらない人間は必ず居る、か…」
「お互いにね」
兄姉は偉大だなぁというお話
尊敬と頭が上がらないのとは別物だと思います