苦渋の吸血
さすがにフランシスも帰り道は迷わず、店を出てからさほど時間もかからず家に着いた。鍵を開け、扉を開き、玄関にプレゼント箱を置く。
「ルーナ、結局遅くなってすまん。今帰ってきた」
そう呼び掛けるが、反応がない。耳を澄ますが、声も、足音も聞こえない。
「……ルーナ?」
――ここでフランシスは、ようやくルーナの言っていたことを思い出した。
血を吸わずにいると、立っているのもやっとの状態になる。
そうなってしまえば、もう死を待つしかない、と。
血の気が引いていくのを確かに感じる。心臓の鼓動が1分前の2倍にまで速まった気さえする。嫌な予感が、体中を駆け巡る。やっと乾いた冷や汗が、また全身から噴き出てくる。
結局のところ彼は、軽視していたのだ。吸血鬼にとっての、血液を得るという行為を。そのために、あの少女がどれだけ必死になっていたかというのを忘れていた。
彼は、血が出るほどに唇を思い切り噛みしめた。何の罪もない少女を、自分の不注意で死なせてしまうなどあってはならない。それこそ人として失格、吸血鬼の処刑を楽しむ輩と同じだと、そこまで彼は思っていた。
「おい、ルーナ! 返事をしてくれ!」
再度、呼び掛ける。やはり、返事はない。
だが、微かな音をフランシスは見逃さなかった。彼が軍人という職だからこそ気付けたのであろう、非常に弱弱しく、小さな音。それは確かに、床を叩く音だった。玄関から右側、書斎の方からそれは聞こえた。
慌てて、書斎の扉を開ける。
扉のすぐ前に、ルーナは倒れていた。
「ルーナっ! 大丈夫か!?」
すぐさま彼女を抱き起こし、意識を確認する。どうやら意識はあるようで、口をパクパクを動かしてはいるのだが、まったく声になっていない。手と足はだらんとしていて、本物の人形のようになっていた。
まだ意識はあることをしっかりと確認し、次は口の動きから言おうとしていることを読み取ろうと試みた。
「……か、お、お、よ、せ、て?」
彼には、顔を寄せて、と言っているように見えた。さすがにこの状況で、恥ずかしいなどと言ってはいられない。フランシスは、一度深呼吸してから、自身の顔をルーナの顔に近付けた。
――次の瞬間、ルーナが、唇を彼のそれと重ね合わせた。
「っ!?」
キスをされたと気付くのにしばらくかかった。そして、それが先ほど唇を噛んだときに出た血を吸っているのだと気付くのにまたしばらく時間がかかった。
コク、コクと彼女の喉が軽く鳴る。彼女の顔に、徐々に精気が戻ってきた。
ルーナの唇が、フランシスから離れる。
「お、おい……大丈夫だった、か?」
いきなりキスをされたという気まずさも相まって、どうしていいか分からず、ついそんな陳腐な質問を投げかけてしまう。彼は自分のことながら、今の自分の顔はとても滑稽だろうと思った。
ルーナの方を見るが、彼女は俯いたまま質問に答えない。
代わりに、フランシスの胸を軽く叩いた。パシッ、と音が、静かな書斎の中に響く。顔を上げたルーナの顔を見ると、じっと彼の方を睨んでいた。だが、嫌悪や軽蔑はその目からは感じられない。
「本当に死ぬかと思ったわ」
「すまん」
「だから、早く帰って来てと言ったのよ」
「悪かった」
何を言われても、謝るしかない。居候とはいえ、彼女の服を買いに行くためだったとは言え、こちらが悪いのは分かりきっている。言い訳はできないし、する気もなかった。
「あなたに拾ってもらった恩はあるにしても、スラム街とは違ってここでは私が自分で血を集めることなんてできないのよ。ここは文字通り陸の孤島よ、どれだけ環境が良くても、あなたの血がないとどっちみち生きてられないの」
「……孤島で男女二人残されるなんて話は、いろいろな苦難の末にやがて愛が芽生える物語が多いな」
つい先程キスされたのもあり、軽く茶化した。
「あなたは私を置いて海を自由に渡るのよ。愛なんて芽生えるはずないわ」
だが、彼女の返事は素っ気ない。
それに加えて、
「私だって、苦渋の決断だったわよ。まさか生まれて初めてのキスが吸血なんて、とんだファーストキスだわ」
こう付け足した。やはり、先程のキスを意識していることは分かっていたらしい。
「死にかけたヒロインのキスシーンと言ってやれば、格好はつくだろう?」
「殺しかけたのはヒーローよ」
「いや悪かったよ、本当に」
意外とこの吸血鬼としては幼い少女は、口が達者なのだと知った。
こんな四方山話を続けても仕方が無いので、話を移す。
「ところで、あれだけの量で本当によかったのか? みた感じだと、ほとんど飲んでなかったように見えたが」
「一応、2,3日の間はあれで不自由はないわ。もっと吸わせてくれると言うなら遠慮なくそうさせてもらうけど。直接牙から吸い取られるのは気持ちいいらしいわよ?」
「俺も軍人なんでな。貧血で倒れると困る」
「精のつく食べ物が必要ね。ところで、食事の必要が無い吸血鬼にも、しっかりと味覚はあるのよ」
「娯楽のための食事は俺も必要ない」
相変わらず切り替えが早い吸血鬼だと、つい彼は笑ってしまう。心に余裕を持ちやすいのも、貴族精神からなのだろうか。彼は貴族ではないから分からない。
「別にお前に責任があると言うわけじゃないが、それにしたって何で書斎にいたんだ? 倒れると思ったら、玄関に行けば見つけやすかっただろうに」
「んー、というかね、血が足りなくなった時って、突然力がなくなるのよ。それこそ、糸が切れた人形みたいにね。だから、血が足りないと思ってからでは遅いの。そうやって死んでしまった仲間は何度も見てきたのだけど……私の認識も甘かったわ」
「……不便な体だな」
「ええ。でも生き返っただけ儲けものだと考えることにしてるわ」
ということは、彼女は一度死んでから吸血鬼になったということだ。別に重要なことでもないので確認はしないが、一応それを彼の心の片隅に留めておく。
「おっと……そうだ。ちょっと来てくれ」
危うく忘れかけていたプレゼントを、ルーナに渡す。
「まあ、わざわざ包んでくれるなんて洒落てるわね」
「女へのプレゼントと聞いて、店の人がいらん気を回してくれてな」
「いらなくはないわよ。私は嬉しいわ。プレゼントなんて、いつぶりかしら……ありがとう」
「そ、そこまで大したことじゃないだろ。服は高かったけど」
素直に礼を言うルーナを見て、フランシスはたじろいでしまう。礼を言うのが意外だったのもあるが、彼女の笑顔が、とても可愛らしくかったから、というのもある。
彼は照れを隠すように、
「ほれ。ついでだ」
そこで買った、大きめのフードをルーナに被せた。フードは大きく黒いため、顔がとても見えにくい。無理やりフードを剥がされない限り、頬の逆十字が見えることは無いだろう。
僅かに見える口元から、微笑みが見える。
「……自分で頼んでおいて、なんだか申し訳なくなってきたわ。本当にありがとう」
「いいよ、俺だって独り暮らしで金なんか余ってるんだから」
これ以上彼女から礼を言われると、今度はこちらが申し訳ない気分になるので、話題を変える。
「そういえば、書斎で何の本をさがしていたんだ?」
「ああ、……書斎にいたのは聖書を探していたからなの。聖書、ないかしら?」
「聖書ぉ? ……ああいや、俺は無宗派だから持ってないぞ」
吸血鬼から思わぬ名前が出てきて、フランシスはついオウム返しに言った。それもそのはず、一般には、死後に吸血鬼になるというのは、『神に反する行為をした者』と言われているのだ。
「吸血鬼が聖書なんて意外かしら?」
「ああ、意外だ。吸血鬼が神様を信じるなんて」
「そう珍しいことじゃないわ。そもそも、『神様に反することで生まれる』私たち吸血鬼は、逆に神様がいなきゃ生まれないし。神様には感謝しているわ。皮肉なものよね、敬虔な信徒ほど生き長らえないなんて」
真面目な信徒なら大激怒するような物言いを平気で言ってのける。無宗派のフランシスでさえも苦笑いをせざるを得ないような言葉だ。だが、おそらく彼女は本当にそう思っているのだろう。
「じゃ、人間の頃から信徒だったってわけじゃないんだな」
「…………いいえ、人間の頃からよ」
「それなら、」
それならどうして吸血鬼になったんだ、と聞こうとして、フランシスは口をつぐんだ。彼女の目が、深い悲しみで満ちていたからだ。吸血鬼になった理由は、そうそう楽なものではなかったらしい。
吸血鬼になる条件は、先程上げたものだけではない。いろいろあるが、その中でも『惨殺された者』や、『この世に深い未練を残していた者』という条件もある。おそらく、ルーナはどちらかというとそういった辛い条件に当てはまっていたのだろう。
「ないなら、仕方ないわ。起きていてもやることないし、今日は寝ることにする」
「さすが、信徒は生活が規則正しいな」
「あなたも寝ないの? 軍人の朝は早いでしょう?」
「朝は早いが、夜が短いわけじゃない。俺はこれから仕事だ。まったく、今日は忙しい」
軍人は大変ね、とルーナが呟いた。その声を後ろに聞きながら、フランシスは書斎に入った。
そこにある椅子によりかかり、大きなため息をひとつ吐く。
考えることは、軍の仕事の他にもたくさんある。スラム街が吸血鬼の住処になっていることもあるし、なにより、彼の家に、これからルーナが住むというのが、一番の問題だ。
「……今日は、忙しい」
もうひとつ大きなため息をついて、同じ言葉を繰り返した。
Q,いきなりキスシーンって早くないですか?
A,吸血だからセーフ。