物騒な噂
「……ふぁぁ」
朝の騒がしい市場で、大きく欠伸をする。元来、この男は朝が苦手だ。
だが、そろそろ買いだしに行かないと飢え死にしてしまう。そう思い、この休みに食料を買いに来た。コートの中に、財布が入っているのを確認しながら歩く。最近はこの辺りも物騒な噂しか聞こえてこない。特に、スリ等の盗みが横行しているという話をよく聞く。
喧嘩なら受けて立つが、スリに遭っては敵わない。気付かなかったら金が無くなるし、気付いたら気付いたで軍として取り締まらなければならない。せっかくの休日に軍の仕事をするのは面倒だ。だから、わざわざ軍用のコートを着てまでスリ師を牽制しているのだ。
この男は、問題のスリ師を捕まえる気などさらさらない。ただ自分の周りで騒ぎを起こしてほしくないだけだ。
何を買おうかと辺りを見回している時、花を売っている気さくな中年女性から声をかけられた。
「どうしたんだい、フランシス。今日はまた随分物騒な恰好をしてるじゃないか」
「ここらの物騒な噂に合わせてね」
「そうかい。スリの噂はこっちとしても迷惑なんだ。早く捕まえてくださいよ、フルート中尉」
「やめてくれ、気持ち悪い」
彼の名は、フランシス=フルートという。地位は中尉だ。軍人とは思えぬその俗っぽさとマイペースさから、市民からは密かに支持されている。この中年女性からもだ。
「軍用コートでも着てりゃ、スリ師もさすがに寄ってこねーよ。よかったな、俺がいる間は安心だ」
「なら毎日それ着てうちに来ておくれよ」
「スリ師一人の為にそこまでしてられるか。まあ、そいつに俺からスる度胸があるんなら、捕まえてやるけどな」
「じゃあスられる前に少しでもうちで買っていきな」
「スリに狙われやすいように金をたくさん持っておくよ」
「なんだつまらん。好みの女とかいないのかい?」
「女よりまず命だ。花は食えない」
食料を買いに来たのに花を買ったところで何の得にもなりはしない。フランシスは、言いくるめられる前にさっさとこの場を去ることにした。野菜と肉を売る店を探しに、またフラフラと歩く。
……この辺りは、スラム街の近くだ。スリ師がいるとしたら、スラムのどこか。この辺りで彼が狙われても何らおかしくない。軍人とはいえ、スリなどいろいろな手口がある。決して油断しないよう気をつけながら歩く。
――その時、トン、と誰かがぶつかってきた。
ぶつかった、ではない、ぶつかってきた、だ。曲がりなりにも彼は軍人、そのくらいの見分けはつく。
「あっ……ごめんなさい」
「ちょっと待った」
軽く謝って、そそくさと歩き出した者を止める。黒い布を頭まで被っていて、背は小さく子供らしかった。その子供が、彼の方を振り向く。
少女だった。顔は怯えていて、明らかに挙動不審だ。フランシスは、大きく溜息をついた。
……参ったな、子供か。そう誰にも聞こえないよう呟いて、少女に聞こえるように言った。
「……盗んだ金、返しな。今すぐ返すんなら、特別に無かったことにしてやるから」
こんな子供でも、スリをすれば指切りの刑だ。捕まえるのは胸が痛む。だから、軍人としてはあってはならないことだが、条件付きで逃がすことにした。
条件と言っても、盗んだ分の金を返すという至極当然のことだ。こういう子供はスリが見つかったら何をされるかよく分かっている。指を切られることを天秤にかければ、どちらがいいか分かるだろう。
フランシスは、そう踏んでいた。
……だが、甘かった。
「い、いや!」
「なっ?」
咄嗟に、少女は逃げ出した。フランシスは一瞬呆気にとられて動けなかったが、すぐに後を追う。
「おい待て、こら!」
朝の市場となると、人が込み合っている。少女は、その中をスルリと抜けていくのだ。月に数回しかこないフランシスは、この人ごみをかき分けるので精いっぱいだった。通常の道なら間違いなく追いつくだろうが、この人ごみでどんどんと少女から離れて行く。
「このヤロウッ……! 大人ナメんなよこらぁっ!!」
だが、ここでまんまと少女に出し抜かれる訳にはいかない。フランシスは店の屋根によじ登り、そのまま屋根をつたって走り出した。屋根を飛び越え飛び越え、走る。人のいない場を走れば、当然フランシスの方が速い。
「……っ!!」
少女もそれを悟ったのか、咄嗟に路地裏に逃げ込んだ。それに続こうとするが、そこは狭く、フランシスではとても通れそうに無かった。
「まだまだっ! 下で店やってる奴、すまんがちょっと部屋入るぞ!」
こうなってしまっては彼も意地だ。
店の屋根から窓に入り、そのまま向こう側の窓から飛び降りる。そこは、もうスラム街に入っていた。向こう側に比べ、人がほとんどいない。
そんな中、一人だけ走っている姿が見えた。あれだ。走る影を目指して、全身全霊を込めて走る。
「やっと、捕まえた!」
「きゃっ……!」
走っている少女の手を掴む。その反動で倒れかけたのを、慌てて抱きかかえた。
「はぁ……ったく、手間かけさせやがって。何で逃げたんだよ?」
「は、離して!」
「人の話をきけーい」
「いたっ!」
少女の頭を軽く叩く。少女は、涙目になりながらフランシスを睨んだ。胸が痛む。だが、このまま逃がすわけにもいかない。
「で、何で逃げたんだ?」
「見れば、分かるでしょ……!」
「分かるって?」
少女が、黒い布をはぐ。
少女は、長く蒼い髪に、白い肌を持っていた。服は布を体に縛ってあるだけだ。
そして、紅い眼と尖った歯、それに、頬についた逆十字の紋。それが、その少女の存在を決定づけた。
あー、とフランシスは呟く。
この少女は、スラム街の住民というだけでは無かったのだ。
「……見てのとおり、吸血鬼よ」
「なるほど、通りで」
吸血鬼。
この世界に存在する、人間と同等の知性がある唯一の生き物。人間という種類に当てはめてもおかしくはないほど、その姿は人間と酷似している。当たり前だ、吸血鬼とは死んだ人間が蘇ったものなのだから。だがその身体能力は、生前より遥かに高くなると言われている。
見た目は、一見すると普通の人間と変わらないのだが、人間とは違う特徴がいくつかある。
それが、紅い目と尖った歯と、そして頬につく逆十字の紋だ。
紅い目や八重歯の人間は吸血鬼以外にも少なからずいるのだが、頬の逆十字の紋は吸血鬼だという紛れもない証拠。この逆十字の紋があるからこそ、吸血鬼は『神に背きし者』として教会から厳しく弾圧されているのだ。
それだけではない。人の多くは吸血鬼を忌み嫌っている。吸血鬼は人の法律にも触れられていないため、吸血鬼に何をしても罪は問われない。むしろ、何もしていない吸血鬼の公開処刑などがざらにあるのだ。なるほど吸血鬼の迫害を今まで見てきたのだろうこの少女が、怯えないわけがない。
「あんた、スった後に気付いたけど、軍人でしょ。どうするの、私を……。教会にでも、連れていくつもり?」
「あー? どうして軍人が吸血鬼を教会まで送らにゃならんのだ。俺の仕事は国を守ることだ。他種族の弾圧じゃない」
「え……? じゃあ、許してくれるの?」
「吸血鬼だからってスリを許すわけないだろ。かといって、軍に突きだしたら散々な扱いを受けるだろうしな……」
「じゃあ、私を一体どうするつもりなのよ……」
少女は、その場にへたり込んだ。その顔からは、かなりの疲れが見える。
「お前、疲れてるのか?」
「……さっきまでずっと走ってたんだもん。疲れるでしょ」
「ま、自業自得だな。それにしても、何でスリなんて。吸血鬼が生きるのに必要なのは人の血だけだろ? なんのための金だ」
「この街で暮らしていくための金よ。スラム街には、もう何人かの吸血鬼がいる。その吸血鬼相手に商売をしてる奴がいるのよ」
「……血を売ってるのか?」
「ええ。騒ぎになるのは嫌だから、私たちスラム街の吸血鬼はそうやって暮らしているの」
「そりゃまた、えらいことを聞いちまったな……」
このことを密告すれば、恐らく二階級は確実に上がるほどの手柄だろう。だが、フランシスは地位にこだわる男ではない。密告など頭の端にもない選択だった。彼女も、それを分かってこのことを話したのだろう。
「他の吸血鬼たちは? お前と同じでスリをはたらいているのか?」
「ち、違うわ。他のみんなは、採った野草や仕留めた動物で交換しているの。あとは、魔術を使って手伝いをしたり」
魔術も、吸血鬼の大きな特徴だ。どういうわけか分からないが、吸血鬼は魔術を使う。魔術とは、火を出したり、物を浮かせたり、空を飛んだり様々だ。吸血鬼になると、人は『魔力』を得るらしい。その魔力で、魔術を扱うという話だ。
「お前も魔術を使って何かすればいいじゃないか」
「私は……魔術、使えないの」
「は?」
「身体能力も以前のまま。……私が人間と違うのは、外見と血を吸う能力だけよ」
「そりゃまた、いいとこなしだな」
「うぐ……ハッキリ言うわね」
つまり、吸血鬼なのに普通の人間とまったく同じ事しかできないから、スリでもしてお金を稼ぐしかなかったというわけだ。
「も、もういいかしら? 私、そろそろ血を飲まなきゃ、力を失ってしまうのよ」
「もともと身体能力高くないんだろ?」
「だからこそよ。普通の吸血鬼なら、血をある程度飲まなくても普通の人間くらいの力は保てるんだけど、私が血を飲まなかったらもう立っているのがやっとの状態になるの。だから、そうなるともう血なんて吸える状態じゃなくなるし……そうなったら、もう死を待つしかないのよ」
「へー……デリケートなんだな。だが、俺の金は使わせない」
「ごまかせなかったか……」
「大人ナメんなコラ」
フランシスの財布を持って逃げようとしていたため、再度手を掴む。掴まれた手をなんとか放そうとするが、やはり力は外見相応で、まったく強くない。しばらく放そうとしていたので待ってみたが、やがて諦めたように溜息をついた。
「ねえ、お願い……本当に死活問題なのよ……お願いだから見逃して」
「充分見逃してるっての。本来ならお前、処刑されてるんだぞ?」
「血を飲むことができないなら死刑宣告も同じよ……」
フランシスは、思った。
めんどくせえ。
だがこのスリ吸血少女を黙って見送る訳にもいかない。面倒と思いながらも、方法を考えることにした。
「その、お前の仲間からは分けてもらえないのか?」
「他の仲間だって、分けるほどの血なんて持ってないだろうし」
「じゃー、なんだ。乞食でもしろよ。それなら顔見られないでもできるだろ」
「乞食なんていくらももらえないし、そもそももらえるかどうかも分からないじゃない!」
「はぁ……。じゃあ、このままスリを続けるってのか? 悪いが街の治安を乱される訳にはいかない。もう一度お前を見たときには、即刻軍へ突きださせてもらうが、それでもいいのか?」
冗談ではなかった。
フランシスとて、マイペースでお人好しだが軍人は軍人。法は守らねばならない。これは特別といって一例を許せば、模倣犯がまた現れる。それでは治安が悪くなる一方だ。そうならないためにも、この少女を許すわけにはいかないのだ。
「うっく……じゃ、じゃあどうしろってのよ! 私だって、生きるのに必死なんだから! 人間に見つかったら死ぬって状況で、人からお金盗んで! 必死なのよ! 少しくらい許してくれたっていいじゃない、あんたら人間は豊かなんだから!」
「情に訴えたいなら、まず法を守れ!!」
「っ……!」
「法を守らねば、どんな善人も罪人だ。人は罪人の言い分なんざ聞きたがらない。情けを買いたいってんなら、罪を犯すな」
「だって……しょうがないじゃない、もう……。故郷に帰りたい……普通に暮らしたいよ……」
「……泣くなよ」
「はは、落ちぶれたものよね、吸血鬼も……。気高き貴族なんて言われてた時代もあったのだけど」
黒い布一枚を体に巻いただけの少女は、またしてもへたり込んだ。そして、泣き始めた。いきなり泣かれても、彼にはどうすることもできない。
改めて少女を見ると、服以外はあまり汚れていない。ここへは、最近来たばかりなのだろうか。
「帰る場所があるのか?」
「……ないわ。ほら、私、吸血鬼だから……。人間に見つかっては逃げて、見つかっては逃げてを繰り返してきたの。だから、完璧な定住の地なんてないのよ。ここにも、つい最近来たばかりなの。これならこの前の森の方がよかったわ……。仲間もたくさんいたし、緑はたくさんあったし」
そういえばこの前、また吸血鬼の公開処刑があったのを、フランシスは思い出した。思い出して、また吐き気がした。彼は軍人で、吸血鬼を殺すのも軍人の仕事だと割り切っているのだが、公開処刑というのはどうあっても好きになれない。助けて、助けてと必死に命乞いをする吸血鬼にも胸が痛むし、その首が切り落とされるのを見て盛り上がる人間を見ていると、果たして自分はこちら側にいていいのか甚だ疑問に思えてくる。
……あの処刑された中に、この少女の知り合いもいたのだろうか。
そう思うと、フランシスはまたズキリと胸が痛くなるのを感じた。
……あの時は、吸血鬼が反撃を仕掛けてきたことと、その森がこの街に近かったということから、フランシスも戦いに参加していたのだ。だから、当然たくさんの吸血鬼を殺した。その中にも、当然この少女と親しい者もいたことだろう。
「なあ、まだここに来て間もないだろうが、早めに居場所を移ったらどうだ? この街は、弾圧が厳しい。……ここにいると危険だぞ」
「人間がこの世界にのさばってる限り、吸血鬼に危険じゃない場所なんて無いわ。人間の協力者がいてくれるだけでも大当たりよ。私に、力ずくで血を吸うような真似は出来ないから」
「……そうか」
改めて、今の吸血鬼の在り様を見ると、憂えずには居られなかった。ここまで吸血鬼の弾圧が厳しいのは、教会と、そして、フランシスら軍の存在が大きい。教会は言わずもがな、逆十字の紋を持つ異教徒として厳しく取り締まっている。
そして、軍の方はというと、数年前に最高位の元帥に即した男が、異様なまでの吸血鬼嫌いなのだ。といっても、何か深い恨みがあるわけでもない。ただ人間という種族にプライドがあり、それ以外の種族を対等に扱うなどあり得ない、とのことだ。
この男の評判は決して良くは無いのだが、吸血鬼は激しく弾圧すべき、という意見だけは一致するという者はたくさんいる。元帥が吸血鬼弾圧を宣言したものだから、数年前から吸血鬼弾圧がより激しくなってしまったのだ。
「他のみんなには迷惑をかけるだろうから、スリはやめるわ。だけど、これからどうやって生きていけばいいの……」
「なあ」
「……何?」
どうしても心の中の罪悪感を拭えず、
彼は、この吸血鬼の少女を助けてやりたくなった。
「だったら、しばらくの間俺の家に住むか?」
「……え?」
少女は、しばらく呆けていた。いや、ずっと固まっていた。
「普通に暮らしたいんだろ? 何一つ不自由なく……ってのは無理な話だが、少なくともスラム街よりは楽な暮らしができるだろ?」
「な、何で?」
「スリ師をこのまま放っておくわけにもいかないからな、軍人として」
というのは、実際のところ口実に近い。
「え……でも、血は?」
「人一人じゃ足りないか?」
「い、いや、私の場合は力がない分、血も少量で済むけど……って、え?」
「じゃ、俺一人で充分だろ」
「ま、待ちなさい! あなた、本当にそれでいいの? 吸血鬼に血液を捧げるってことよ!?」
「しょうがねえだろ。お前が駄々こねるから」
「駄々なんてこねてっ……! いや、問題はそこじゃないわ。そんなことして、あなたは大丈夫なの?」
「大丈夫大丈夫。俺、これでも中尉だぜ?」
「地位の問題じゃないでしょ!」
「いちいちうるさいなー。何が不満なんだよ」
「別に不満とかじゃないけど……」
納得のいかない少女。だが相手をしていても不毛なので、フランシスはさっさと次の会話に移った。
「そういえば、お前の名前は?」
「え……何で?」
「なんでって、これから一緒に暮らすのに名前を知らないと不便だろ」
「ああ、そっか」
少女は、呆けたように何度も頷いて、
「……でも、人に名前を聞く時は自分から名乗るものじゃなくて?」
そして少女はやっと安心して落ち着きを取り戻したのか、フランシスを茶化す余裕を見せてきた。『スリ師の癖に何言ってやがる』と言ってやりたかったが、ここは空気を読んで自分から名前を言う。
「俺は、フランシス=フルート。中尉をやってる」
「じゃあ、『フラン』でいいわね。私は、ルーナ=ローレンス。吸血鬼をやってるわ」
知ってるよ、と突っ込みを入れながら、ルーナに再び布をかぶせてやる。
「ほら、行くぞ。朝市の時間も終わるころだし、人も少ないはずだ」
わかった、と軽くうなずいて、ルーナは彼の手を握った。
「……ふふ、離さないでね?」
「お前、すっかり調子が良くなったみたいだなぁ……」
さっきまでの泣き顔の面影が全くないくらいの変わり身に若干呆れながら、フランシスは自宅へと歩き始めた。
つい長く書いてしまいました。
でも、なんとこれ、見切り発車なんです!(ドーン
はい、すいません…相変わらず見切り発車なんです。
でも見切り発車で30部以上いってる小説もあるわけですし…楽しんでいただけたら何よりです。