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  お別れです。②

 


 焦げ茶色の目に、これまで見たこともない苛烈な色を浮かべた夫の視線に、どっと冷や汗が流れてきました。


 な、なんでしょう、この圧迫感。

 普段は何の感情も浮かべていないか、ちょっと不思議そうにする程度の瞳に、これほど激しい感情が浮かぶと、こんなにも威圧されるものだったのですね。


 思わず一歩下がりかけた体をとっさに意思の力で抑えられたのは、夫との日々に鍛えられた賜物に相違ありません。

 夫を刺激するような行動は一切禁止! と、私の本能がそう訴えかけてきます。これも夫に鍛えられたものですから、間違いありません。


 それでもなんとか話をしようと、口を開こうとするのですが、私を見下ろす夫の迫力にすくんでしまって、呼吸すら乱れてきました。


「・・・離縁? ここを、出て行く?」

「・・・ぁ・・・は、はい」


 もうこのまま声が出せないのかも、と思い始めた頃、夫の低い声でつぶやかれた言葉に返事をしなければ! という危機感から、ようやく声が出せました。

 い、今です! 今を逃したら、また声が出せなくなってしまう可能性があります!


「これまで、お世話になりました。二人で生活できて、楽しかったです。本当にありがとうございました。どうか、これからもお元気で」


 いいながら、なんて中身の無い、と歯噛みしてしまいました。さっきまで言いたいことをたくさん思い浮かべていたというのに、いざとなると、うまく言葉をまとめられません。夫への感謝も、今後を祈る気持ちも、こんな言葉では全然足りないのですが、他になんと言っていいのかわからないのが、ひどくもどかしいです。


 そのとき、夫からの無言の圧迫感が一気に増しました。


 ・・・か、顔を上げられません。


 言葉と同時に頭を下げたので、夫の苛烈な視線を直視し続けることは避けられたのですが、見えなくても夫からの圧迫感は増え続けています。間違いなく、私に突き刺すような視線を注いでいます。


 でも、いつまでもそうしているわけにもいきません。もう陽が落ちてしまいましたし、これから街まで歩くとなると、かなり暗くなってしまいますし。


 私は意を決して顔を上げて、夫に話すべきことを話し、最後の別れの言葉を言おうと息を吸い込み。

 そのまま、息の根がとまるかと思いました。


 夫の口元に、小さな笑みが浮かんでいました。


 以前に見た夫の笑みとは全く違う、凍えそうなほど冷たい笑み。それでいて、目は混沌とした色を浮かべたまま、厳しく私を睨みすえていて、背筋に冷たい汗が流れていきます。


 私と同じように、夫の気迫にあてられたのでしょう。視界の隅で、怯えたように小さくいなないた馬が、そそくさと厩舎に向かって歩いていきました。しかも、いつの間にか私の鞄を咥えて。


 え?


 ちょっ、ちょっと待ってください、馬! どうしていち早く逃げるんですか、馬!? どうして私の鞄まで持って行っちゃうんですか、馬!!

 野生じゃないくせに、野生の勘ですか!? 夫がいないときに餌をあげたりお世話をしてあげた恩を忘れたんですか!?

 というか、ちゃんと自分で厩舎の扉を開けて中に入るなんて、どんだけお利口なんですか!? 

 あ、待って! せめて、私の鞄を返してください、うま、馬ぁっ!!


 内心絶叫する私の目の前で、馬は完全に厩舎に入っていってしまいました。しかも、後ろ足で器用に扉を蹴飛ばし、きっちりと閉めていきやがりましたよ、あのお利口馬。


 ばったん、と情けない音を立てて閉まった扉を唖然とした見つめたまま、全身から一気に力が抜けていきました。


 ・・・なんでしょう、この、脱力感。


 さっきまでの私の悲壮感は、覚悟は、一体どこへ消えてしまったのでしょうか。すっごく真面目に悩んで覚悟して、真剣に夫と対峙していたはずなのに。馬め。どうしてくれるんですか、この微妙な雰囲気!? 今更怒れる夫と対峙する勇気なんてチリほども残っていませんよっ!


 全力で馬に、戻ってこい! という念を送ってしまい、私の意識が他へ向いていることに気づいた夫が、さらに視線を厳しくしています。その視線に耐え切れなくて思いっきり視線を背けてしまいました。


 そ、そりゃ怒りますよね、でも私もまさかここで馬がそそくさと逃げ出すとは思っていなかったというか、声も出せないくらいに夫に威嚇されると思っていなくて覚悟ができていなかったんです、現実逃避したくなっちゃったんです。


 深刻な場面で緊張感を根こそぎ破壊されてしまった脱力感になぜか敗北感まで加わって非常に打ちひしがれていたのですが、そうだとしても、怒れる夫の目の前で、現実逃避をするべきじゃありませんでした。


 しかも、微妙な空気に耐えきれなくて、視線を外したままにしておくなんて、油断もいいところです。

 あ、と思ったときには視界がぶれ、夫の肩に担ぎ上げられていました。


「ちょ、ちょっ、まっ・・・!」


 声を掛けようとして舌を噛みました。じ、地味に痛いっ。痛みをこらえるのに目を閉じたのがさらに失敗だったのか、気づいた時には寝台に横たわり、上から夫にのしかかられていました。


 ・・・この体勢は、いったい?

 私、別に眠くて我侭を言っていたわけではないんですが、というか、どうして夫が真上から見下ろしているんでしょうか。うん? 真上?


 これまで夫が私を寝台まで運んでくれた時は、部屋から出て行くか、そのまま隣で眠るかでした。

 でも、今は、覆いかぶさるように夫の四肢で囲われていて。

 すぐ目の前に、夫の混沌とした瞳が。


 あれ?

 ちょっと待ってください。え、もしかして私。

 ・・・押し倒されて、ます?


 自分の状態を正確に把握した途端、心臓が鼓動を打つことを拒否しました。


 焦げ茶色の瞳が真っ直ぐに私を睨み付けていて、視線をそらすことが出来ません。燃え上がる瞳の中には惚けたような小さな私がいます。

 陽炎のように揺らめく激しい熱が、熱くて身動き一つ自由にならず、呼吸さえも出来なくなって。

 このままこの溶けるほどに熱い視線に焼き殺されてしまうのでは、とちいさく身震いすると、その瞳がだんだんと近づいてきました。


 なんて、きれいな。


 溶けきった頭で考えられたのは、それが最後でした。夫の柔らかで暖かな唇で私の唇が塞がれ、最後の息をうばわれた私は。


 ・・・人生二度目の、気絶を体験しました。



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