地下鉄の中で
山中幸盛は四十五歳、ごく普通の会社員だ。日々の通勤はバスと地下鉄を利用している。
幸盛は地下鉄車内での男子高校生の素行にはいつも憤慨している。どうにも許せないのが彼らの座り方だ。およそ教科書が入っているとは思えないペシャンコのナップザックを傍らに置き、彼らのうち十人中八、九人までが両足を大きく外側に広げ、つまり、股をガバッと開き、乗客の迷惑を顧みず一人で二人分のスペースを占拠している。
そのようなマナーの悪さに接すると、幸盛はときどき彼らの横っツラをはたいてやりたい衝動におそわれる。が、もちろん夢想するだけで、実際に行動に移したことはない。
しかし、この「衝動」を抑えている「制御棒」が、幸盛が死ぬ時まで有効に作用するという保障はない。というのも、心の奥深くに「核」のごとき獣性が潜んでいて、年に一度くらい「制御棒」が外れた状態に陥るからだ。
たとえば、狭い田舎の一本道で、前の車と適当な距離をとってマナー走行しているのに、後ろの車がライトをパッシングしながら後方数十センチまで迫って来たとする。しかし、自分一人が車を停めて譲ったところで前方は長蛇の列だ。思わず『どうしろってんだよ、このクソヤロー!』と叫ぶ。頭に血が上り、怒りがむらむらと込み上げてくる。そんな場合に時としてスウーッと「制御棒」が外れる。
まさにキレた状態になって急ブレーキを踏む。当然のごとく後ろの車は間に合わずにガシャッと追突する。幸盛は大声で怒鳴りながら駆け寄って行き、なぜか手にしている鉄パイプで運転席のドアウインドウを叩き破ってその男を車から引きずり出す。鉄パイプを振りかざしてまず手足の骨をバキバキと打ち砕く。誰かが「それ以上やったら死ぬからやめとけ」と止めに入るまで、阿修羅の形相でぶちのめす。
空想の世界なのに、脳味噌が熱でどろどろに溶け胃液が逆流して口中に広がり肩で大きく呼吸している自分がいる。数瞬の後、『相手がベンツだったらそんな想像すらしないだろうにな』と自嘲しながら、ハンドルを握りなおす。
ある日、幸盛は非常に虫のいどころが悪かった。朝、家を出る時にささいなことで女房と言い争いになり、憂鬱な気分で出社したところ、同僚二人が急に休みやがった。
だから、仕事を終えて家路に就いたときにはヘトヘトに疲れていた。重い足を引きずって地下鉄に乗ると、始発駅だからいつもならガラガラに空いているはずの座席が、男子高校生と彼らが所持する大きなスポーツバッグでほとんど埋め尽くされていた。試合で負けたのか疲労の色濃く一同無口で、間隔を広くとってふんぞりかえっている。
となりの車両まで行けば空席があるはずだがそれも億劫で、詰めさせればいいと思い、間隔がやや広めの所へ行って「すみません」と少し頭を下げて割り込もうとした。普通なら、この一言で双方ともが両側へ寄ってくれるはずだ。しかし彼らはツッパリ人生の真っただ中、フツウではなかった。
一人は面倒臭気な顔をしながら少し動いてくれたが、もう一人の方は幸盛の顔をジロリとにらみ、そしてドスのきいた声で言った。
「となりの車両に行けばええじゃねーか」
「なにいーッ!」
幸盛はカッと頭に血が上り、反射的にその高校生のほおを平手ではたいてしまった。普段ならあり得ない行為だが、この時幸盛はとても虫のいどころが悪かったのだ。
高校生は顔をしかめ、ほおをさすりながらすっくと立ち上がった。上背が二メートル近くありそうな、がっしりした体格の高校生だった。いかなる理由にせよ暴力はまずい、という悔恨の念が、殴り返されることを覚悟させた。そのとき予期せぬことが起こった。高校生と幸盛の間に制服の女子高生が割って入ってきたのだ。彼女は早口で言った。
「おじさん、いくらなんでもやりすぎじゃない」
幸盛はしおれてうなずいた。
「すまん、ついカッとして手が出てしまったんだ。悪かった」
「私にあやまってもらっても仕方ないよ。ちゃんとこの子にあやまりなよ」
幸盛は腰を折って丁重に謝った。すると彼女は彼を見上げて説得しにかかった。(きょうびの女子高生は濃い化粧をしているから幸盛にはみんな同じ顔に見える。)
「ガマンしてよ、暴力沙汰おこすと大会に出られなくなるんだからさ。あんただって少しは悪いんだから」
「わかったよ」
彼は意外におとなしく席に座った。幸盛はホッと胸をなでおろした。巨大つけまつげの彼女が幸盛に言った。
「ところでさ、私は追っかけをしているだけで、バスケ部とは何の関係もないんだ。か弱い女だしさ」
幸盛は彼女の言葉の意味がさっぱりわからない。と、その時、彼女はニッコリほほ笑み、右手を大きく上にふりかざした。まさか、と疑った直後、左の頬に首が折れるほどの衝撃を受けた。まったく、ついていない一日だった。
*「北斗」第553号(平成20年12月号)に掲載