無常の雲
青森にも横浜があるよ、という夫の声がした。車が下北半島を進み、ちょうど横浜町に差しかかったから、口にしたらしい。
私は、横浜という言葉に反応して、自宅に戻ってきたのかと夢心地になる。
お互いに黙っている時間が長くて、換気でもするか、と言った夫が開けた窓の隙間から、五月だというのに肌寒い風が、七分袖のカーディガンをなでていく。
季節を忘れ、場所も知覚できずに、助手席で口を開けたまま座る私に、夫が気を使う。
「菜の花畑があるから、寄って行こうか」
私は、口を閉じることなく、自宅近くの公園に咲いていた黄色い花を、思い浮かべていた。
横浜市の自宅から、夫の運転する車に乗って、草太に会うため、青森の恐山に向かう。五月の連休に、行ってみようという夫の提案だった。
草太は十二歳だ。それを認識するのは早かった。三十のときに出産したから、私は四十二のはずなのに、喉につかえを覚えてせきこんだけど、違和感を消すことはできなかった。
菜の花は、三月に見頃を迎える。公園ではそうだったから、まだ咲いているということは、現実から離れてしまったのかもしれない。にわかに微笑を浮かべている私を、自覚した。
「着いたから降りよう」
言葉と同時に、夫の手が、助手席にもたれかかった私に伸びてくる。触れられた私の手から、体温が立ち上ると、現実が始まる。
目覚めを、望んでいない。もう一度、遮光カーテンを閉めたら、眠りにつく。朝日を遮れば、夜明けが訪れることもない。現実が遠のいていく感覚が、いとおしい。起きないで、真由美。と自らに声をかけていた。
「疲れちゃったよな」
夫の申し訳なさそうな声は、エンジンの音が切られた車内に響く。途中の仙台で一泊したとはいえ、と夫は言葉に詰まり、動かない車のハンドルを握りしめたまま、言葉をつないだ。
「でも、草太に会うためだからな」
雲の上を歩いているような感覚になると、ときどき草太の姿を見つけることがあった。現実から離れるほど、鮮明で間近に迫ってきた。
菜の花畑には行かない。必死に連れ出そうとしている夫の額に、汗がにじんでいる。動かない私を巨石のようだと、夫は見つめている。
体も動かさないと健康に悪いから、という夫の言葉が体を突いた。健康を害しても、死ぬことはない。死ぬことは、簡単ではない。
空からにじみ出ていた青色が立ちすくみ、薄曇りになった空が車窓に飛びこんできた。光が雲に吸収され、空一面に染み出た色を見たら、密閉された車内が酸欠になったようで、たまらず私は、外に出た。
太陽の光がぼんやりとしていても、色が強い。薄黄色のバケットハットを被り、日傘を握りしめる。薄い膜に覆われた光を直視したら、にじんだ黄色が目をくらませて、日傘を開いた。
音に反応した夫が振り向いて、そんなに強くないよ、と言葉を投げかけたから、私は顔を上げた。
家の前の道路脇には、キンシバイの花が咲き乱れていた。緑色の葉が群れて、鮮やかな黄色い花が人目を引く。華やかな色を放つのに、香りは閉じこめられたようで、じっとしている。
空にもキンシバイが散らばり、黄色い光に取り囲まれて、まぶたを閉じたら、花が消えて光だけが残った。目の底にまで飛びこむ彩色が、私に眠りを許さず、現実を突きつける。
「久しぶりの外出だもんな」
影を求め、ふらふらとする私に夫が声をかけた。空を見上げて、夫は確かめている。日差しは弱いのにな、とつぶやいたら、車内で休んでる、と聞いてきたけど、私は首を横に振った。
現実から、離れないといけない。バケットハットを目深にかぶり、日傘を差したら、光は目まで届かない。空から逃げるように、小走りで動く私の体に、風がはかない刺激を与えたら、すぐに消えた。
現実が私を遠巻きに見ている。光しか存在しない世界に取り残されまいと、もがく私を見ている。
「ほら、すごいきれい」
夫の声よりも、鼻を突いた青臭い匂いで、菜の花が近くにいるのを知った。狭くなった視界を、鮮やかな色が埋めつくす。感嘆している様子の夫と、思わず顔をしかめている私の眼前に、初夏の畑の色彩が、むせ返るほどの春の空気を醸し出している。
まだ春があることに、ひとしきり心がうなずいていた。私の中で抱えている季節は、イチョウの葉が、まだ黄葉したばかりだけど、それも嘘ではなくて、本当のことなのだろう。
「真由美、恐山が見えたよ」
夫の視線の先に、横たわる雲の合間で、消え入るようにしていた山並みが、薄らかな姿で現れたようだった。
濁流のように押し寄せてくる現実が、すべてを飲みこみ、息をするのさえ許さない。ざわめきが、心が動揺している音が、耳に届いた。
恐山の山門をくぐり、岩肌が露出した地獄のような荒涼とした場所を抜けると、にわかに視界が開ける。極楽浜と呼ばれる宇曽利山湖に面した砂浜が、姿を見せた。
波一つない穏やかな湖は、湖底まで手が届きそうなほど透きとおり、ビー玉のような淡い青緑色をたたえていた。
白い砂浜に立ちつくしていると、風景画のような景色が静止して、静寂に包まれる。
風が現れると、砂地に立てられた小さな風車が回り始め、目に見えるような風だった。
低い雲が垂れこめ、極楽浄土と呼ばれる極楽浜の空は狭くて、今にも落ちてきそうな雲で、私の体を押しつぶそうとしている。
「草太」
虚空を抱えた湖に向かって、夫が涙声で呼びかけている。
私は、静黙していた。
「草太が産まれて、パパは幸せだったからな」
夫は、石を積みながら、石に語りかけていた。
極楽浜には、風に揺るぐことのない、尖塔のような石積みされた塔が、林立している。
「親不孝じゃないからね」
夫が豆粒くらいの小さな石を、最後にそっと積んだ。三途の川にある、賽の河原は、こんな雰囲気の場所かもしれない。
「ほら、真由美も。草太に話そう」
草太の姿は見えない。かたかたと、風車の音が耳に触れ、卵の腐ったような臭いが鼻をかすめて、上空には雲が切れて青い空が顔を出している。
「草太がいる」
感極まって涙を流す夫と、ふぬけた私が砂浜に立っている。現実じゃないみたいだな、と夫がつぶやいた。
宇曽利山湖の遠景に広がる山並みが、青い空から舞い降りたように広がっている。山風が湖面に立てば、幾重にも波紋を広げていく。
勢いよく回り続ける風車の叫び声が、折り重なって私の耳でこだまする。あふれてくる現実が、私を縛りつけて離さない。五感を閉じないと、解放されることはない。
「真由美も、思いっきり叫ぼう」
夫の言葉が、空を走り、鏡のようになった湖面に反響する。鼓膜が揺すぶられて、何度も働きかけられている。
残響がやんだら、湖から引き潮のように色が引いて、鏡はくすんでいく。
光もないのに、白い影が湖面をはうようにして、伸びていくのを、目で追った。
電気をつけないといけない。照明のスイッチを探すも、見当たらない。青い空は瞬間的で、空には雨模様の雲が、まとわりついている。湿気を存分に含んで、耐えられなくなったら、水滴がぽつぽつと落ちてくる。
まぶたを閉じれば、鮮やかな光に包まれる。目の奥に、キンシバイがはっきりと、現実よりも豊かな色に満ちていた。帽子を脱いで、日傘を閉じた。そして、私は目をつぶる。
「草太、また来るからな」
夫の声は、湖面を駆けて、山にこだますることなく、消えていった。
「草太も、喜んでるよな」
帰りの車内で、夫は落着したように息をついた。声の先に視線を移せば、初めて見る山々が列をなしていて、ここがどこなのか、どうしてここにいるのか、考えるのも億劫になり、足を放り投げた。
窓を開けたら、夫が片耳をふさいで、私に注意する。
「地鳴りがするから」
勢いよく車内に入った風が、行き場をなくして渦を巻き、叫び声を上げているらしい。夫は、耳から手を離したら、前腕をさすっている。
半袖じゃ寒かったな、と夫がつぶやいた。初夏というには、疑わしい風が吹いている。
「でも、明日は快晴だって」
夫の声は、少し弾んでいるのかもしれない。
私は、明日が訪れることを望んでいない。明日が迎えにこなくても、いっこうに構わなかった。
私がスクールカウンセラーをしていた市内の私立高校は、自宅から歩いて通える。
心配させないように、できるだけ変わらない日常を送ろう、という夫の言葉と、お仕事しているママはすてきだよ、という言葉で、私は、草太の病気が判明しても、仕事を続けていた。
笹木さんは、相談室の椅子に腰掛けて、かばんを無造作にテーブルの上に置いている。私が入室しても後ろを振り返らず、ぴくりとも動かなかった。テーブルを回りこみ、彼女と相対して、私も座り、今日はどうしたの、と話しかける。
「わかんない」
彼女は、私と目線を合わせようとしない。薄紅色に塗られた爪ばかり見ては、ため息をつく。マニュキアは校則違反だけど、私が見聞きしたことは他言しない。どうしてここに来たのか、彼女は理由を語らない。口が動くまで、彼女の目を見て、じっと待つ。たとえ日が暮れようとも、彼女が動くまで私は動かない。痺れを切らしたのは彼女で、席を立ち上がり、私に背を向けた。
「笹木さんがいなくなっちゃうと、さびしいな」
彼女は私を振り返ると、けげんそうな顔を浮かべる。
「なんで先生が」
怒気を含んだ言葉でも、口元は緩んでいる。窓から斜陽が差しこみ、目を細める彼女の前に私も立つ。私の影に守られた彼女の目が見開くと、なおも彼女は抵抗する。
「南沢先生も、もう帰らなきゃ」
私は帰らない。笹木さんがここにいる限り、時間は無限なの。太陽が沈んで、夜が訪れ、また日が昇る。自然は勝手に進むけど、私はどこにも行かない。でも、笹木さんが帰るなら私も帰るよ。私の心は揺れることなく、穏やかな笑みを浮かべている。
笹木さんは、座り直した。うつむきながら、話をし始める。彼女のすべての言葉を受け止めたら、夕日が私の背中を温め、流れる時間を私は受容する。
一日が閉じようとするはざまで、夜に吸いこまれていく光が最後の抵抗を見せる。青紫色の空が、たなびく巻雲を染め上げる。光が、私の背中から離れていく。彼女の視線は私に注がれる。夜の影が落ちそうになったら、空を見上げて。
「明日なんか、いらない」
笹木さんは、相談室の床ばかり見て、顔を上げて空を見ることはない。薄明は短く、彼女の瞳孔が開き、夜を呼んでいるようだった。
窓の外は夜の帳が下りていて、頭の上では電球色の光が、ちかちかと所在無げに相談室を照らしていた。
草太は空を見上げている。いつも上ばかり向いているから、手を繋いで歩くことが多かった。それも、草太の成長とともに、私の手から滑るように離れていった。
「絵と同じ雲だ」
草太の言葉に、立ち止まったのは瞬間で、空から顔を背けたら、早足になる。顔を上げた草太の歩みが遅くなり、隔てられた距離を生む。
「ママ、あったよ」
諦めて、空を見上げる。夕景を、ゆがめてしまいそうな、うねった雲が現れていた。
自宅の方角に、雲が波打ちながら渦を巻いて、空を流れている。遠景には、紅白の送電鉄塔までもが揺らいでいるように伸びている。
夕映えが西の空に沈むことなく、雲に吸いこまれていく。夕闇も雲に巻きこまれて、不穏な影を空に落としている。日暮れも、夜も訪れないなら夜明けも来ない空に、胸騒ぎを覚えた。
草太が好きだという画家の画集が、病室のサイドテーブルに置いてある。毎日、草太は食い入るように見ていて、画家の愛した黄色い色と、うねるような雲に魅了されている。
「探しにいきたいな」
草太は、絵に描かれた雲を指さしながら、目を輝かせている。絵には、空を駆け巡るような雲と、渦を巻いたような雲が浮かんでいるらしい。外国の雲でも、同じ地球だから、日本でも見られるよね、とつぶやいたあとに、でも、外国だから雲も違うのかな、と草太は言いながら、首をかしげていた。退院したら探そうね、と笑顔で言葉を返す私の視界には、絵が入っていなかった。
画家の絵は、一度見たら忘れない。夜空が黄色い光に満ちていて、昼間のような明るさに目を疑い、空は、巻き貝のような雲を携え、地上をゆがませている。見つめていたら、平衡感覚が狂いそうで、放っておいたら、絵の中から雲と光が飛び出してきそうで、まがまがしい空が、私の心を締めつけた。
笑う草太のそばで、思い浮かべて萎縮している私の背中を、冷たい汗が伝っていく。耐えきれなくて、黄土色のハンドバックからハンカチを取り出そうとしたら、メモ帳のリングが指に触れて、体は金縛りのように動かなくなる。転移巣を摘出できない場合は、と書かれた文字が、私を縛っていた。
光と影を放つ雲が空にたたずみ、景色をゆがめて、目に見える確かなものの存在を曖昧にしていく。絵のような光景は、心の隙間に入りこみ、ざわざわと胸に波を立たせる。
「やっぱり波状雲なんだ」
草太は、日本にもあったね、と言って顔を綻ばせている。
絵の中の雲は、血が通っているようで、生きている。命のある雲なんて、この世に存在しない。
「黄色だね」
草太の言葉で、頭の中から、もやもやとした霧が立ちこめる。目に映った宵の月が、丸みを帯びた姿で、麦秋のような色をしている。麦の穂や色とか光景も、画家を連想しているから、頭がぼんやりとするのかもしれない。ほうけた頭を押さえても、霧が晴れることはなかった。
遊んでいる子どもたちのにぎやかな声が、公園の外周を通る私の耳まで届く。木立に隠れ、姿はおぼろげでも、どこまでもついてくるように音が耳に入る。口を結ぶ私のそばで、草太が口から荒い息を漏らしているのに、金切り声のあとに響いた笑い声が、草太の息を消している。無邪気に笑っている笹木さんの顔が、私の目に浮かんできた。
化学療法の効果に、一喜一憂するのはやめようという夫の言葉を、何度も自分に言い聞かせる。物覚えが悪いから、メモ帳を黒くするまで書いたのに、脳は飲みこむことができない。
相談室の壁にも書いてしまったように、壁が黒ぐろとするから見つめてみたのに、なんと書いてあるのかわからなかった。
「年ごろの女の子は、なかなか難しくて」
南沢先生が頼みの綱ですよ、とため息混じりに話した神沼先生は、大柄で存在感があるのに、相談室にいることを忘れていた。これから笹木が来るので、と言って彼は出ていった。
相談室の窓から、だいだい色が消えた。日没した空から去ってしまったけど、夜というにはまだ猶予があって、窓の外には青紫色の空が広がっている。
「先生、ありがとう」
相談室の扉に手をかけたまま、笹木さんは中に入ろうとしなかった。かすかに残った光だけでは、笑みをたたえた彼女の姿に、影を作ることはなかった。下校時間を過ぎた廊下から、一瞬の笑い声がささやいた。彼女の目は、私を越えて、窓の奥を見ているようだった。
「若くして死んだら、意味がありますか」
生きた意味がありますか、と笹木さんは矢継ぎ早に尋ねてきた。
「ないわね」
私は、間髪をいれずに答える。当惑した視線が私の目とぶつかった。ほのかな光では心もとなくて、相談室の電気をつけたら、笑う顔が浮かび上がった。彼女は無邪気に笑っている。
「じゃあ、わたしの人生は意味がなかったんだ」
「そうじゃないわ。生きてるから意味が生まれるの」
部屋に入りなさい、と笹木さんを促す。相談室に、彼女が足を踏み入れたら、手を捕まえる。
「生きたくないのに」
笹木さんの口から、こぼれ出る。
氷を冷水に入れても、氷はうろたえることなく、すぐに溶けたりもしない。
「先生の手、冷たすぎなんだけど」
私は、含み笑いをして、笹木さんを椅子に座らせた。繋がれた手が解けないように。
青ざめたような空だから、電気をつけたのに、まばゆい光が体を締めつける。温かみのある色が牙を剥いたら、鮮烈な色彩となって襲いかかり、光に飲まれそうになったら、息を吸うのか、吐くのか、呼吸の仕方にまごついて、肺が詰まり始めていく。
首をぎこちなく後ろに振り向けると、窓に映った顔が窓外の光景に溶けこみ、青白くなっている。
テーブルに向かい合って座るも、うつむいてしまった彼女に、私の挙動は伝わらない。
お互いの握力が弱々しくて、手を握るというよりも、触れ合うように手が重なる。
氷も、ゆっくりと時間をかけたら、冷水に溶けていく。氷を溶かしたら、あなたの番だから。冷水が、やがて常温になるまで、待ちましょう。
「ほら、もう冷たくないでしょ」
「わたしと同じじゃん」
彼女は顔を伏せたまま答える。
「私は、温かく感じたわ。今、笹木さんの意味が生まれたわよ」
ありがとう、と私は言って、微笑した。片方の手も出せる、とささやいたら、彼女は黙ってもう一方の手を差し出した。
「今度は一緒に温まりましょう」
口をすぼめて、肺にたまった光を、すべて吐き出すように、息を吐き、彼女の手を強く握りしめる。握り返された手から、冷たい水がこぼれ落ちちていくような、力が伝わった。
病室の薄青い壁は、一点の雲もない、晴れ渡る空のように広がっている。ベッドで、体を丸めて寝ている草太を横目で見たら、ママだよ、とかすかな声を漏らす。
笹木さんに投げかけた言葉が、自縄自縛となって、私の首を絞めていく。酸素を奪ったのは私なのに、私は、水面で口をぱくぱくさせる魚のようにしている。
もぞもぞと動く草太が目に入り、私の体は動きが止まる。
「ママ、そばにいてくれてありがとう」
口を半開きにしていても、そこから言葉も息さえも漏れない。
時間が私に寄り添うこともなく、待つこともなく、沈黙が戸惑いを生んでしまう。私の口から出た言葉は、大丈夫だからね、の一言だった。
病室の薄青い壁は、日本晴れのような雲一つない空のようだけど、私は、疑いのまなざしで、しみでも探すように、雲を見つけるまで、壁を見つめていた。
私は、暑気払いのお知らせを握りしめている。
「たまには息抜きも必要だよ」
夫が笑う。喉のつかえが込み上げるも、欠席するよ、とだけ返事をする。気をつかわないで、大丈夫だから、と言葉を返した夫の顔が、満面に笑みをたたえていた。
烏龍茶を注文したら、間が空いて、生ビールの大ジョッキ、と勢いよく声を出していた神沼先生が、目を見張っている。
「南沢先生、どこか体調でも悪いんですか」
隣に座った年下の原井先生が、心配そうに声をかけてきたけど、私は、大丈夫よ。と答える。彼女は、店員から受け取った烏龍茶を手にしながら、本当に間違いないですか、と若くて屈託のない笑顔をする。
テーブルには、黄金色に輝く飲み物が並び、一つだけ置かれた土のような色の飲み物が、光に水をさしていた。
電話を切り、ハンドバッグをわしづかんで相談室を出たら、廊下に立つ笹木さんの姿が目に入る。口を固く結んだ神沼先生と連れ立っていて、彼女はあさってのほうを向いている。
廊下に差した斜光が、灰色の床を照らして揺れ動き、窓のない空間に黒ぐろとした影を作る。私に気づいた二人が影の中で立ち止まったら、暗がりに吸いこまれて、姿を隠す。
私も暗闇に飛びこみ、息子が、という言葉だけが口から出たら、親指を立てているのが浮かんで見えた。
「南沢先生の息子さんは、入院しているからな」
だから今日は話せないんだ、という神沼先生の声が耳に届いた。早足だった私の歩みが少し遅くなり、後ろを振り返る。
笹木さんが影から現れて、光を浴びたら、また影の中に消えた。
「こら、待ちなさい」
神沼先生の声が廊下に響く。
「わたしのことなんか。誰も理解してくれない」
笹木さんは走りながら叫んでいた。彼女と私の間には、影と光が交互に連なっている。光が影を作り、影は光に浮かんでいる。廊下に、階段を駆けていく音が残響したら、誰もいなくなった。影で黒くなった床も、光が閉じれば灰色に戻る。
胸に手を当てる。せき止めることができないほどの、あふれ出した音なのだから、廊下にまで響き渡るはずなのに、誰にも聞こえない。音は私の中で、うねるように巡りめぐっていた。
テーブルに並んだ料理が、お花畑のように色鮮やかで、あふれる色に平衡感覚が乱れていく。
光をつむように、箸を伸ばして取り皿に移したのに、焦げ目のない卵焼きが星のようにきらめいたから、光を遠ざけるように、取り皿を追いやった。
「笹木は、なにを考えてるか、わからん」
神沼先生がため息をついて、私と原井先生の間に入りこむ。私が先日の早退を詫びたら、彼は、娘のこともわからないですけどね、と自嘲するような薄笑いを浮かべて、南沢先生が頼りです、とジョッキを口につけてビールを飲み干した。
「浴びるように飲んでたのに」
私の烏龍茶を見ながら、どうしたんですか、と神沼先生が問いかける。私は、健康のためです、と言葉を濁す。南沢先生は細身ですし、自分に厳しすぎですよ、と原井先生が人懐っこい笑顔を見せている。
同感したように神沼先生がうなずき、突き出したお腹を叩いたら、小鼓のような、ぽんと小高い音がした。
「そんな、気張らずに」
息子さんのこと、大変でしょうけど、と神沼先生が同情を寄せる。うつむいている原井先生を一瞥したら、ソフトドリンクにだけ差された青いストローが、目に飛びこむ。一輪の青い花を生けてあるように見えて、ストローから花蜜がしたたるようで吸ったのに、水っぽくて苦い液体だった。
「神沼先生は、飲み過ぎに気をつけたほうがいいですよ」
原井先生の声が上擦っている。彼女は、言い終わると、手元にあったおしぼりで、テーブルを拭き始めた。
「もういつ死んでもいいからさ」
神沼先生の甲高い笑い声が室内に響いたら、彼の紅潮させた顔が揺れている。頭を垂れて、黙ったままの原井先生も、揺れ動く。
画家の絵を、眺めているような感覚が呼び起こされる。
「だから、悩むことなんかないですよ」
笹木も悩む必要はないのにな、原井先生もそう思うでしょ、と神沼先生は同意を求めて彼女を凝視していたけど、原井先生はテーブルを、また拭いている。
室内の明かりはこうこうと、大げさなほどに黄色い光を発している。神沼先生は、ゆらゆらと体の動きが止まらない。原井先生の手が、波打つように動いて、テーブルに波紋を広げていく。壁までうねるものだから、目を閉じたのに、光は消えずに、頭がふらついた。
宴席の高笑いが、何度も耳にこだました。
「おかえり。どうだった」
夫が、背筋を伸ばして玄関に立っている。家の明かりが目に入り、消えもしないのに手で振り払う。そうだったか、と夫がつぶやき、肩を落とすから、大丈夫だったよ、と私は答えた。
お酒も飲まなかったの、という夫の声がリビングから耳に届いたけど、私は、聞こえないふりをして、明かりをつけずに暗室のような洗面所で、手を洗っていた。
お腹に開いたままの画集を乗せて、草太は寝息を立てている。片手で画集をそっと手に取ると、案外に重くて手が震えた。草太が見ていたページにしおりを挟んだら、掛け布団をふわりと草太の体に掛けた。
私は、ベッドの隙間に腰を掛け、両手で持っても伝わる重みが、主張するかのようにずしりと響く、画集のページをめくっていた。
しおりを挟んだページには、麦畑の絵が現れて、深い青色をした空を、群れ飛ぶカラスが暗色に染めていた。うねるような雲が二つほど浮かんでいて、呼応するかのように畑を貫く小道も揺れている。私は、目がくらむほどに揺れ動く絵から、逃れるように、天井に目を向ける。
視線を外したすきに、カラスの群れが湧いてきたのか、空ばかりか、黄金色に輝く麦畑にも、じわじわと侵食している。絵は変色していき、やがて黒色に覆われてしまう。目をこすると、私の見間違いで、カラスは麦畑を低く飛んでいる。群れをなして、不安定な色で揺れ動く空に向かって飛んでいる。
カラスの飛ぶ先には、誰も見たことのない世界が広がっているようで、絵は不穏としている。カラスは、今は生きている。風になびく麦の穂も、空を漂う雲も生気が失われ、カラスもやがてそれらに混じり合う。生と死が交差している絵に、私の胸がざわめいていく。
どさりと鈍い音が室内に響いても、呼吸の仕方を忘れてしまって、息を吐こう、吐こうとふためいて、音は耳を通り過ぎてしまった。
目線がぐるぐると定まらないものの、足先が床に転がった画集にぶつかり、病室の薄青い壁が目に入る。ごそごそとした音が耳をかすめて視線を落とすと、草太が薄目を開けていた。慌てて画集を拾い上げると、重荷が全身に乗ったようで、体が重くなる。画集から手を放しても、余韻が残っているのか、体には力が入らなかった。
「ママ、心配しなくていいからね」
寝ぼけた目つきの草太が、寝言のようにつぶやいた。草太の声で、体が動き始める。
「ありがとう。ママは大丈夫だから」
草太は、きょとんとした表情を浮かべている。
「苦しそうだよ」
草太の言葉に驚いて、私は、なぞるように顔を触って確かめたら、笑みをこぼして、もう一度、大丈夫だよ、と口にした。
「草太は、この絵も好きなの」
しおりを抜いて、草太に尋ねた。
「好きだよ」
草太は、目を輝かせている。だって、吸いこまれそうな空でしょ。ぐるぐるした雲も、空に溶けこんでいるし、麦も空を目指してる。カラスだって、空に向かって飛んでいるんだ。きっと、カラスは空にたどり着いて、雲になるんだ。空が少し黒くなっているからね、と草太が早口で話している。
空が、どんなものも受け入れてくれるような気がするんだ。だから、好きだよ、と草太は言って、頬を少し赤らめた。
夜道を通る風が生暖かく、夜になっても、背中にじんわりと汗をかく。まぶしい街の明かりが夜空に映り、雲の形が浮かび上がっても、アメーバのような姿で、ゆがんでいる。色を持たずに、ぼんやりとしている雲がどんな色に染まるのか、首を上に傾けていたら、道行く人とぶつかりそうになり、視線を落とす。
かあかあ、と遠くの空に鳴き声が響いている。夜空に混ざり合って、声の主は見えない。暗雲が空の端から立ち上るように見えたから、駆け足で、私は光る街を、抜けていった。
がちゃっと、玄関の扉が音を立てる。かたっという革靴を脱いだ音がしたら、廊下から聞こえる足音は、床を滑るように静かだった。
ぱちっという音が鳴ったら、突然に太陽が昇ってきたようで、強制的に夜が明けた。瞳孔が明るい光に対応できなくて、光を遮るように手で振り払う。
時計の針は、夜の九時を指していた。朝方に電気がついていたのか、覚えていない。洞窟で生活をしていたかのようで、体が光を恐れている。
「真由美、家の電気はつけよう。玄関の鍵も、開いてたよ」
昨日も言ったけどね。オートロック付きのマンションでも、危ないと思うんだ、と夫はぶつぶつ言いながら、すぐにリビングから消えた。
洗面所で、ばしゃばしゃと手を洗う音と、がらがらとうがいをする音が私の耳まで届く。夫のさえずりのような音がリビングまで運ばれて、私の体にのしかかる。
糸が切れた操り人形みたいに、上半身がテーブルに張りついている。夫が朝日を呼びこむように遮光カーテンを開けても、夜空の明かりはリビングに舞いこまない。黒光りした窓には、だらけた私が映るだけで、すぐに顔を背けた。
「ほら。見てよ」
窓辺に立つ夫が私に呼びかける。今日はうっすらと雲が出ているよ。月と星が黄色に輝いていて、周りの雲が青白く光っているんだ、と夫は話している。
「横浜の星月夜」
夫はつぶやき、少し頬を赤らめて、私に歩み寄る。
家の明かりや外灯も、星のように黄色くきらめいてさ、ずっと見ていたら、空が光り始めるから、昼よりも夜のほうが明るいのかもって、よどみなく話した夫が頭をかいた。
握られた手が、温湯に手を浸したように温まり、手先にうっすらと自由が流れていく。それでも、立ち上がることはできない。体が自由を求めて動こうとするのを、脳は抵抗して、制止する。私は、私に縛られているようで、かすかに動いた体から、ぎいぎいという音が聞こえるようだった。
「今日も、お弁当とか買ってきたけど」
私の言葉を待たずに、夫がお惣菜やお弁当をテーブルに並べ始めた。寝起きみたいにぼんやりとしている私を一瞥したら、いつもこれだと味気ないか、と夫はつぶやいて、白い大皿を持ってきたら、お惣菜を皿によそっていた。
カボチャとコーンのサラダが、薄雲が広がる白い空のような皿に、光の輪を形作り、黄色く瞬いている。
頭の中の、もやもやとした霧が、駆け抜けていくように晴れていった。私の目が、皿に広がる光景をハロのようだと、捉えていた。
まだ昼寝をしていると思ったのに、声が聞こえてきたから、うとうとしていた私は、夢心地のままリビングを見回している。
「雲が見たい」
木漏れ日のような光が窓から差しこみ、室内に柔らかな影を作っていた。薄明かりに気づいた草太が、半身を起こして、自らの影を眺めていた。
「晴れてるけど、雲は見えないかな」
私は残念そうに答えた。窓から空を仰ぎ見たら、光には満ちていたけど、膜がかかったように空が白くて、漂う雲は一つもなかった。
寝起きだからかふらつきながら、窓辺に向かった草太は、窓枠をつかんで離さない。
「見えるかも」
目を輝かせた草太の肩を抱いて、視線の先にある空を眺めるものの、白一色で染まった空に、雲が見えるとは言いづらかった。
見ると言い出したら聞かない子だから、外に出たいとせがむ草太の背中を、寝ぼけまなこで追った。
道を黄色く照らしていたのは、空よりも花盛りのキンシバイだったけど、目指していたのは空の光だから、草太は歩きながら、ずっと顔を上げていた。手を握っていると、私の手よりも小さいのに無骨で、温かい感覚が体に伝わる。
「ほら、黄色い花が咲いてるよ」
私の呼びかけにも、軽くうなずいただけで、草太は、空にある黄色い光を探しているようだった。
開けた場所は近所の公園で、視界は白く覆われていく。草太は私の手をほどいたら、公園の中心に駆けていった。
食い入るように見つめている草太を眺めながら、ベンチに腰を掛けると、じんわりと額に汗がにじんでくる。五月の清々しい風も影を潜めていて、空から降る弱々しい光の下では、梅雨の足音が聞こえるようだった。
「ハロだ。ハロだよ、ママ」
草太は、空を指さし、小躍りしている。
白い空では光も淡かったのに、現れた丸い姿は、目をそらしてしまうほどの光で、光の輪を伴っている。
「薄い雲がいたからね、ハロが見られたんだよ」
興奮する草太に歩み寄り、太陽の周りに輪ができることをハロだと、教えてもらった。
白い光が私たちに降り注いで、薄黒い影を地面に作る。太陽を直接見ないようにね、と草太に注意をしても、うん、という返事があっただけで、白々しい光を、草太は見続けていた。さっきの花よりも黄色い、とつぶやきながら、口をぽかんと開けている。
私は、手をかざしながら太陽を仰ぎ見たけど、色は白いままだった。穴の開くほど見つめても、色が変わることはなかった。
「僕の言ったとおりでしょ」
目を凝らしている私の隣で、太陽は僕の描いたとおりの色をしている、と草太は言って、誇らしげな笑みを浮かべていた。
草太の描く太陽は、満月のように黄色くこうこうと輝いていた。私は、太陽は赤い色じゃないの、とつい指摘してしまい、草太の描く手を止めていた。ママ、太陽は黄色だよ、と言った草太の目は輝いていて、動じることもなかったけれど。
再び手が動き始めると、黄色は渦を巻きながら、画面を占領していく。雲もくねると、呼応するかのように、絵の中の樹木や人物も、うねるように曲がっていった。
直視したら、目を痛めてしまいそうな光が、絵の中で激しく揺れていた。
「ハロは幸運のしるしだよ」
草太の口元が緩んだら、少し荒くなった息づかいが聞こえる。
草太の描いた絵が、白い光に満ちた薄曇りの空に重なると、空は刹那に黄色を帯びていく。
キンシバイの花が、公園にも咲いていた。花の色が、空から降る光を浴びて発色されたのかと思うほど、鮮烈な色をしている。目をこすると、緑葉は変わらず、黄色に染まることはなかった。
湿度が高いせいか、背中を伝う汗が止まらず、不快になって拭うと、真っ赤に染まった草太の顔が目に入った。涼しげな顔をしていた草太が嘘のようで、髪の毛先から汗が滴り落ちている。黄色い光にあたってしまったのか、恨めしく空を見上げても、空から降り注ぐ光ははかなくて、私たちの影は、もう地面から消えていた。
「麦茶、飲もう」
持ってきた水筒を草太に飲ませたら、顔の赤味が和らいで、いくぶん黄色を帯びてきた。
薄雲に覆われた太陽は、変わらずぼんやりとしていたけど、後光が差したような光の輪を従えている。
「そろそろ帰ろう」
私の言葉に草太は黙ってうなずき、私の差し出した手を握り返した。小さな手の平は、汗でべたつき、私の手を柔らかく湿らせる。風が木の葉を揺らしたら、公園の中を吹き抜けて、肌をなでるように通り過ぎたけど、汗は乾かず、自ら流した汗が不快にまとう。
「ママ、見てよ」
嬉々とした声で、公園に生えたケヤキに指をさす。僕の言ったとおりでしょ、と興奮した様子で話したら、口角が上がる。
ケヤキの幹は、まっすぐに伸びて、その先にはいくつもの枝が穏やかに曲がり、青葉をなびかせている。
「どうしたの」
感づかない私に残念がることもなく、草太は目に映った風景を、熱のこもった様子で話している。
ケヤキがうねるように、黄色い空へと向かって伸びていて、うねるのは、命がほとばしっているから、らしくて、草太は、好きな画家の想いを共有できてうれしそうだった。
「ちょっと、大げさだよね」
草太と一緒に、初めて画家の絵を見たときに、私が口走った言葉だ。ママには見えないの、と草太は言って、目をぱちくりさせていた。
弱い日射では、揺らめくようなかげろうも現れないけど、黄色い光に照らされた私たちなら、家路をたどる姿も、うねるように見えるのかもしれない。
「今日のこと、絵に描いてみようか」
草太は二度三度、うなずいた。薄雲が、私の目を回すぐらいに波打ち、目を閉じたくなるようなほど、ハロが黄色にきらめいて、見る者を巻きこむように、うねるケヤキの下を、ろうそくの炎が揺らめくような二人の人物が、手を繋いで歩いているのが描かれるのだろう。
家に着いて、除湿か冷房かで私が迷っている間に、草太は布団に倒れこみ、気を失ったかのように、すぐに眠りに落ちた。慌てて駆け寄ると、すうすうという音が耳に触れる。掛け布団を優しくなでたら、私の心臓の鼓動だけが聞こえて、草太の口元に耳を寄せる。呼吸を止めて、心臓の音も消してしまわないと、草太の静かな寝息が耳に入らなかった。穏やかな寝顔を浮かべていても、声が聞こえないから、胸のざわめきを抑えることができない。
ハロは幸運のしるしだよ、という言葉が頭をよぎり、床につんのめりながら窓の外を見上げても、空を覆っている青白い雲が際限なく光っていて、太陽の方角も見当がつかないから、光源を見つけることができない。
渦を巻く雲にくらくらして、まぶしすぎる光に目を背け、うねるような風景に、平衡感覚を失った私は、ふらついた。お酒を飲んでも酔ったことがなかったのに、画家の絵で酔いを覚えた。草太が好きでも、私は好きになれなかった。
もたれるように椅子に座ったら、激しい睡魔に襲われて、このまま泥のように眠ったら、底なしの沼に沈んでいきそうだった。意識が遠のいて、確かな呼吸の音を探して耳をそばだてたけど、静寂の中に私はいて、静けさに包まれることを、抵抗しなかった。
夕暮れの斜光が部屋に落ちていく。騒々しい光の静寂とともに、眠りに包まれていった。
草太の描いた絵は、画家が描いた絵のようで、私は直視することができなくて、引き出しの奥に、そっとしまいこんだ。
夫が用意した食卓には、黄色い光がちりばめられている。
「ハロみたい」
思わず、口走った。夫は、初めて言葉を発した子どもを見るような、驚きとうれしさの混じった顔をしている。お弁当はサバの塩焼きだからね、これもお皿によそうね。と早口でまくしたてたら、皿を取りにキッチンへと消えた。
「ハロって、なあに」
夫の、遠くから呼びかけるような声がした。ハロは幸運のしるしだから、と私がつぶやいても、シンクに流れる水の音に、かき消される。
このまま食事が喉を通らなくても構わないと、覚悟をしていたにも関わらず、胃が空っぽになった感覚が込み上げたら、たちまちに空腹を覚えた。食欲が湧いてきたのは、ちっとも幸運のしるしではないのに、食べて生きようとする体に、ため息をついて嫌悪する。
「ほら、食べないと元気も出ないぞ」
夫は、少しでも口に含めば食が進むかもしれないのに、と言ってため息をつきながら、お皿に盛られた食べ物を視界に滑らせてくるけど、私のため息は、食べられないから出たのではない。
サラダを口に含んだら、ほくほくとしたカボチャがすぐに崩れて、舌が甘味を知覚する。余韻が残ったままコーンを噛み砕けば、幾重にも重なった甘味が口の中で形作られる。おいしいという言葉が浮かんでしまい、悔しくてたまらず、サバに突き刺した箸を強く握りしめていた。食べ物が飲みこまれるのを、喉は見届けている。それから私は嗚咽を漏らす。詰まらせることのないようにと、体が迷うことなく機能している。
「うまいよね」
夫は、一呼吸おいたら、食べられてよかった、と声を落とした。
「食べられることは、幸せだ」
安堵の笑みを浮かべている夫のそばで、私は苦しみもだえながら、食べ物に手を伸ばして、体に栄養を取りこもうとしている。
平らげてしまった食卓だけど、ちかちかするような光が、残像となって散らばっていた。
食欲が満たされると、眠気に襲われる。目を閉じたら、夜が明ける。生きるほうが簡単でしょ、と私の声が聞こえたら、まぶたが重くなる。あらがうように、椅子から立ち上がる。
リビングの光景が映った窓に顔を寄せると、外の風景が輪郭を帯びて、夜に浮かぶ。横浜の星月夜だね、と夫は言ったけど、まばゆい光は見当たらない。
雲は、かすかに存在する光さえも、すべてを吸いこみ、膨張しているみたいで、巨大な物体となり、渦を巻いたら、闇を吐き出しているようだった。
「夜空が、うねる」
独り言に、夫が反応した。
「絵のような空だよな」
感心している夫を尻目に見ながら、私は窓辺に立ちつくす。見えないものが見え始めたら、どこかへ旅立つ合図だと思っていたのに、自信が湧いてこない。
空から光が消えたら、夜空を飲みつくした雲は、消えてしまう。取りこんだ光が放出されて、まがまがしくきらめいている。引き寄せられるように、また新しい雲が生まれる。光と闇は、いつまでたっても、私の視界から消えることはなかった。
遮光カーテンを強く握れば、ごわごわとした厚みのある感触が、手の中で声を上げていた。
化学療法に効果がない場合、予後不良。重いはずの言葉だけど、私の体にまとわりついたら、押しつぶされることなく身軽になった。空気よりも軽いのか、背負った私も宙に浮いてしまい、椅子に座っているという実感が湧かない。踏ん張らないと、空に飛んでいきそうで、重力さえ失われてしまったのか、相談室にいることも忘れてしまいそうだった。
仕事中に考えるのはよそうと決めたのに、言葉と一緒に私も、ふわふわと宙を漂っている。
窓を開けて換気を促そうと空を眺めたら、梅雨空を覆う雲が渦を巻いていて、相談室に入る空気は、息が詰まりそうなほどの湿気をまとっているはずなのに、取りこまれた空気を全身に浴びても、倦怠感に襲われることはなかった。
分厚い本を握って、手に伝わる重さを確かめたいけど、つかもうとする手から滑るように、本は離れていく。
私が宙に浮いても、質量は変わらない。存在しているのに、重みが体にまとわりつかないと、ここにいる感覚が失われていく。
校庭を跳ね回りたい衝動に駆られたけど、細浦さんが相談室に持ちこんだ空気で、私の体は抑えられた。
「先生、だるいわ」
細浦さんは、顔を伏せたまま、扉にもたれかかり、今にも座りこんでしまいそうだった。お昼まで授業に耐えられない、と言って、二時間目が終わってしばらくしたら、決まって彼女は相談室を訪れていた。
「まずは朝ご飯を食べることね」
日報を書く手に力が入らないのに、書くふりをしながら、私は昨日と同じ言葉を告げる。
「先生、冷たい」
あくびをしながら椅子に座った彼女は、テーブルに置いておいたゼリーに手を伸ばす。
「食事の時間って面倒くさい」
食べるのも、寝るのも、学校に来るのも、人と話すのも全部面倒くさい、とゼリーをきれいに食べ終えた彼女が、顔をしかめて言う。
「こんな無気力でもさ、生きられるんだよ」
テーブルに突っ伏し、息を漏らす。扉が開いたままだったから、閉めようと思って、私は席を立つ。廊下は静まり返り、教室に閉じこめられている人の気配も、漏れることがない。血が通っていない廊下にも、流さないと、と思い、扉を開けたままにして、背後を振り返って彼女に言葉をかけた。
「でも、ここに来てるじゃない」
そうじゃないと言わんばかりに、細浦さんの足が投げ出される。
「だから、嫌になるの。生きるのをやめたいのに、食べちゃうし、先生とも話しちゃうから」
相談室から彼女の気だるい言葉が漏れ出たら、血液が流れたように、廊下に生気が満ちていく。
「生きることをやめるなんて、簡単なことじゃないのよ」
彼女は、口をとがらせている。
「死ぬことって、大変なんだね」
全部消えちゃえばいいのに、と言葉を付け加える。
「だから、生きるほうが簡単でしょ」
「先生だったら、簡単だよ。だって、先生なんだから」
「そうね。細浦さんも、私みたいになれたら、生きるのも簡単でしょうね」
「先生、冷たい」
三時間目の終わりを告げるチャイムが、相談室にも鳴り響く。四時間目は出なさいよ、と彼女に促せば、はいはい、と言って、細浦さんはうなずいた。潮が引くように、相談室から離れていく気だるい空気が、見えるようだった。彼女の通った跡は、ガラスをちりばめたようにきらきらとしている。
相談室は、彼女が残した気だるい空気の余韻に満ちている。思い切り深呼吸をすれば、はち切れそうになる胸から、痛みが漏れる。内から現れた分銅が私の体を重くして、生きているあかしを体に宿す。
机の引き出しに入っていたビニール袋を手に取ったら、相談室の空気を袋にたくさん詰めこんで、袋の口を固く結び、ハンドバッグの奥底にしまいこんでいた。
しぼんだように見える部屋の中は、空気が抜けてしまったような狭い病室で、私は、胸に手を当てて膨らみを確認するも、盛り上がることがなく、呼吸をしているのかどうかもわからないけど、息苦しくはない。手首の動脈を探すも、なかなか触れることができずに、探し当てるのをやめてしまった。
草太は布団にくるまり、消えてしまいそうな寝息を立てて、眠りについている。草太の中で渦巻く白い影は、積乱雲のような姿で、垂直に成長をし続けていた。
珍しく放課後に、細浦さんが相談室に飛びこんでくる。
「どうしよ、先生。わたし、毎日なんにもしてない。寝て、食べて、学校に来るだけだよ」
頭を抱えるわけでもなく、意味とは裏腹に、言葉は軽くて、宙を浮いている。
「あら。生きてるじゃない」
含み笑いをする私の背中に、傾いた日の光が照らされ、窓越しでも体を熱くさせる。真夏の光は衰えを知らない。
「先生、冷たい」
彼女は口をとがらせている。
「でもさ、なんにもしたくないんだけど、夜が近づいてくると焦るの」
瞬間、少しまじめな顔つきになったけど、やっぱり生きるのって大変だわ、と愚痴をこぼした細浦さんは、締まりのない顔をしていた。
私の意識が、どこか遠い国にいるようだった。窓を開けて、ぐったりとするような暑気を浴びても、戻ることができない。涼しい室内で過ごしていても、夏の体はすでにだるかった。低い雲が、相談室に垂れこめているようで、白いかたまりが絡みつく。
雲が体に食いこみ、胸を押しつぶす。直そうと、思い切り深呼吸して、空気を吐きだす。
「生きてるだけで、いいのよ」
肩に白い陰影が触れて、自らの手で払いのける。
「原井先生にはさ、生気がないって言われたのに」
細浦さんが苦笑いを浮かべる。
「若いんだから、もっとしゃきっとしなさいって言われたんだよ」
でも、わたしも、もう十八だしさ。高一のときと比べたら、体力もないんだよね、と彼女はため息をつく。
「細浦さん、大丈夫よ。あなたは、まぶしいくらい生き生きとしている」
まばゆいほどに、きらきらと輝いているわ、と私が口にしても、いぶかしげな顔を彼女はしている。どんな言葉をかけても、彼女の顔はきっと変わらない。
「生きるのって、面倒だよね」
私は、すぐに返事をすることができなかった。
「そっか」
私の口から、魂も抜けてしまったようなふぬけた言葉が出る。細浦さんは、気にかけることなくうなずいた。
相談室を覆う雲は厚く、夏の斜陽もかすむほどで、電気をつけたら照明は、点滅を繰り返し、やがて消えてしまった。
いってきます、という夫の声が、明瞭な言葉で耳に入る。私は、寝ていたことを思い知り、漬物石にでも体が押さえつけられているような倦怠感で、待ち望んでいない夜明けを迎えたことに呆然としている。
昨日の私の体は、はしゃぎすぎた。生きようとしている体を、脳はなだめることができずに、傍観していた。目覚めが悪いほど、現実に近づいているような気がして、生きた心地を許してしまう。
重くなった体も、顔を洗い、歯磨きをして、コップ一杯の水を口に含めば、次第に軽くなる。一日中座っていたら、砂地に引きずりこまれたような、身動きできない体になるけど、動こうとする意思があるなら、抜け出せる。
目を閉じても明るみで、開けたら暗闇に包まれていて、また目を閉じたら光は訪れなかった。目覚めを忘れ、夫の気配も消えて、重くなる体も手放したら、外からの刺激を受けることもなく、内からの感情が湧くこともなく、無重力となった空間に閉じこめられて、ふわふわと浮いているように漂い続けていた。
場所や時間の感覚を失えば、私は、もう魂となって、大気を浮遊している存在になれたのかもしれない。けど、体にのしかかる倦怠感が、魂を捕まえて離さなかった。
リビングの照明がついている。天井の壁紙が、どんよりとした灰色の雲のように覆っていて、かすみ目に映る光は、霞がかかってぼんやりとしている。
おぼろ雲が、リビングの空に広がり、厚みを増して雨雲に変わろうとしていた。家の中にも雨雲が湧いて、今にも雨が降りそうだった。
「生きていたら、だめなのに」
独り言が私の耳に届いたら、湧き上がってきたのは、身のすくむ思いだった。
生きた空気を吸わないと。ハンドバッグをどこにしまったのか。記憶が抜け落ちていても、つぶさに家の中を見渡せば、目に入る場所で、たたずんでいた。使われていないバッグは、色あせることなく黄土色のままだったけど、光を放っているようだった。
束になったクリアファイルが中に入っていて、わしづかんで外に出したら、しなびたビニール袋が、バッグの底に張りついている。袋の結び目はほどかれていなかったのに、あのときに詰めこんだ空気で満たされているはずの袋は、しぼんだ風船のように、小さく弱々しい姿になっていた。
漏れないように、そっと取り出し、袋の中身を解き放つ。鼻に袋をこすりつけたら、深く息を吸う。無臭と判断したのは一瞬で、記憶が匂いをよみがえらせている。おぼろげだった匂いの粒子が、はっきりとしたかたまりとなって鼻腔から立ち上る。たとえ嗅覚を失ったとしても、袋から匂いがしたのだろう。
匂いは、むわっとした。息を吸うごとに、袋の中の空気が体にたまるようで、重くなった臓器が鈍い痛みを発している。快な匂いでも、不快な匂いでもなく、細浦さんの匂いは、生きていた。
夏の光を集めた草木のようで、熱気を帯びた体臭を放ち、乾いた土の匂いと混ざり合う。草いきれから漂う匂いは、私を倦怠させた。
私の体は、なにも匂わなくて、血が通っていなかったのに、鼻に残った匂いが全身を巡り、足先までけだるくなると、生きている証拠を、まざまざと突きつけられる。
何度も鼻口をこすりつけた袋は、生気を吸い取られたようにぺしゃんことなって、柿渋のような匂いが散らばり、油っぽい残り香だった。香水みたいで、生きている匂いは揮発性が高いのか、はかなく消えていた。
匂いが失せてしまっても、だるさは体にまとわりついている。
「動かないと」
独り言でも、体は反応する。家の中でも歩きにくくて、ぎこちない動きは鎧を身にまとっているようだったけど、私は、金庫室の扉みたいになった頑強な玄関の扉を開けて、外に出た。
梅雨の蒸し暑い空気が、けだるい気を取り除くこともなく、道端のアジサイが色鮮やかでも、私の体が華やかに染まることはない。葉には動きの鈍いカタツムリがいたから、足取りの重い私に重ねて、同士だね、と呼んでみた。
白い花から、甘い匂いを漂わせているのはクチナシで、鼻の奥まで匂いが満たされると、口にまでバニラを含んだようになるけど、私の気持ちは高揚することなく、通り過ぎた。
道行く人と私の視線がぶつかることはなく、私と人の足音が突き当たる。空には雲が、波を打ちながら移動しているのに、雲の音は聞こえない。
もうカタツムリはいなかった。目を離したら、どこかに行ってしまったようだった。
目が覚めたら、暗い寝室だから、まだ夜が明けていないはずだけど、夜の感覚もない。夢のようなふわふわとした心地もせず、はっきりと脳が目覚めているのに、体はびくともしないから、ようやく現実から離れられたと思って、体が言うことを聞かなくても冷静でいられた。落ち着いてしまうと、硬直した体がほぐれていき、金縛りに襲われていたことに気づく。
目が暗闇に慣れてくると、薄雲が広がっているような天井が現れ、寝室の形が浮き彫りになる。どこからか、声が耳に触れたらはっとして、私は音で目覚めたようだった。知覚すると、全身に血液が巡るようになり、かすかな記憶にも血が注がれて、鮮明な情景となってあふれてくる。
「生きるのって、面倒だよね」
細浦さんの言葉が脳裏に浮かぶ。一日のほとんどを、リビングで過ごしている私の姿が重なり合う。自由を遠ざけて、自らを鎖で縛りつけ、動かない。生きることに方法があったなら、私は忘れていた。きっと簡単ではないから、思い出せないのだろう。目を背けたら、現実が色あせていくように見えても、現実から離れることは、容易ではなかった。
今日も、なにもしてこなかったね、と自問したら、生きていたよね、と自答している私がいた。
音は、影から漏れていた。寝室に置いてある仏壇の前で、遺影と向き合っている影は、ぴくりとも動かない。念仏を唱えるような、ぶつぶつとした言葉が漏れていた。
まだらに聞こえた言葉が、頭の中で繋がっていく。仕事、うまくいかない。草太のため、がんばる。
壁に掛けられた時計を見やるも、はっきりしているのは輪郭だけで、針の位置はぼんやりとかすんでいた。
会話をしているような、抑揚のある声だった。
「ありがとうな。でも、パパは大丈夫だから」
言い終わると薄闇から、床に正座をする影が浮き出し、こうべを垂れている。しばらく沈黙に入ると、微動だにしなかった。
息を潜めながら、横目で見ていた私の口から吐息が漏れると、縮こまっていた影が震える。私は、視線をそらして、目をつぶる。
カーテンの隙間から、白み始めた空の光が、薄目を開けたまぶたに降りたら、新聞を配達しているバイクだろう、音が光の奥を通り過ぎた。
光の陰に、同化するように影が消えたら、室内に溶けこむような、安穏とした寝息が耳に届いた。眠気はなかったけれど、穏やかな音に誘われて、目を閉じた。二度寝になるかもしれない。きっと次に目覚めたときには、体が鉛のように重くなり、起きることが億劫になるだろうけど、構わなかった。
重荷は、私が動き始めたら、軽くなる。朝が来るたびに背負うのだけれど、夜が明けたら、動かないと。朝焼けの光が真っすぐに、寝室の壁を突き抜けていた。
午前中は晴れていたのに、昼ごろから雨がぽつぽつと降り始める。創立記念日で休校だった私は、あの日、家にいた。昼過ぎに草太が帰宅すると、時間とともに雨脚が強くなっていった。
「雲が見たい」
草太が唐突に言葉を発したから、私は一瞬戸惑って、耳に触れている雨音を疑った。窓辺に寄って、窓を開け放つと、リビングにも雨粒が降り注ぎ、床に水滴が列をなした。
私以上に戸惑った顔を浮かべていたのは草太で、雨なのは知ってるよ、と不服そうにつぶやいた。どぎまぎする私に気づくことなく、草太は窓を閉め、行けないかな、とぽつりと言葉を漏らして、ガラスに顔をつけながら空を見上げていた。
小学五年生にもなると、親と出かけるのは気恥ずかしいのだろう。友だちと出かけることが多くなり、一緒に出かけることはめっきりと少なくなった。
草太は、見たいと口にしただけなのに、私は誘われたような心持ちで、一緒に出かけていた昔のことが脳裏をよぎった。胸の高鳴りが、体の素直な反応なのに、頬まで紅潮していくから顔を背けてしまい、かける言葉を冷静に探していたのに、口から出た言葉は、うきうきとしていた。
「一緒に見に行こうか」
私の言葉に、草太はうなずいた。雨降る空に、雲が見られるのかという疑問は、すっかり忘れていた。
玄関で先に靴を履き終えた私は、二つの傘を手に持った。草太は、靴を履くのがぎこちなくて、膝を曲げたときに、顔をしかめたようだった。草太が、なにごともなかったように立っているから、膝でも痛いの、と私は尋ねた。
「今日、体育の授業で。ジャンプしたら少し痛くなって」
無理しないほうがいいよ、と私が答えたあとに、草太の膝をさすろうと指が触れた瞬間、草太は「大丈夫だよ」と言葉を返して、私から離れていった。
玄関の扉が開かれて、湿布でも貼っておこうか、と勧めたのだけど、私の手を取り「早く行こう」と口にした草太は、はにかんでいた。
扉の開いた向こうには、厚い雲が敷き詰められていて、雲の上に太陽があるなんて、私には信じられなかった。もう日が沈んでしまったかのような濃い灰色で視界が染められると、すでに点灯されている外灯だけではほの暗くて、心もとなかった。
歩いて五分ほどの場所にある公園までの道すがら、私と草太は黙っていた。青い傘を持つ草太の顔は、傘に隠れて見えなかった。
草太の足元がおぼつかないのは、道に浮き出た水たまりを、避けるように歩いていたからだと思い、私は、跳ねるのを失敗して、思いきり水たまりを踏んで、よろけてしまった。しぶきが上がり、草太の足元まで飛んだら、草太は傘を傾けて、笑った顔を私に見せた。
雨の落ちる公園には人けがなくて、濡れた草木が放つ匂いで満たされていた。
色のついた遊具やベンチは、空の色が落ちたかのように色を失っていた。目に鮮やかなのは、私と草太が手に持つ黄色い傘と青い傘の色で、ときどき、お互いの傘が重なったときに見える、発光しているような緑色だった。
視線の先を傘が邪魔して、空を一望することができなくて、仰ぎ見たら、雨粒に顔を叩かれてしまった。黄色い傘の奥には灰色の空がにじんでいて、雨雲が空一面に影を落としたようで、空の色はさびしい。揺れる青い傘が、雲間の青空のように光を放っていた。
「乱層雲だよ」
私が、雨雲だね、と言葉にしたら、草太は笑っていた。雲にはちゃんと名前があるよ、と。
青空に、浮かぶ雲ばかりを想像していたから、雨降る空では、雲の存在を忘れていたのかもしれない。雨雲という言葉を口にしていたのに、雨を降らしているのは雲なのかと今さらに思いながら、どんよりとした雲を凝視する。
「見て、あそこは少し明るい」
草太が指さす雲を見つめても、どこまでも色は変わらず、むしろ黒ずんできて、雲はごろごろと音を鳴らすような気配だった。
いぶかしげな表情をする私の顔は、傘に隔てられて見えないのだろう。草太は、嬉々として言葉を続ける。
「雲の上には、夕方があるんだよ」
夜の色に近づいている空は、私の目では、濁った色にしか映らなかった。どんなに目を凝らしても、姿を隠した太陽が、顔をのぞかせることはない。
「ママには、見えないな」
空を仰いだ草太の顔が、あらわになる。丸くなった瞳に、雨粒が跳ねる。
「傘がうしろに下がってる、濡れちゃうよ」
空から私の顔に視線を移した草太の口がすぼまるのを垣間見ると、すぐに青い傘に覆われてしまい、表情が見えなくなった。
「闇があれば、光もあるのにな」
草太の声が小さくなり、恥ずかしそうにしている。私は、首を反らした。雨粒が顔を叩いて、半開きになった口に落ちようとも、暗闇に染まってしまった空を穴の開くほど見た。
「ママ、濡れちゃう」
空から光が放たれることはなかった。雲の奥には、傾く太陽が潜んでいるけど、草太には、乱層雲が、光を放っているように見えるらしかった。だいだい色に赤い色、それに黄色い光が、見えるのだと、草太は話してくれた。暗闇があるから、光は目立つよね。草太の声は、小さくなかった。私は、傘を持ち直して、草太に顔を向けた。
「そうだね。よく知ってるね」
はにかんで笑う草太の顔を、公園の街灯が照らしている。傘を濡らす雨粒が小さくなり、雨音は優しい音を奏でるようになった。通りを歩く人の笑い声が園内まで届き、私の耳に触れたら、公園にたたずむ時計に目を向けた。
もう日没が間近に迫っている時刻だった。
「そろそろ帰ろうか」
もう少しだけ、と草太は答え、私から離れて、夕闇に消えていく。
夜のような空の下で過ごしていたと思っていたのに、本当の夜は、陰影が濃くて、底が見えないほどの青黒い色をしていた。気づいたときには、夜が私を丸のみにしている。
もう、帰らないと。独り言も、夜に吸いこまれていく。しばらく待てたら夜が明けて、まぶしいくらいの色が迎えてくれる。でも、心臓の鼓動が激しくて、とても朝日を待てる時間なんてない。深呼吸をしたくらいでは、動悸が治まることはないのだから。
「ママ、帰ろう」
草太は首をかしげて、立ちつくしている私を不思議そうに見上げていた。
「うん、帰ろうね」
言葉が、自然と口から出て、我に返っていた。
道行く人が傘を差していないから天を仰ぐと、雲は蒸発したのか、夜の空は青かった。こんこんと湧き出ていたような雲が、枯れることなど想像できなかったけど、いつのまにか雨音も聞こえなくなっていた。
「もう降ってないね」
私が傘を閉じると、青い傘も閉じられて、少し残念そうな顔が夜道に浮かび上がる。
道路は一面が水浸しになってしまい、避ける必要がなくなったから、私はびしゃびしゃと音を立てながら進んでいく。草太がためらっていたから、おんぶしようか、という言葉が口をついて出た。焦ったような顔をした草太は、大丈夫だよ、と言ったら、水を跳ねながら水面を駆けていった。少しほてった顔で夜空を見上げると、きれいさっぱりと雨の止んだ空が、いつもより透きとおっているように見えた。
人家の明かりが瞬く星のようにきらめいていて、その中でも、一際目立つ一等星みたいな光が目に入る。カーテンの開け放たれた窓から、大きな光が漏れていて、人影が、ゆらゆらと揺れ動いていた。
「あ、パパだ」
草太が手を振ってみたけど、影は、肩をすくめたような動きをしたら、固まってしまった。
「パパからだと、見えないのかもね」
私の言葉に、草太は深くうなずいた。光に溶けこんでしまうと、それがどれほどの明るさだったか、もうわからない。
玄関の扉を開けて光に包まれると、影があることも忘れてしまう。こうこうと輝く光が途絶えることはなく、家から明かりが消えることはない。存在しているのは光だけで、失われることなんて想像すらしなかった。
「ただいま」
夫が、玄関に駆けこんできた。
「おかえり。二人で出かけてたのか」
「ごめんね」
夫に連絡するのをすっかり忘れていた。夫は、私たちの顔を見て、胸をなで下ろしていた。
「ママとね、雲を見てたんだよ」
夫は、一瞬目を見開いたけれど、すぐにうなだれた。
「パパも行きたかったな」
草太は無邪気に笑ってる。
「雨が降ったらね」
リビングに向かいながら、草太は返事をした。どういうことなの、と夫が小声で問いかけてきたから、内緒。と私は答えた。夫は虚を突かれたような顔をして、スマートフォンに目をやった。
「ずっと晴れ予報だよ。梅雨が明けるかもな」
夫の言葉を、私は上の空で聞いていた。リビングに向かった草太の足がよろめいて、壁に手をついたようだったけど、立ち止まることなく、すたすたと歩いて、リビングに吸いこまれるようにしていったから、目がくぎづけになっていた。夫の言葉が断片的に流れ、私は返事をすることができなかった。
足元に目を凝らす。私の影は、柔らかな日差しを浴びたような、薄くてはかない色をしていて、風でも吹いたら消えてしまいそうなのに、電球色の照明に照らされた草太の影は、真っ黒い。
「わ」
草太と夫の声が重なった。
「ごめんね。間違えて消しちゃった」
草太の影が消えた。ずっと闇のままでも構わなかったかもしれない。
「つけるよ」
夫の声のあとに、ぱちっという音が鳴ったら、夜が明けた。光が現れると、影があらわになる。夜明けなんて待ち望んでいなかったのに、光と影は、いつも手をつないで迎えにくる。
よろめいた草太の背中が、今も目に焼きついているはずなのに、目に浮かぶのは、草太に寄り添っている影で、月もなく星一つもない夜空のような影だった。
湯のみ茶碗が、リビングのテーブルには三個置かれている。どれも単色で、淡い色合いをしている。眠りについている草太の湯のみが、薄雲の広がる青い空のようだったから、片付けずにそのままにしておいた。
「成長痛かな」
草太の膝のことだった。夫は、確か自分もそうだった、と口にしながら遠い目をしていた。
「たぶん、そう」
私は、黄色い湯のみに口をつけ、喉を湿らせた。
「いつもじゃないでしょ」
「ときどき、みたい」
学校では痛くないの、と私が草太に尋ねたら、大丈夫、と答えていた。
「それなら、心配ないだろ」
夫は、赤色の湯のみに残っていたお茶を、一気に飲み干した。
「でも、真由美に似て、我慢強いからな」
夫は冗談のつもりだったのか、口元を緩めていた。痛いときは、必ずママに言ってね。と私は草太に念を押していた。湯のみを両手で強く握りしめながら、押し黙った。
ご両親には、先にお伝えしておきます。と言う医師の表情は、険しかった。奏功せずという言葉が、とっさに聞き取れなかったから焦ってしまい、そのあとの記憶が曖昧になったと思っていたけど、その前の記憶もあやふやだった。はっきりと覚えているのは、直立不動していた医師と、脱力して床に座りこんでしまった夫の姿だけで、ちらちらと映りこんでいる記憶の中の背景は、真っ白な陰影だった。空を覆いつくした雲の中にいるようだった。
草太は、病室の窓から空を眺めている。
「雲が見たい」
澄みわたる夏空に、ぽこぽこと綿菓子みたいな雲が二つか三つ、浮いていた。空をのぞきこむように見た夫は、顔を曇らせていた。にわかに積乱雲でも盛り上がったような気配が、静かだった病室に流れてくる。
「こういう雲だよ」
棚から画集を取り出して、草太はうれしそうにページを広げている。黄色と緑色が混在している麦畑の上空を、一つの白い雲が蛇のようにくねくねと、紺色の空をはうようにしていた。
この絵に描かれた雲も、やはり生き物みたいで、意思を持って動いているかのように見え、生命が宿っているのかと、見まがうほどだった。
「これは入道雲かな」
夫が絵を見ながら、うなっている。
目を凝らすと、麦と空のはざまには、黒い影のような色が湧き立ち、しばらく見ていると、空一面が黒雲に覆われるような錯覚をしてしまい、胸がざわざわと音を立て始めた。目を離し、絵を見直してみても、空は暗くて、白い雲は断末魔の苦しみが吐き出されたようだった。
題名は、雷雲の下の麦畑、と書いてあった。
「吊るし雲だと思うんだ」
草太の笑みから、新しい発見をしたことの喜びが伝わる。
「どんな雲なの」
夫が尋ねる。
「宇宙船みたいだよ」
草太はぎこちなく手を動かし、表現している。釣鐘みたいなのかな、と夫が、私に顔を向けてささやいた。
「どこで見られるの」
顔を向き直した夫が、草太に聞いている。パパは見たことないの、と言って草太は目を丸くしている。
「高い山だよ。たぶん、富士山の近く」
草太は、考えこむようにしていた。
夫が、そうか、わかった。先生に相談してみよう、と言って、私に目くばせをした。私は、黙ってうなずいた。
夏の深い緑が目に飛びこんだら、電車は駅に吸いこまれていく。涼しげな景色とは裏腹に、箱根湯本の駅を降りたら、夏真っ盛りの空気で、汗が背骨を伝っていく。私は暑さに負けてしまいそうだったから、心配になって、草太と夫の姿に視線を送ると、二人の顔に汗は見当たらず、にこやかに話をしていた。
「ちゃんと飲んでね」
二人に声をかけたら、私も少しだけ口角を上げて、背中の汗を拭った。
登山鉄道に乗り換えて、終点の強羅駅からはケーブルカーに乗りこんだ。たくさん乗り物に乗れるから楽しい、と草太は頬を赤くしながら、夏の暑さに負けないぐらいの声を、張り上げていた。
早雲山駅からロープウェイに乗るころには、標高も上がってきたせいか、気温が下がってきたようで、暑さに圧迫されていた体も、少しずつ解放されてきた。
山肌を上るロープウェイが、支柱を通り過ぎて、がたがたと音を立てて揺れたら、空に浮いたように眺望が開けた。
「吊るし雲はどれかな」
夫が首を伸ばすように、上を向く。私の目にも、富士山の姿が飛びこんできた。心まで透きとおるような青い空には雲一つなく、富士の姿が車窓に収まり、絵画のような眺めだった。
草太の視線が、下を向いている。私は励ますように言葉をかけた。
「まだ見られるかもしれないよ」
車窓の下には、荒涼とした大涌谷の景色が広がっている。
草太は、窓に顔を張りつけるようにして、目を凝らしていた。草木は生えず、岩肌がむき出しになった谷は、黄色く変色している。もわもわとした薄汚れたような白煙が底を覆い、どんよりと濁った空気が漂っていた。命の気配が失われた物寂しい景色に、ようやく夏の暑さから解放された体が押さえつけられ、再び心地が重くなる。私は、目を背けた。
「僕、死んだらここに来るの」
草太は、絞り出すような声をしていた。思わず、私の声に怒気が含む。
「草太、なに言ってるの」
草太は、眼下の景色から目を離さない。
「親より先に死んだら、地獄に落ちるって聞いたことあるよ」
「そんなことないわよ。それに、草太は死なないから大丈夫」
間髪を入れずに私は否定した。
「そうだぞ。草太がパパやママより、先に死ぬことはないからな」
夫が穏やかな口調で草太に話しかけたあと、私に耳打ちした。顔が引きつってるぞ、と聞こえた。真夏の光が強いせいか、車窓に私の顔は映らなくて、波風のない海のような澄んだ空だけが、目に映っている。どこに目を向けたらいいのか、視線はさ迷い、床を向く。
「着いたら、黒たまご食べよう」
夫がはしゃいだような声を出している横で、大涌谷の駅に着くまで、私は、ずっと床面を見ていた。空に目を向けたら、目を離したすきに白い雲がぽつぽつと、どこからともなく湧き上がってきて、雲が白い影のように見えたから。一面が墨の色に覆われた床は、激しい雷雨の兆しが見える黒雲のようだったのに、雨が降ることもないし、これ以上悪くなることも、光がのぞくこともない。床面が変わらないことに安堵して、私の速くなった脈拍も、ゆっくりと脈打つように聞こえるようになった。
駅に着いたら、草太と夫が珍しく手をつないでいて、軽い足取りのまま外に出ていった。水蒸気が混じった山風は、ほのかな熱気を帯びていても、体に残った余韻は冷たい。夏の暑さをすっかり忘れてしまって、目の前の風に、ただ身をゆだねている。硫化水素の臭いが鼻をかすめていくと、大涌谷に来ていることを脳が察知する。影のように浮いていた雲も、どこかに流れてしまって、富士山は快晴に立っていた。変わりやすいのは、山の天気だけではないのかもしれない。
私と草太は、夫が黒たまごを買ってくるのを、椅子に座って待っていた。夫は、子どものように目を輝かせ、黒たまごが入った袋を両手に持っている。
「一つ食べれば、寿命が七年も延びるぞ」
興奮した様子で掲げた袋は、三つあるように見えた。
「一袋に、四つ入りでしょ」
私は立ち上がったけど、そんなに買って、という言葉は飲みこんだ。夫の目が、喜びにあふれている。
黒たまごを一つ、手に取った。殻をむいて、白くなったたまごを草太に手渡した。
「おいしいよ」
いつのまにか夫の口元から、黄身がこぼれる。パパ、食べるの早いね。と言って、草太の笑みもこぼれる。
殻をむいていくと夜の闇が終わり、空が白みはじめて、二つに割ると、黄色い光が現れ、夜が明けていく。光は、口に含むと体の中に溶けこんでいった。手元には、夜の破片だけが残り、散らばっている。
草太が、黒たまごを二つ手に取り、殻を丁寧にむいている。夜明け前には、東の空が白む。草太が、夜を袋にしまいこんでいる。ママのも捨てるよ、と言って袋に入れた。もう夜は訪れない。白いたまごのままだったら、朝も訪れない。
「パパとママは、たくさん食べて長生きしてね」
屈託のない笑顔の草太が、白いたまごを二つ持っている。夫はたまごをつかんで、笑顔を返す。
「ありがとうな、草太。パパとママは、ずっと草太のそばにいるからな」
勢いよく口に入れ、うなずきながらかみ砕いている。
「おいしいな」
夫は嬉々として、たまごを食べていた。私は、たまごを取ることができなかった。
「草太が食べなさい」
私は、どんな顔をしていたのだろう。困惑する草太の顔が、目に映る。もごもごと、口の中をたまごでいっぱいにした夫が、口の前で激しく手を振っていた。
「半分で、もうお腹いっぱいだよ」
草太が言葉を絞り出す。
「もっと食べなさい」
私は声を張り上げていた。
「残りは、家に持って帰って食べよう」
たくさん買っちゃったな、と申し訳なさそうに夫が言った。
涙ぐんでいる草太が顔を伏せ、涙目になっている私は、天を仰いだ。空にたなびいているのは噴煙で、青い空がぼやけていく。夜になっても、朝になっても、火山活動が停止することはないのだろう。私は、日が落ちることを望まない。夜が明けることを望まない。明日が、訪れなくても構わない。私の覚悟も知らずに、噴煙は青い空を覆いつくしていき、頭上に白い影を作る。
「真っ白だ」
草太がむせるような声を出した。
「移動しよう」
真剣な顔つきの夫が、私の手を引っ張る。草太のせきが止まらなくなった。白い影をにらみつけても、視線は空を切るだけで、張り合いのない感情が込み上げてくる。影から漂う硫化水素の臭いが、私の鼻を鋭く刺したから、これでもかというほど鼻から息を吸いこんだ。むせかえるようなせきが出ても、少しも苦しくなかった。
見通しのきいた場所に出たら、夫が甲高い声を上げる。
「見てよ、見てよ」
紺碧の空に泰然と富士が立つそばで、かわいらしいお団子みたいな真ん丸の雲が、ぽつんと一つ、空に浮いていた。
「吊るし雲かな」
興奮した口調で夫が話す。草太は空を、まじまじと見つめている。
子どもの雲みたいで、はぐれてしまったのか、一人でさびしそうにしているようだった。
「ちょっと、小さいか」
夫は顔をしかめて、残念そうにしている。
「わかんないや」
草太の笑みがこぼれる。
「でも、珍しい雲だよね」
草太は、目を輝かせて雲を見ている。しばらく考えこむようにしていたら、あの小さい雲が、吊るし雲になるのかも、と草太は言った。
「しばらく観察してみるか」
夫が腕時計を一瞥して、草太と目を合わせる。間が空いて、二人は私の顔を見つめている。
「もう帰らなきゃ、いけないよね」
夫が頭をかきながら、帰りの電車の時間を口にした。ここにいたら間に合わないのに、私は嘘をついた。
「大丈夫よ」
私は帰らない。にわかに、笹木さんが目に浮かぶ。私は彼女に呼びかける。どこにいようと、時間は有限なの。あなたがどんなにわめいても、時刻表通りに電車は出発して、太陽は必ず沈み、闇になっても、また光が現れるの。だから、明けない夜はないから大丈夫、なんて私が言ったら、顔を引っぱたいて。私は、光を待っていないから。あなたも、逆らってみなさい。
小さな雲は、青い空に溶けこみ、やがて傾く日に照らされて、黄色い光を帯びていく。夏の空に、秋のすすき原を映したような黄金色の輝きが放たれ、日没を待つ赤が混じり合う。
「消えちゃったね、雲」
草太はあっけらかんとしていた。
「また来ような」
夫が体を伸ばしながら言った。吊るし雲は、一向に姿を見せない。
帰路につく人の流れが、もぞもぞと背中を通り過ぎていくような感覚がしても、帰ろうか、と誰かの話し声が聞こえても、ひんやりとした夕風が肌をなでようとも、私は振り返らない。
「真由美の肩に、アキアカネ」
夫の声がしても、私は微動だにしない。
時間が進んでも、光が失われようとも、自然が勝手に進もうが、そんなこと知らない。私は、ここにいる。雲が消えた空をにらみつけ、またにらみつけて、じっと空を見る。
「真由美、もう時間がない」
ロープウェイが、と夫がひどく焦った様子で、私の視界に入りこんできた。
「ママ、帰ろう」
私の冷えた手先に、じんわりと熱が伝わると、はっきりと意思を持った力に引っ張られた。
夫が草太をおぶったら、人波に乗り遅れまいと駆けていく。夫の背中から伸びる長い影を踏むまいと、私も駆けていった。夕方を一瞥したら、すべての黄色を集めてきたような色が、私の視界を染め上げた。
秋が短くなったね。校内で交わされる会話が耳に入る。十月になっても夏日が続いて、秋気はおとなしく、夏の余韻が勝っていた。あんなに夏の暑さに辟易していたのに、夏が終わることを望んでいなかった。寝苦しい熱帯夜が続いても、夏負けして胃腸が弱ろうとも、夏が続くなら、ぐったりとした体のままでも、構わなかった。
「南沢先生は、どの季節が一番好きですか」
女生徒たちが、無邪気な笑顔で私を見ている。きっと光も闇もない季節を、私は待っている。答えに窮しているから、その場しのぎの言葉は軽くなる。
「春かしら」
返事は曖昧で、春と答えたことも、すぐに忘れてしまう。わたしはね、と和気あいあいとしている生徒たちが、水面を跳ねる魚のようにきらめいていた。
あやふやな秋が通り過ぎる前に、スクールカウンセラーの仕事を辞めた。神沼先生が、まいったな、と渋い顔をしていたけど、息子の体調が思わしくない、と言ったら、押し黙った。誰もがうなだれて、お通夜のように静まり返った職員室を、あとにした。
目を開けようが開けまいが、院内にはがらんどうな季節が漂っている。
草太は病室で、すやすやと眠りについていた。草太の好きな季節は、と問いかける。反応はないけど、ぜんぶ、だよね。どの季節にも、雲はあるから。
サイドテーブルに、画集が置いたままになっていて、開いてあるページには雪景色が描かれていた。冬なのに明るい色調の絵には、雪を映したような雲が漂い、優しい光を放っている。手前には、わらなのか、収穫したときのままの柔らかな黄色が、画面に広がる白色を際立たせて、冬の絵が、色彩を放っている。横浜でも、雪が降って積もったら、きらめく雲を見ることができるだろうか。
病院からの帰り道、原っぱの夕景を写真に収める人がちらほらと見え、カメラの先に目を向けたら、思わず目を閉じた。夕日が強烈なまぶしさで、私の目を射貫くように光を発している。真っ暗な瞳の中に光の侵入を許すと、既視感のある情景が闇から現れた。光は強く、空や街も、自然や人の営みまでもが輝いてるように、すべてを黄金色に染め上げる。画家の描いた黄色い光は、希望に満ちていたのかもしれない。けど、希望の光を、私は直視することができなかった。
目を開けたら、夕方は色あせていき、姿を消してしまう。夜が体にまとわりついてしまったら、朝を見つけることは、もうできないのかもしれない。
イチョウの葉っぱが薄く黄色に色づいて、ようやく秋めいたころ、草太は亡くなった。
時計の針は、狂いなく進んでいるのかもしれないけど、私の中では時を刻んでいない。二回目の秋だな、と夫がつぶやいている。聞いても私は、意味を理解することができなかった。
住宅地でも、山から下りたアキアカネが見られるようになった。筋力が落ちているのだろう、少し歩いただけで疲れてしまった。公園のベンチに座り、空を見上げると、もこもこと羊毛のような雲が浮いていた。
「綿菓子、食べたいね」
草太は綿菓子と呼び、決まって食べたいと口にしていたけど、ひつじ雲のことで、高積雲というらしい。
人の声が連なるように、途切れることなく耳に届いては、秋の優しい光が目に入る。
「チョウがいる」
草むらで子どもたちが輪を作り、しゃがみこんで言い合っている。飛べなそう、という言葉のあとに、死んじゃうね、と聞こえた。輪がほどけたら、草むらから静寂が流れた。
十一月になっても、チョウがいることを不思議に思いながら、草むらに歩み寄る。草をよけたら茂みの中に、黄色いはねをくしゃっと折り曲げたナミアゲハが、横たわっていた。羽化に失敗したのか、二つのはねが貼りついてしまったようで、元には戻らなさそうだった。小刻みに震えているはねが、息も絶え絶えのようで、死んじゃうね、という言葉が脳裏をよぎる。
ベンチの脇に咲いている、黄色い花を咲かせたキバナコスモスを一瞥したら、公園の外に駆けていった。音を立てていたのは胸の鼓動で、していたのは息切れだったのに、私の体に訪れるはずの違和感は、来なかった。
公園に戻ってきたら、体に問いかけようにも、胸をさすることができない。リンドウの鉢植えを抱えて持っているから、両手がふさがっている。リンドウは、花弁が夕闇のような青紫色をしていて、公園の近くの花屋で目に留まったから、買ってきた。
草むらに駆け寄って、リンドウの鉢植えを、ナミアゲハのそばまで、そっと近づける。チョウは静止してしまい、私はナミアゲハが、赤色の花を好むことを思い出した。両手がしびれてきてしまい、鉢植えを横にして、リンドウの花をナミアゲハの体に口づけさせたら、ストローみたいな口先が、青紫色の花弁に伸びていく。目は黒いけど、頭部から腹部にかけての黄色い体が鮮やかに映る。
花の蜜が、勢いよく吸い上げられるのが目に見えるようで、体の奥まで行き渡り、はねも元の通りに治る気さえする。茂みの中で横たわっているチョウが、懸命に花の蜜を吸っている姿に、照明でも照らされたように光が浮かび上がって、思わず目を細めた。
青紫色の夕闇に伸びるチョウの口ふんが黒くても、日没の空に溶けこむことなく、体にまとう黄色い光が、鮮烈に広がっている。風になびくナミアゲハの体が、きらめいていくようだった。
「また明日、だからね」
言葉は滑らかで、胸をさすっても鼓動を捕まえられず、呼吸をしていることも忘れるような、落ち着いた私がいた。
公園が夜に包まれようとも、あなたがいるなら朝日のようにまぶしい光を放つから、暗闇におじけづくこともない。こうこうと輝く黄色い光を目にしたら、夜という暗いところなんて、ありもしないのかもしれない。
夜と朝の、はざまのような時間に目が覚めた。夫の体を揺すったら、声をかける。
「ちょっと公園、行ってくるよ」
寝ぼけまなこの夫が、あくびをしながらうなずいていた。
夜露がまだ乾いていないのか、朝の光を浴びた草木がきらめいている。黄金色の光に導かれるように、公園まで駆けていった。
草むらをかき分けたら、横倒しにしておいたリンドウの鉢植えが目に入る。昨日と変わらず、あでやかな色を放っている。傍らにいたナミアゲハが、拳一つ分ほど離れた草の根元で、くしゃくしゃになったはねを地面につけて、力なく横たわっていた。縮こまった体のチョウは小さくて、風で飛んでしまいそうだったけど、鮮やかな色まで失うことはなかった。黄色いはねと体の血色には輝きがあって、黒い筋には血が流れているようなつやがあった。彩られたナミアゲハに息を吹きかけても、呼びかけても、微動だにしない。そっと指先ではねをなでたら、かすかな温もりが私の体にまで流れたようで、指には黄色い粉が点々と付いていた。
リンドウに手を伸ばし、花をチョウの口元まで寄せたら、声をかける。昨日は飲んでたよね、おいしかったよね。青色が好きだよね、だから青い花を選んだの。
ナミアゲハは、うんともすんとも言わない。草の根元には、光だけが横たわっていた。
「生きないと」
口から吐き出した。人けのなかった公園に、行き交う人の息づかいが、キンモクセイの香りと混じった秋風に乗って、私の顔を通り過ぎていく。顔を上げたら、雲一つない空で、底まで透きとおってみえるような、紺碧の空が広がっていた。
本当に雲がないか、空をくまなく探した。遠くの空が白々と見えたから、雲だ、と得意気に声を出す。空気中に水蒸気が多いと、白っぽく見えるんだよ、と笑った声が聞こえるようだった。振り返ると、木漏れ日のような光を浴びている私の体から、影が伸びていく。闇を薄めたような、柔らかい影だった。影の向こうには、登校する子どもたちが、列をなして通り過ぎていった。
玄関の扉を開けて、靴を脱いだらふらついて、持てる力をすべて出し切ったのか、リビングの床に大の字になって倒れた。だるいのではなくて、疲れたのだ、と自分に言い聞かせたら、荒くなった呼吸も少しずつ落ち着いていった。
手のひらにくっきりと跡がついているのは、鉢植えを持ち帰ってきたからで、足の裏が痛いのは、昨日から走りすぎたせいだ。興奮している私の胸が、脈を打って音を出している。規則的にどくどくと鳴り止まない響きは、私をせきたてているようだった。
時計の針が、夜の九時を指している。湯のみから立っていた湯気も、ぼんやりとしてきた。鍵をかけていたはずの玄関が静まりかえり、革靴を脱いだ音も聞こえない。リビングに風が吹きこみ、気配を察したのに、幽霊でも現れたのか、姿が見えない。
こつぜんと、青白い顔をした夫がリビングに立ちつくしていた。夫は、照明に目を向けると、まぶしいのか顔をしかめている。
「おかえり」
戸惑う私の声にも反応が薄くて、夫は部屋を揺らすほどのため息をついた。
「どうしたの」
夫は、黙って下を向いている。口がもぞもぞと動き出しても、言葉にならない音が耳に入る。耳を澄ましたら、言葉が意味を持ち始める。
「どうでもよくなった」
夫は、私の言葉を待たない。
「生きがいがなくなった。草太に会いにいこうと思う」
夫は、薄笑いを浮かべている。草太はどこにいると思う、とつぶやいたら、リビングをふらつきながら、窓際に歩を進めていた。
私は、夫とは逆に向かい、照明のスイッチに手を触れた。リビングには夜が訪れ、夫はうめき声を上げて、立ち止まった。
「草太は、どこにもいない」
私は唇を噛んだ。口にしたくなかった。声は震えて、気が狂いそうだった。死んだって、草太には会えない。だから、もう会うことはできないの。
「勝手なこと言うのはやめて」
暗闇の中で吠えるように泣き叫んで、手を振り払うようにしたら、湯のみに触れてしまい、滑るように床へ落ちた。がしゃんという音に、夫の言葉にならない声が交ざる。
私は脱力して、床にしゃがみこんだら、割れた湯のみが発光しているのを目にした。カーテンから夜の明かりが漏れていて、磁器の破片と、うつろな棒切れみたいに立っている夫を照らしている。光は黄色い。夜に瞬く光は、闇から救われるような色をしていて、星月夜の絵のようだった。
「生きないと」
立ち上がったら、足がもつれてよろけてしまい、転びそうになった勢いで夫にしがみつく。風さえも耐えられなさそうな細い木に見えたのに、倒れず、根を張っているようだった。
「生きてるなら、返事ぐらいしなさいよ」
夫は苦しそうに身をよじらせ、えずいたような声だけを漏らす。
夫の頬をわしづかみ、痛いって言いなさい、と泣き叫ぶ。痛みを忘れたの。謝りなさい。私は夫の顔から手を離さず、慟哭した。
「真由美、ごめん」
言葉にならない声は、小さくてかすれている。
「私じゃなくて、草太に謝るの」
気が狂ったような人を前にすると、ひるんでしまうのか、倒れてしまいそうな私の体を、夫は支えていた。口が半開きになっていたけど、光に照らされた目は、黒くきらめいていた。
窓から、こうこうと光が差しこんでいる。夫の腕を取り去って、ふらつきながら、窓際に向かう。
「雲が、光ってる。ちゃんと、見えるよ」
窓辺に立った私は、窓も開けて呼びかける。夜風とともに、光も、中に入ってくる。
夜の空に、たなびく雲の合間には、きらきらと光がちりばめられている。目を落としたら、地上と空の境目が曖昧で、人家の明かりが星のように浮かび上がる。
リビングにも、星くずのような光が散らばっている。うつむいている夫に寄り添うと、体を温めるような夜の光に包まれて、昼間のようなまぶしさはないけれど、光と影が同居している夜は、少しも暗くなかった。
秋は、足早に通り過ぎていった。
「新しい学校は、電車で通うんでしょ」
夫は、心配そうに見つめている。大丈夫よ、と笑って返事をする。
私は、嘘をついたのかもしれない。人の流れに弾かれそうで、遠目には、整然とした乗車の列が聖域のようだったから、離れていたら乗り遅れ、混雑した車内では、踊るような胸の鼓動が誰かに聞こえてしまいそうで、顔に血が上って、頭から汗が噴き出した。
小走りで、逃れるように駅を出たら、垂れこめる雲が、重たそうで、自らの重みに耐えられなくなって、落ちてきそうだった。ぽつぽつと雨粒が頬を伝い始めて傘を広げたら、視界は黄色に染まり、傘越しに見る雲も、光を得たようになる。夫の顔が思い浮かんで、大丈夫だったでしょ、とつぶやいたら、顔が綻んだ。
冬の雨が陰湿な空気をまとい、白色の照明がつけられた職員室に、暗がりを生んでいるようだった。
「初日から冷たい雨で」
校長が申し訳なさそうにしている。自己紹介を終えたら、席に戻る。一呼吸おいたら、ノートに挟んできた絵を、しばらく見つめていた。
「ゴッホ、みたいな絵ですね」
隣席の先生が、愛嬌のある顔でのぞきこむ。声が少し上擦り、息子が、好きで書いたの、と答える。やっぱり、わたしも好きなんです。と彼女はささやき、暗いのに明るい絵ですよね、と言って笑っていた。
私は席を立ち、相談室に向かおうとしていた。
「新宿に、ヒマワリが咲いているのはご存知ですか」
一瞬、私が戸惑った顔を浮かべても、彼女の顔には、笑みがこぼれていた。
放課後のざわめきが、廊下にはまだ残っている。扉は開けていて、部屋の前を通り過ぎる生徒が、だんだんと数を減らしていく。
寄せては返す波のように、相談室の前をうろうろする生徒が目に留まる。
「今は私しかいないから、中で一緒にお話ししましょう」
手招きすると、打ち寄せるように中に入って、私の引いた椅子に、黙って座った。
「はじめまして、こんにちは。スクールカウンセラーの南沢です」
室内に、言葉の余韻が残る。相談者の口が、かすかに開いては、言葉ではない空気が漏れてくる。鼻から吸った呼吸の量は、吐く息よりも多い。相談者を柔和な表情で見つめ、彼女の言葉を、私は待っている。澄んだような瞳をしているのに、伏し目がちで、臆病なようだけど、言葉は素っ気なかった。
「雨の日って、最悪」
しかも、寒いし。と言ったら、彼女はうつむいた。
「ここは、雨も降らないし、暖かいでしょ」
ずっと、ここにいていいからね、と私は言って、微笑する。
彼女は私を一瞥したら、椅子から立ち上がり、沖に戻る波のように、相談室から離れていった。
「先生も、雨の日は嫌いなの」
振り向きざまに、彼女が聞いた。
「好きよ」
彼女は背中を見せたら、黙って廊下を歩いていった。
「雲が好きなの。雨雲も雲でしょ。その上には、なにがあるか知ってる」
尋ねると、彼女は立ち止まった。
「明日も、お話ししましょう」
彼女は、また歩き始めた。
目が覚めると、夜が明けたようでも薄暗くて、外から、りんとした空気が舞いこんできたような、底冷えする朝を迎える。
「ヒマワリ、見に行くよ」
寝ている夫を揺り起こしたら、冬だよ、と寝ぼけまなこで返事をされた。
リビングのカーテンを開けると、朝とも夕方ともつかない、かすかな光が灰色に染まった雲から漏れている。
朝の支度を整えていると、空気がほんのりと温められていき、お茶を入れた湯のみから立つ柔らかい湯気が、空気に溶けていく。泣く泣く新しく買った湯のみも同じ色なのだけど、立ち上る蒸気が、光みたいにきらきらとしていた。
厚手のコートを着用して、からし色のマフラーを首に巻いたら、薄着の夫が目に入る。今日寒いよ、と告げると、冬だったか、と夫は苦笑した。
空を灰色に濁らせた雲から、静かに雪が降っていたことを、このときは、まだ知らなかった。




