第42話 【前世編】槙田ちえり⑦
「……………………えっ?」
咄嗟に何を言われたのかがわからなくなったちえりは、ずいぶんとたっぷり間を置いて龍斗にそう聞き返した。
結婚?
誰が?
…………誰と?
「就職したし、社会人になったし、今度は……俺がちえりを養える。だから」
「え……、ちょ、ちょっと待ってりゅうくん」
ちゃぶ台の前で正座をしたまま、膝の上で拳をぎゅっと握りながら俯いて言葉を紡ぐ龍斗に、ちえりはあわてて口を挟む。
「結婚って、私とりゅうくんのこと言ってるの? でも私、もう29だよ? りゅうくんまだ23歳でしょ?」
いくらなんでも、さすがに年上すぎない……!?
気まずさMAX、後ろめたさも最大値まで跳ね上がったちえりが咄嗟にそう言うと、訝しみながら話を聞いていた龍斗が更に顔を曇らせる。
「6歳差なんて、大した差じゃないよ」
「大した差だよ! だって私、もうアラサーだよ?」
アラサー。
自分で口にした言葉だったけれど、自分で言ってぐさりと傷ついた。
そうなのだ。
自分はもうアラサーなのだ。
だからこそ――余計に、社会人になりたてのピカピカの23歳からプロポーズされて、狼狽えないわけがなかった。
「……でも、俺が30歳になったら36歳だし。40歳になった時は46歳だよ。そう大した違いはなくない?」
「それは……」
そうなのだろうか?
確かに言われてみると、23歳と29歳から比較すると、40歳と46歳はそんなに離れていないような気もする。
だけど、更によくよく考えると、なんだか単に屁理屈で煙に巻かれているだけのような気もする。
「…………ずっと、好きだったんだ」
消え入りそうな声で。
再び俯いたまま、思い詰めたような声色で、龍斗がそう漏らした。
「本当は、鷹宮の家になんて行きたくなかった。ちえりたちと一緒にずっとこの家に住んでいたかった。この家が好きで、この家の雰囲気が好きで、ちえりのことが好きで。でも、二人を守るために、力をつけるために。そうするのが一番だと思ったからそうしたんだ」
ゆら、と。
龍斗がこちらに顔を向けた気配で、ちえりはどきりと肩を揺らした。
目の前でこちらに対峙する相手が、ずっと可愛がってきた弟みたいな存在の『りゅうくん』には見えなくなってきたことに動揺する。
面影は確かに龍斗なのに。
男の人だった。
普通の。
いや、普通というよりむしろ――かなり素敵な。
「つ……、都合がよすぎるよ……」
「何が? 俺が?」
「……じゃなくて……」
いつの間に――、僕じゃなくて、俺、なんて言うようになったんだろう?
そんな些細なことさえ、自分の知らない男の人になったみたいで、心臓が激しく脈打つ。
「……りゅうくんは、普通の人がお母さんとか優しいお姉さんを好きになるのと同じような気持ちで、私のことを好きだって思ってるだけだよ」
血がつながっていないから。
優しくされて嬉しかったから。
親愛と情愛を混同してしまっているだけなのだと、それに乗じて受け入れるのは自分が都合が良すぎるからと、ちえりが拒む。
しかし――。
「俺の母親はいつも俺に優しくなんてなかったし、ちえりが現れるまで、俺に優しくしてくれる女の人なんていなかった。そんな俺に普通は当てはまらないんじゃない?」
「だったら……、余計に、私が優しかったのを勘違いしちゃっただけじゃ……」
「ちえり」
いくつもの言い訳を連ねながら、及び腰で逃げようとするちえりの手首を、龍斗が掴んで阻んだ。
「俺の気持ちを、勘違いなんて言葉で済ませようとしないで」
その瞬間――。
龍斗に腕を掴まれ、瞳を逸らすことも許されずにそう告げられた刹那。
ちえりの心は決壊した。
(や……、やだ……。ちょっと待ってよ……)
それまでどこに潜んでいたのか、目の前の相手に対する言いようのない溢れんばかりの感情が、ちえりの心臓を中心に、頭の先から足先までぶわっと駆け抜けていった。
(嘘でしょ……、ちょっと……)
止めようもなく、勝手に溢れ出す想いに翻弄されながら、ちえりは胸の中で必死に抵抗しようとする。
――6つも年下なのに。
――ずっと弟だと思って過ごしていたのに。
そんな言い訳が、なんの意味も持たずに奥底に沈んでいく。
「――ちえり」
名前を呼ばれると同時に、ぐっと引き寄せられて腕の中で抱きしめられる。
龍斗から優しい樹木の香りが漂ってきて、泣きたいような訳のわからない気持ちが込み上げる。
「だめだよ、りゅうくん……」
「ダメじゃない」
力なく抱き寄しめられた肩を押し返そうとしたけれど、全く歯が立たなかった。
――いや、違う。
正確には、ちえりが本気で押し返そうとしていたのなら、龍斗も観念してちえりを解放しただろう。
でも、ちえりにはそれができなかった。
龍斗を押し返すこともできず、中途半端になってしまった両手で、そのまま彼のコートをきゅっと掴んだ。
(ああ――。きっとこれで、バレちゃっただろうな)
ちえりが――こうして龍斗に抱きしめられていることを、嫌だと思っていないことを。
好きだと言われて、嬉しくなってしまったことを。
自分が、龍斗の気持ちを受け入れかけていることを。
(――あさましい)
本当に龍斗のことを思うなら、きちんとケジメをつけて突き放すべきだってわかっているのに。
心の奥底で喜んでしまっているあさましい自分に気づいたちえりは、己のあさましさに辟易しながらも、抱きしめられている腕の中に心地よさを感じていることを認めざるを得なかった。
ちえりが抗うのをやめたことに気づいた龍斗は、よりいっそうちえりを強く抱きしめる。
それだけでまた胸がいっぱいになってしまったちえりは、龍斗の腕の中でそっと目を瞑り、自分の気持ちを騙して抗うことを諦めた。
◇
この日から――、龍斗はちえりの家を足繁く訪れるようになった。




