第41話 【前世編】槙田ちえり⑥
――祖母の葬儀の日は、しとしとと雨が降っていた。
◇
「槙田さん。後は私がやっておきますから、もう上がっちゃっていいですよ!」
後輩の女子社員からそう気遣われたちえりは、その好意をありがたく受け取って会社を出た。
祖母の葬式から2週間と少し。
亡くなる前後、そして葬式の後くらいまで疲労とショックが大きかったちえりはだいぶ意識混濁とした生活を送っていたが、時の流れというのは偉大なもので、ようやく落ち着きを取り戻せるようになっていた。
今まで誰かのために生きることしかしてきたことのなかったちえりは、抜け殻のような日々をどう過ごせばいいのかわからぬまま日々を過ごしている。
はあ……、と口元に当てた指先に息を吐きかける。
午後から雪予報の出ていた空からは、ちらちらと白い結晶が舞い降り始めている。
けれどちえりは傘を差すことさえ億劫で、自らの吐息で指先を温めながら、のろのろと帰り道を歩いた。
(……結局、おばあちゃんに結婚するところも見せてあげられなかったな……)
祖母はずっと『ちえりが相手を見つけて結婚するまで安心して死ねない』と言い続けていた。
認知症の進行が進み、ほとんど自我が無くなるまで、祖母はずっと自分のことを案じてくれていたのだ。
症状が進む前の初期の頃は、祖母を安心させるために恋人を作って付き合ってみたりもした。
最初はいい人だと思って一緒にいたけれど、結局は祖母の様子が心配でそちらに注意を向けていると「結局、俺よりも自分の家族の方が大事なんだろ?」と言われたりするようになって、長く続かなかった。
(はあ……)
なんのために、何を頑張って生きればいいのかわからない。
『ようやく自分のために時間を使えるようになったのだし、好きなように生きればいい』と言われても。
(見つけようと思って頑張れば、見つけられるものなのかしら……)
そう思いながら、とりとめもなく歩く。
すると「すっ」とちえりの頭上に、誰かが傘をかざしてくれた気配を感じた。
(…………え?)
のろのろと歩いていたちえりはぴたりと歩みを止め、その傘をかざしてきた人物を見上げる。
黒いコート、高い身長。白い肌。綺麗な顔の――男の人。
「……ちえり」
自分の名前を呼ぶ声。
自分に対して、こんなことをしてくる相手は数えるほどもいない。
その中で――、一番可能性の高い人物の名前を。
しかしそれでも、疑心を抱きながらゆっくりと口にした。
「……りゅう、くん?」
「うん」
ちえりに傘を差し掛けたまま、すっかり青年になった龍斗が小さく答える。
信じられないものを見るような瞳でちえりが龍斗をしばらくじっと見つめていると、龍斗はちえりの背中を温めるように手を添えながらくすりと笑った。
「ダメだよちえり。ちゃんと傘を差さないと。風邪ぶり返したらどうするの?」
「……どうして……?」
「覚えてない?」
ちえりの言葉に、龍斗がきょとんと小首を傾げる。
覚えていないとはなんのことだろう?
そう考えながら、ちえりはまったく覚えのない龍斗の問いかけに素直に「……ごめん」と謝る。
そんなちえりの反応に、龍斗はくしゃりと笑顔を歪める。
「…………。……この間、りえばあちゃんのお葬式に顔を出したんだけど、その時ちゃんと挨拶できなかったから、また改めてって言って今日来たんだ」
「……ああ」
龍斗の説明で、ちえりはようやく合点がいった。
――あの日、あの時、祖母の葬式の時。
確かにあの時ちえりは意識も朦朧としていることが多くて、そんななかやっとかっと葬式の喪主を務め上げた心労で、その後しばらく熱を出して寝込んでしまったのだ。
その反動のせいなのか、あの葬式の時に挨拶に来てくれた人を、ちえりはまともに覚えていなかった。
(だからと言って、りゅうくんが来てくれたことまで覚えていないなんて)
せっかく、時間を作ってお別れの挨拶に来てくれたかつての養い子を、あろうことか自分の情けなさ故にちゃんと対応できかったなんて。
そうちえりが恥じ入っていると、
「だから今日、もしちえりがよければ、改めてりえばあちゃんに挨拶させてもらってもいい?」
と尋ねてきた。
もちろん、ちえりに否と言う理由などなかった。
なんと言っても龍斗は、かつて祖母とも7年一緒に暮らした間柄なのだ。
龍斗の申し出を快く受け入れたちえりは、そのまま龍斗を伴ってかつて一緒に住んでいたあのぼろアパートまで歩いた。
「……ここ、まだ引っ越してないんだね」
「思い出がいっぱい残ってるからね。それに、家賃も安いし……」
かつて3人で住んでいた2DKは、いまやちえり一人の城になってしまった。
城と呼べるほどのものでもない、ぼろぼろのあばら家だが。
一人では広すぎるようになってしまった部屋は、確かに龍斗の言う通り引っ越しを考えた方がいいのかもしれない。
しかし、この家に残っている思い出のことを考えると、すぐに引っ越すという気持ちにはなれないのだった。
「おばあちゃん。りゅうくんが来てくれたよ」
ちえりがそう言って戸棚の上に置いた遺影に話しかけると、ちーんと仏具を鳴らして手を合わせる。
龍斗はそれに倣い、ちえりに続いて「ばあちゃん、ただいま」と告げると、自分も仏具を鳴らして手を合わせた。
部屋中に漂う、線香の香り。
それはかつてこの部屋では感じることのない香りだった。
「りゅうくん、コーヒーでいい?」
「……うん」
龍斗がちゃぶ台の前に腰掛けると、なんだか急に5年前まで時が巻き戻ったような気分になる。
しかし、今ちゃぶ台の前に座っているのは、あの時の少年よりも幾分にも成長した立派な大人だ。
(……よかった。りゅうくん、ちゃんと元気でいたみたい)
彼がこの5年間、どう過ごしていたのかをちえりは知らない。
龍斗を引き取った彼の家族からは、『今後はもう彼と会わないでほしい』と言われていたから。
あれから5年。
ということは、龍斗は23歳になっている計算になる。
この5年間どうしていたのか。
今は何をしているのか。
せっかく出会えたこの機に、つもる話でもできたらと思っていたちえりの思考を一刀両断したのは、他でもない龍斗本人からの衝撃の言葉だった。
「ちえり。――結婚しよう」




