第40話 【前世編】槙田ちえり⑤
結局、あの時告白してきてくれた同僚には、ちゃんと事情を説明して『申し訳ないけれど、お付き合いすることはできません』とお断りした。
誠実で、本当にいい人だった。
ちえりが交際を断った後も、それまでと全く変わらぬ態度を取り続けてくれて、なんなら困った時はさりげなく助けてもくれた。
『きっと、こういう人とお付き合いできたら幸せだったんだろうな』と思ったけれど、とっくに自分の幸せを諦めていたちえりは、そんな気持ちを押し殺して日々を過ごした。
時折、祖母から、
「ちいちゃんのお嫁さん姿も、元気なうちにみたいわよねえ」
などと冗談めかして言われることもあったが、いつも曖昧に笑って誤魔化していた。
そんなある日のことだ。
龍斗も高校三年生になり、そろそろまた、大学進学の話で龍斗とひと悶着起こるだろうなと、ちえりが覚悟を決めていた頃。
とある人物が会社帰りのちえりを呼び止め、話をさせてほしいと言ってきたのだった。
◇◆◇
「……え? りゅうく……、龍斗が、ですか……?」
「はい。きちんとそうだと言い切れるのはDNA鑑定の結果次第ですが。我々はほぼ間違いなくそうだと思っています」
会社から帰ろうとした帰り道で、見知らぬ人物に声をかけられ「お宅の弟さんについてお聞きしたいことがあります」と喫茶店に連れてこられたちえりは、相手から渡された名刺を手に信じられないと言葉を詰まらせる。
ちえりの手の中にある名刺には――『HAWKグループ顧問弁護士 橘 晃志郎』と書かれている。
「私はその、父から、知り合いの息子だとしか聞かされていなかったので……」
「槙田さんのお父様のお知り合いというのが、龍斗さんのお母様だったのだと思われます。ちょうどあなた方の家で引き取られる前に、薬物の過剰摂取でお亡くなりになっていらっしゃいますが」
橘、という弁護士から初めて聞かされる事実に、ちえりは驚愕を覚えることしかできなかった。
橘の話を簡単に説明するとこうである。
曰く――、龍斗はHAWKグループの経営者一族、鷹宮家の落とし胤であり、それが発覚した今、龍斗を正式に鷹宮家で引き取りたいという意見がでているという話だ。
「もちろん、彼が本当に鷹宮家の血を引く人物であったなら、あなた方にも相応のお礼をさせていただきます。彼がこれまで無事に育ってこられたのは、他ならぬあなた方のおかげなのですから」
ですからまず、DNA検査のための承諾を本人に取ってもらいたい――。
橘からそう告げられたちえりは、おもわず手にしていた名刺の角を、すり、と無意識に擦った。
(りゅうくんが……、大企業の、御曹司……?)
今朝、家を出る時に見た、まだ少年の面影が残る彼の顔を思い出す。
言われてみれば、と思わないこともない。
それくらい、彼は品のいい顔立ちをしているし、物腰も落ち着いていて、知性も高い。
――DNA鑑定をして。もし本当に、龍斗が鷹宮家の子供だったら。
経済的に困難な状況にある槙田家にいるより、彼の人生は選択肢が多く広がるだろう。
そのほうが、きっと龍斗のためにもいい。
――でも。
(言い方をひとつ間違えると。りゅうくんの心を大きく傷つけることになる)
ちえりは知っていた。
龍斗が、心のどこかで自分自身を、疫病神だと思っているところがあるということを。
母親から虐待を受けていた過去。
ちえりの家に引き取られた後、ちえりの家が破滅に陥ったという事実。
実際、それは龍斗自身には全く責任も関係もない出来事なのだが、どこかで彼は『自分が関わったことでみんな不幸になる』と思い込んでいる節があるのだ。
(今回のことを、厄介払いみたいなとらわれ方はしたくない。私は、りゅうくんが一番幸せになれる道を選んでほしいだけだもの)
大切に育ててきた子だからこそ――幸せになってほしい。
ちえりはかつて、自分が龍斗の未来に抱いた夢をもう一度思い描いた。
龍斗が素敵な女性と出会って、幸せになる未来。
彼を愛してくれる相手と結婚して、みんなから祝福される未来。
生まれてきた可愛い赤ちゃんを、母のような姉のような気持ちで、自分が抱き上げている未来……。
もし、本当に龍斗が名家の血を引く子供だったら。
もし、彼がその家に引き取られていくことになったら。
ちえりが見たかったその未来を、見ることは適わないだろう。
――でも。
(私の目の見えるところでなくてもいい。りゅうくんが幸せになれるなら)
それが自分の、一番の幸せなのだ。
そう思ったちえりは橘から聞いた話を家に持ち帰って、慎重に――あくまでも龍斗の将来のためで、龍斗を邪魔に思っているわけではないのだ――ということが伝わるように、じっくりと本人に話をした。
◇
――数週間後。
DNA検査の結果、龍斗が間違いなく鷹宮家の子供であることが証明された。
それから、ひと悶着――いや、さん悶着くらいあったあれこれの後。
龍斗は結局、鷹宮家に引き取られることとなった。
「……ちえり。必ず、迎えに来るから」
だからそれまで、結婚しないで待っててね――。
そう言った龍斗の言葉の、真の意味を受け止めきれないまま。
ちえりはただ、泣くのを我慢しながら黙って見送ることしかできなかった。
◇
龍斗がいなくなった槙田家は火が消えてしまったかのように寂しくなり、生きる活力を失ってしまった祖母は、それから間も無く認知症を発症した。
そこからの数年間。
ちえりはひとりで、祖母の介護に明け暮れることとなる。




