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第38話 【前世編】槙田ちえり③



 ――お金が無いなりにも日々は過ぎていく。


 中学3年生になった龍斗りゅうとは高校受験を前に、槙田まきた家の経済状況を気にしたのか「僕は高校には行かない。中学を卒業したら働く」とちえりと祖母に宣言した。


「りゅうちゃん、高校には行かないって……。お金のことを気にしているの?」

「…………」


 祖母の言葉に、龍斗はぐっと唇を噛み締めながら沈黙で返す。

 それこそが無言の肯定になっていることはちえりにも祖母にも理解できた。

 祖母は龍斗の反応を見ると、どうすればいいのかとちえりを見る。

 この祖母は――、根っからの良い人なのだけれど、箱入りのお嬢様なのだ。

 祖父が家を切り盛りしていた頃はお金のことで苦労したことなどなかったし、今の貧しい状況になってからも、お金の算段などは全てちえりがしてきた。


 だから、今みたいにお金がらみで困り事が起こった時は、彼女は全てちえりに任せきりになる。


 そのことを、ちえりは別に不満には思っていない。

 むしろこれまでずっとお嬢様育ちできたにも関わらず、この貧しい境遇に不満を漏らすことなく、常に家の雰囲気が明るくなるよう気を配ってくれた祖母に感謝しているくらいだ。

 

 ちえりはそんな祖母の視線を受けると、ちゃぶ台を挟んで向かい合う龍斗に小さく息を吸ってから言葉を口にした。


「……りゅうくんが、そういうことを言い出す可能性は考えてた」


 この家の経済状況を気にして、新しい洋服を買うことにさえ抵抗感を示していた子なのだ。

 高校に進学しないと言い出すだろうことは、容易に想像ができていた。


「気持ちはありがたいと思ってる。でも今はそういう時代じゃない。だから、勉強や学校が嫌いじゃないなら、せめて高校までは行ってほしいっていうのが私の希望」


 そう言いながら、ちえりは書類を入れている引き出しの奥にしまっていた一枚のチラシを出し、龍斗の前に差し出す。


 そこには――『高等学校等就学支援金制度』と書かれていた。


「事前にちゃんと調べておいたの。今はね、高校に通いたい子供がちゃんと勉強できるよう、国もちゃんと支援してくれるようになってる」


 ちえりがそっと差し出してきた紙を、龍斗は微かな動揺を滲ませたまま凝視する。


「……本音を言うとね、私はりゅうくんが無理に中卒で働いて恩返しをしようとしてくれるより、ちゃんと高校に進学して、大学にも入って、ちゃんとした企業に勤めて、立派な大人になったところを見せてくれる方がずっと嬉しい」


 押し付けるでもなく、あくまでも淡々とちえりは告げる。

 それは、ちえりの希望であって龍斗の希望ではないからだ。

 龍斗が心から高校進学が嫌で、本当に行きたくないというのならば無理強いしない気持ちはある。


 けれど、毎日龍斗と暮らし、彼の中学校生活を見てきたちえりは、決して彼が学校や勉強を嫌いなわけではないということをわかっていた。


「私だって、高校はちゃんと行かせてもらえたし。……りゅうくんみたいに友達がたくさんできたわけでもなかったけど、それでも行ってよかったと思ってる。高校生の時間っていうのはね、終わってみて思うけど、『ああ、行っておけばよかったなあ』と思って戻れるものじゃないんだよ」

「………………」

「それと、これは私の単なる願望だけど。私はやっぱり、りゅうくんが高校の制服を着て、男子高校生をしてるのが見たいな」


 最後の最後に、ようやくちえりがやんわりと笑顔を見せながら、龍斗に向かってそう言うと。

 目の前の少年の、膝の上で握りしめていた拳の上に、ぽたりと一粒の滴が落ちたのが視界の片隅に映った。


 ぽたり、ぽたりと。

 俯いた少年の顔から、手の甲や膝の上に、点々と水滴が落ちてゆく。


 やがて、込み上げる嗚咽おえつこらえるのに必死で、言葉を発することができなくなった龍斗が微かにこくりと頷いて見せたのを見て、ちえりはほっとしながら目の前の弟のような彼の肩を優しく撫でた。


 この時ちえりがどれほど安堵したか、一体誰にわかるだろう。

 

(……よかった。こんないい子が、こんなに我慢ばかりの人生を送らされるなんて、あったらダメだよ)


 初めて自分たちの前で大っぴらに涙を流した龍斗の肩を撫でながら、ちえりは心からそう思う。


 しかし――そんなちえり自身も、本来であれば誰か大人にそう言われるべき存在であるということを、彼女は思いもしないのだ。






 それから――半年余りが経ち。


 狭苦せまくるしい槙田家の戸棚の上には、『入学式』とでかでかと書かれた立て看板の前で3人で並ぶ家族写真が飾られるようになった。

 ちえりがそれを飾る時、密かに泣きそうになったことは他の家族には秘密だ。


 今朝も、家族の誰より早く起きたちえりは、自分と龍斗の分のお弁当を作るために身支度をして台所に立つ。


 貧しいけれど穏やかで暖かい時間が、そこには確かに流れていた。

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