第36話 【前世編】槙田ちえり①
とろとろと意識が闇に沈んでいく中で、チェリエは過去の夢を見た。
それは、チェリエ・マーキュリーとしての過去ではなく、
さらに前の――槙田ちえりとしての記憶だ。
◇◆◇
「ほら、槙田さんよ。学年一位の……」
「ひょー、美人だけど、隙がなさすぎてなあ……」
「お家もなんか、会社やっててお嬢なんでしょ。話合わなそうよね……」
高校の廊下を楚々と歩く少女に向かって、周囲がひそひそと囁き合う。
チェリエの前世、槙田ちえりは、もともとは裕福な家庭の子供だった。
成績優秀、容姿端麗、運動神経もまあそこそこというところに愛想のなさが加わって、中学・高校と、本人の望まぬままに孤高の存在として扱われるようになっていた。
しかし真実は、本人は友達が欲しかったけれどどうやって作れば良いのかわからないだけで、いいとこのお嬢なんて言われてはいたけど経営が下手すぎる父のせいでもはや会社も火の車。
かろうじて立派な家だけは残されていたが、それ以外は他のクラスメイトとなんら変わらない、なんならそれよりも経済状況がひどい有様。
そんな槙田家で、ちえりは祖母と二人、なんとかして会社を立て直そうとしている父を支えながら、慎ましく暮らしていたのだった。
そこにもう一人異分子が加わったのが、ちえりが17歳、高校二年生の時だ。
◇
「父さんの知り合いの息子さんでな、龍斗(《《りゅうと》》)くんって言うんだ。確か――11歳だったよね? しばらくうちで預かることになったから。ほら、龍斗くん、挨拶できる?」
「………………」
父に挨拶を促された龍斗という少年は、暗い表情で言葉を発することなく、それでもぺこりとちえりと祖母に向かって申し訳程度に頭を下げた。
痩せてガリガリで、着ているTシャツの隙間からはみ出て見える紫色の痣からは、彼が前の家でどんな扱いを受けていたのかが容易に想像できる。
おそらく、食事もまともに与えられず、ことあるごとに暴力を振るわれる生活を送ってきたのだろう。
一体、父の『知り合い』という人がどうして子供にそんな仕打ちをするのかは全くわからなかったが、少なくともこの子供を保護するという意味で父がこの家に受け入れようとしていることだけはわかった。
しかしそうは言っても、受け入れる側の槙田家にもそんな子供一人受け入れられるほどのゆとりがあるわけではない。
(お父さんは本当に良い人なんだけど。自分が引き受けられることとそうじゃないことの線引きが、ものすごく下手なのよね……)
そうは思いながらも、ちえり自身もちえりの祖母も、突然父が連れてきた厄介者を邪険にすることなく、人当たりの良い祖母に至っては初対面の少年に膝を折って彼に歩み寄る姿勢を見せた。
「こんにちは、龍斗くん。私のことは『おばあちゃん』でも『りえばあちゃん』でも好きに呼んでね。それからこの子はちえり。私の孫よ。この子のことも、あなたのお姉ちゃんだと思っていいんだからね。ね? ちえり」
「うん」
口下手な孫に変わって祖母がにこにことちえりを紹介すると、ちえりは祖母の言葉に同意するように自分もしゃがんで龍斗にぺこりと頭を下げた。
「………………」
虚ろなままの龍斗の瞳は誰を映すこともなく、そんな龍斗の様子に、ちえりは『随分と感情の起伏の薄い子だな』と思ったけれど、それについては自分だって大差ないと思っていたので、あまり気に留めることもなかった。
◇
この槙田家において、ほとんど全ての家事を担っているのはちえりであった。
少し前までは祖母が一手に担っていたが、数年前に膝を悪くしてから重労働になる仕事はほとんどちえりがやるようになったのだ。
そのことに対してこれまで、ちえりは良いとも悪いとも思ったことはない。
しかし、ことその時に限って『家事をやっていて良かったな』と思ったのは、家のあれこれをする中で、この新しくきた男の子と自然に接点を取ることができたからだった。
「りゅうとくん、晩御飯作るけど、嫌いなものある?」
「りゅうとくん、お風呂沸いたけど、一人で入れる?」
「りゅうとくん、お買い物に行くけど、何か欲しいものある?」
反応がある時もあれば、ない時もある。
それでも、生活の中で接点が増えることで、この少年のことも少しずつわかってくる。
――クッキーが好きなこと。
高校の調理実習で型抜きクッキーを作ったので持ち帰っておやつにあげたら、ものすごく気に入ったようで大切にちびちびと食べていた。
「気に入ったの?」とちえりが尋ねたら龍斗が無言でこくりと頷いたのが可愛くて、その後も少ない家計をやりくりしながらも何度も作ってあげた。
――シャンプーとコンディショナーを使ったことがない。
お風呂場の使い方を説明した時に、シャンプーとコンディショナーの話をしたらキョトンとされたのを見て、この子は石鹸で体を洗ったことしかないのだと知った。
それから、シャンプーとコンディショナーの使い方を教えてあげて、ついでにドライヤーも使ったことがないと言うのでドライヤーもかけてあげたら、びっくりするくらい髪がふわふわになった。
髪がさらさらになると――、今度は整えられずにやたらと長い髪の毛が気になりだす。
本当は美容室に連れて行ってあげられたら良いのだろうが、そんな経済的余裕は槙田家にはない。
なので、
「りゅうとくん、髪の毛、邪魔じゃない? 切ってあげようか?」
と言って、素人ながらに色素の薄いさらさらとした髪をしゃきしゃきとを切ってあげると――その下からは、驚くほど整った美少年の顔が出てきた。




