第7話「試験と鐘」①
まぶたの奥に柔らかな光が差し込む。
うっすら目を開けると、枕元に腰掛けたセナ君が、髪をそっと撫でている。
「ごめん、今日は朝から撮影で」
「……行っちゃうの?」
その声が、眠気と寂しさの境界線を揺らす。
思わずそう言うと、小さく笑って……
「試験終わったら、また会えるだろ」
「……うそ。言ってみただけ」
「サンドイッチとハーブティー、テーブルに置いてあるから食べて」
そう言って、額に短く口づける。
立ち上がる直前、もう一度振り返って……
「頑張れよ」
胸の奥がじんわり温かくなる。
昨夜の温もりが、まだ指先に残っていた。
……二次試験まで、あと少し。
セナ君の誕生日と卒業式……
一瞬だけ、勉強もピアノも忘れて、彼と同じ空気を吸っていた気がする。
でも、カレンダーが一枚めくれるたび、その距離は少しずつ現実に引き戻されていった。
毎日が机と鍵盤の前。
楽典の問題集を解き、英語の長文を訳し、作曲の課題を詰めていく。
夜が更けても終わらない日もあって、そんな時はセナ君から届く「寝ろよ」の短いメッセージだけが、小さな救いになった。
二月下旬……一次試験当日。
会場の空気は張り詰めていて、鉛筆の音さえ鼓動に混じって聞こえる。
国語も英語も、書き終えるまであっという間だったのに、専門試験の五線譜を前にした瞬間だけは、世界が自分一人になったようだった。
試験が終わっても緊張は抜けず、結果が出るまでの数日間は、呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうだった。
そして……三月上旬、二次試験の前日。
提出済みの課題作品と、副科ピアノの自由曲を舞台で演奏する日が、とうとう目の前まで来た。
深呼吸をひとつ。
響きに身を委ねれば、あとはただ……この一年間のすべてを音に込めるだけ。
控室の扉を開けると、数人の受験生が鏡の前で髪を整えていた。
空いている椅子に荷物を置き、鞄からハンガーにかけたドレスをそっと取り出す。
ママが用意してくれた、深いネイビーのロングドレス。
柔らかな生地は舞台の照明を受けると、わずかに光沢を帯びる。
「どんな場でも上品に見えるから」と迷わず決めたらしい。
鏡越しに広がる裾を見た瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
袖を通し、背中のファスナーを上げると、空気が少し変わる。
髪をまとめ直し、セナ君がプレゼントしてくれたピアスとネックレスを身につける。
口紅を塗ろうとすると、手が少し震えていた。
深呼吸をして、色をのせる。
楽譜を胸に抱き、係員に案内されて舞台袖へ。
廊下の奥から、すでに演奏が始まっている音が流れてきて、歩幅が自然と小さくなる。
舞台袖に入った瞬間、ピアノの音が全身を包む。
次は私の番。
深呼吸をひとつ。
一年間の全部を、この指先に込める準備は、もうできている。
舞台袖に立つと、照明の熱と、客席に満ちる静寂が背中を押す。
客席にはママ、そして……セナ君のお母さんと妹さんの姿もあった。
前の受験生が技巧的な曲を終えると、小さな拍手。
やっぱりみんな上手い。
でも……私は、私の音を弾くだけ。
舞台中央の椅子に腰を下ろし、深く息を吸う。
セナ君が11歳の私を見つけてくれた時、きっとこれを聴いていたんだよね。
あの頃の私は必死で、椅子が少し高くてペダルに足がやっと届くくらいで。
年上ばかりの発表会で、場違いだと思っていた。
心臓の鼓動まで聞こえるほどの静けさ。
最初の和音……低く重い鐘の音が、ホール全体を震わせた。
空気が変わったのが、自分でもわかる。
冷たい冬の空気の中で、鐘の音が広がっていく……
低音が大地を踏み鳴らすように響き、高音が澄んだ空を切り裂く。
この曲はただ大きな音を鳴らすだけじゃない。
音の重さ、温度、響きの消え際……すべてを意志でコントロールする。
聴いて。これは、私にしか描けない景色
※本作はシリーズ作品です。
1巻から通して読んでいただくことで、登場人物たちの心情や関係性の変化がより伝わる構成になっています。
よろしければ、シリーズ一覧もあわせてご覧ください。
https://ncode.syosetu.com/s5099j/
ブックマーク、☆☆☆☆☆、リアクション
よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




