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プリズムの向こう側

作者: 月野 理緒

美術室の空気は、いつも絵の具と木の匂いがする。


私、森川結衣は、その匂いの中で静かに筆を動かすのが好きだった。窓際の席で、誰にも邪魔されずに、ただ自分のキャンバスに向き合う。それが私の居場所だった。


「結衣ちゃん、今日も暗い絵描いてるね!」


その声が聞こえた瞬間、私の手が止まる。


椎名明里。美術部の部長で、いつも周りに人がいて、いつも笑っていて、いつも騒がしい。私とは正反対の人。


「暗くない」


私は小さく答える。明里は私の後ろに立って、キャンバスを覗き込んでいる。


「でもさ、もっと自由に描いたらどう? ほら、色ももっと明るくしてさ」


自由。


その言葉の意味が、私には分からなかった。


「自由って何?」


そう聞き返すと、明里は少し驚いたような顔をした。それから、いつもの笑顔に戻って言う。


「うーん、難しいこと聞くね。まあ、自分の好きなように描くってことかな!」


好きなように。


私は今だって好きなように描いている。静かに、丁寧に、間違えないように。それが私のやり方だ。


「私はこれでいい」


明里は「そっか」とだけ言って、自分の席に戻っていった。彼女の机の周りには、いつものように何人かの部員が集まって、賑やかに話している。


私は再び筆を取る。


明里の絵は、いつも大胆で、色が激しくて、何を描いているのかよく分からない。抽象画、と彼女は言う。でも私には、ただ好き勝手に色を塗っているだけにしか見えなかった。


逆に、明里は私の絵を「暗い」と言う。


暗くない。ただ、丁寧に影を描いているだけだ。光があるところには影がある。それは当たり前のことで、私はそれを正確に描きたいだけ。


放課後、部活が終わって美術室を出る時、明里と廊下ですれ違った。


「またね、結衣ちゃん!」


明るい声で挨拶される。私は小さく会釈するだけで、何も言えなかった。


明里はいつも周りに人がいて、いつも笑っていて、いつも何かを話している。私にはそれができない。人と話すのは苦手だし、何を話していいか分からない。


だから、美術室では絵だけを描いていたい。


でも、明里がいると、なぜか落ち着かない。彼女の笑い声が聞こえると、私の手元が狂う気がする。


うるさいな、と思う。


きっと向こうも、私のことを「暗いな」と思っているんだろう。


それでいい。私たちは、きっと分かり合えない。


---


「はい、じゃあ文化祭の展示、今年は森川さんと椎名さんに任せます」


顧問の先生の言葉に、教室の空気が一瞬止まった。


「え、私と結衣ちゃん?」


明里も驚いた様子で聞き返す。


「そう。二人とも技術はあるし、作風も全然違う。対照的な二人だからこそ、面白い展示ができると思うんだよね」


先生はそう言って、にこにこと笑っている。


「テーマは『色と形の対話』。二人で共同制作してみてください」


共同制作。


私と、椎名さんが。


「先生、でも私、共同制作とか向いてないと思うんですけど...」


声が小さくて、最後まで言えたかわからない。先生は首を横に振る。


「大丈夫。森川さんなら素敵な作品ができるよ。それに、部長の椎名さんがサポートしてくれるから」


明里は「任せてください!」と元気よく答えた。


私は何も言えなかった。


部会が終わると、明里が私のところに来た。


「じゃあ結衣ちゃん、明日から打ち合わせしよっか。放課後、美術室で」


「...うん」


頷くことしかできなかった。


その夜、布団の中で、ずっとそのことを考えていた。


椎名さんと一緒に絵を描く。


想像できなかった。彼女は自由に、大胆に描く。私は丁寧に、正確に描く。どうやって一緒に作品を作ればいいのか、全く分からない。


でも、断ることもできなかった。部員としての責任がある。


翌日の放課後、美術室に行くと、明里はもう来ていた。


「結衣ちゃん、来た来た! じゃあ早速、どんな感じにするか考えよっか」


明里はスケッチブックを広げて、何か描き始める。私はその隣に座った。


「『色と形の対話』かあ。うーん、抽象と具象を組み合わせるとか?」


「...分からない」


「そっか」


明里の手が止まる。少し困ったような顔をしている。


「じゃあ、お互いの絵の特徴を...」


「私の絵は...具象で、写実的で...」


言葉が続かない。


「それだけ」


明里は「うん」とだけ言った。それから、「じゃあ私が先に描いてみるね」と言って、スケッチブックに何か描き始めた。


大胆な線。鮮やかな色。


やっぱり私には理解できない。


「どう?」


「...分からない」


正直に答えると、明里は「そっか」とだけ言った。それ以上何も聞いてこなかった。


その日の打ち合わせは、ほとんど進まなかった。


帰り際、明里が言った。


「ま、焦らなくていいよ。ゆっくり考えよ」


私は頷いた。でも、心の中では思っていた。


これは、無理かもしれない。


---


次の日も、その次の日も、私たちの打ち合わせは進まなかった。


私は自分のアイデアを言葉にできないし、明里のアイデアは私には理解できない。


三日目の放課後、私は思い切って言った。


「ごめんなさい、やっぱり私...」


「あ、待って」


明里が言葉を遮った。


「一回さ、お互いの絵、じっくり見てみない?」


「え?」


「説明とかじゃなくて、ただ見る。それでいいから」


明里はそう言って、私のスケッチブックを取った。私は椎名さんのスケッチブックを受け取る。


沈黙。


明里は私の下絵をじっと見ている。私も椎名さんの抽象画を見る。


何分経ったんだろう。


「...すごく丁寧だね」


明里がぽつりと言った。


「線が、すごく繊細」


褒められているのか、よく分からなかった。でも、明里の声は真剣だった。


「私、こういうの描けない」


そう言って、明里は自分のスケッチブックを見た。確かに、線が荒くて、何度も修正した跡がある。


「いつも勢いで描いちゃうから」


その言葉に、少し驚いた。


椎名さんも、悩んでいたんだ。


「でも、結衣ちゃんの下絵見てたら...なんか、私ももっと丁寧に描きたくなった」


私は明里を見た。


「...本当に?」


「うん」


それから、少しずつ、何かが変わり始めた。


四日目。明里は私のペースを待ってくれるようになった。急かさないし、無理に話しかけてこない。


「ここ、もう少し影を濃くしたい」


私がそう言うと、明里は「いいね」と答える。


「じゃあ私は、その周りに色を足してみるよ」


私が影を描き、明里が色を足す。


言葉は少なかった。でも、なんとなく、形ができてきた。


一週間が過ぎた頃、ふとしたことで、私は夕方の美術室に忘れ物を取りに戻った。


扉を開けると、明里が一人でキャンバスの前に座っていた。


「あ、結衣ちゃん」


驚いたような顔をしたけれど、すぐにいつもの笑顔になった。


「忘れ物?」


「うん」


私は自分の席に行って、筆箱を取る。でも、帰ろうとして、ふと明里の方を見た。


明里は、キャンバスの前で、じっと色を見つめていた。


いつもの賑やかな明里ではなく、真剣な顔をしている。


手元には、何十本もの絵の具のチューブが並んでいて、パレットには微妙に違う色が混ぜられていた。


「この色、もう少し暖かくしたいんだけど...」


独り言のようにつぶやいて、また色を混ぜ始める。


私は、その姿をしばらく見ていた。


明里は、適当に色を塗っているわけじゃなかった。


ちゃんと考えて、悩んで、選んでいた。


「結衣ちゃん、この色どう思う?」


明里が振り向いて聞いてきた。パレットを見せてくる。


「...少しだけオレンジを足したら、暖かくなると思う」


明里の目が輝いた。


「そうだ! ありがとう!」


明里はオレンジの絵の具を少しだけ混ぜて、色を作った。


「完璧! さすが結衣ちゃん」


褒められて、少し恥ずかしかった。


でも、それよりも、私は思った。


ああ、この人も、ちゃんとやってるんだ。


---


共同制作も二週間を過ぎた頃、私は大きな失敗をした。


キャンバスの中心部分、一番大事なところで、絵の具を垂らしてしまったのだ。


「あ...」


言葉にならなかった。


せっかく丁寧に描いた影の部分を汚してしまった。


筆を置いて、ただ呆然とキャンバスを見つめる。


どうしよう。


やり直さなきゃ。


息が、上手く吸えなくなった。


「結衣ちゃん、どうしたの?」


明里が隣に来て、キャンバスを見た。


「...失敗した」


声が震えていた。


明里は少しの間、黙ってキャンバスを見つめていた。私は謝らなきゃいけないと思った。共同制作なのに、私が台無しにしてしまった。


「ごめんなさい、私が...」


「待って」


明里は筆を取った。


「これ、むしろ...」


明里の筆が、垂れた絵の具の周りを撫でる。別の色を足していく。


「...いいかも」


「え?」


「ほら、周り調整すれば...」


明里の筆が動くたびに、失敗した部分が、作品の一部に変わっていく。


私はただ、明里の手元を見ていた。


「あのね」


明里が急に言った。


「私も昔、風景とか描いてたんだ」


「...え?」


「小学生の頃。でも、どうしても上手く描けなくて」


明里の手が止まる。


「写実的に描こうとすればするほど、何か違う気がして」


少し寂しそうな声だった。


「それで抽象画を描くようになった。『正解』がないから、失敗もないって思った」


「でもね」


明里は私の方を向いた。


「あなたの絵見てて...また描きたくなった。昔やってたやつ」


私は、何も言えなかった。


「だからさ、失敗しても大丈夫。私たち、一緒に描いてるんだから」


その言葉を聞いた瞬間、喉の奥が熱くなった。


「私も」


私は、初めて本音を言った。


「私も、椎名さんみたいに...自由に描いてみたい」


明里は驚いたような顔をして、それから、いつもより優しい笑顔を見せた。


「一緒にやろ」


その日から、私たちの共同制作は変わった気がした。


私が丁寧に形を作り、明里が自由に色を足す。


私が影を描き、明里が光を作る。


言葉は少なかった。でも、筆を通じて、私たちは会話していた。


ある日、明里がぽつりと言った。


「結衣ちゃんと一緒にいると楽しい」


心臓が、大きく跳ねた。


「私も」


小さな声だったけれど、ちゃんと届いたと思う。


明里は嬉しそうに笑った。


---


文化祭まで、あと一週間。


共同制作の絵は、ほぼ完成に近づいていた。


私の繊細な線と影。明里の大胆な色彩。二つが混ざり合って、今まで見たことのない作品になっていた。


文化祭前夜、私たちは美術室に残って、最後の仕上げをしていた。


もう夜の七時を回っていて、校舎は静かだった。


「そろそろ完成かな」


明里が筆を置いて、キャンバスから少し離れて見る。私もそれに倣った。


私たちの絵。


タイトルは、まだ決まっていなかった。


「何て名前にしようか」


「...分からない」


正直に答える。この絵が何を表しているのか、まだ言葉にできていなかった。


「じゃあ、後で考えよっか」


明里は床に座り込んだ。私もその隣に座る。


しばらく、二人とも黙っていた。


美術室の窓から、夜の校庭が見える。誰もいない静かな景色。


「ねえ、結衣ちゃん」


「...うん」


「私ね、小学生の頃、友達いなかったんだ」


私は明里の方を見た。でも、明里は窓の外を見たままだった。


「絵ばっかり描いてて、周りと話が合わなくて。休み時間も一人で絵を描いてた」


明里の声は、いつもより小さかった。


「中学に上がる時、決めたの。もっと明るくしようって。もっと人と話そうって」


「だから、無理に笑って、無理に話しかけて」


明里は少し笑った。でも、寂しそうな笑い方だった。


「でもね、本当の自分を見せるのは、ずっと怖かった」


私は、何も言えなかった。


「結衣ちゃんは、自分に正直に描いてる」


椎名さんが私の方を向いた。


「それが...」


言葉が途切れる。


「羨ましかった」


私の目に、涙が浮かんでいた。なぜかは分からない。でも、止められなかった。


「私も」


私は言った。


「私も、人と話すのが苦手で。何を話していいか分からなくて」


「ずっと、一人でいた方が楽だって思ってた」


声が震えていた。


「でも、椎名さんといると」


上手く言えない。でも、言いたかった。


「話さなくてもいいって思える」


明里は、優しく笑った。


「私も、結衣ちゃんといると、無理しなくていいって思える」


私の頬を、涙が流れ落ちた。


悲しいわけじゃない。


ただ、何かが溢れていた。


「ありがとう」


明里が言った。


「こちらこそ」


私も言った。


その夜、私たちは絵のタイトルを決めた。


「プリズムの向こう側」


言葉がなくても、色が語る。


私たちの物語を。


---


文化祭当日。


美術部の展示室には、たくさんの人が来てくれた。


私たちの共同制作「プリズムの向こう側」は、展示室の中央に飾られていた。


多くの人が足を止めて、その絵を見ていた。


「すごい...」


「二人で描いたの?」


「全然違うタイプの絵なのに、調和してる」


そんな声が聞こえてくる。


私は展示室の隅で、その様子を見ていた。


明里は受付で、来場者に説明をしている。いつもの明るい笑顔で、楽しそうに話していた。


でも、時々、私の方を見て、微笑んでくれる。


その笑顔は、他の人に見せる笑顔とは違う気がした。


文化祭が終わって、片付けをしている時、明里が言った。


「結衣ちゃん、ちょっといい?」


私たちは、展示室を出て、屋上に行った。


夕暮れの空が、オレンジ色に染まっていた。


「あのね」


明里が口を開く。


「進路のこと、考えてるんだ」


私は黙って聞いていた。


「県外の美大に行こうかなって。そこ、抽象画で有名な教授がいるんだよね」


ああ、と思った。


明里は、ここにはいなくなるんだ。


寂しい、と思った。


「そっか」


私はそれだけ言った。


明里は空を見上げる。


「一緒に絵を描けて、嬉しかった」


「また」


私は言った。自分でも驚くくらい、はっきりと。


「また明里と、一緒に描きたい」


「うん」


椎名さんは照れたように笑った。


「また一緒に描こう」


---


それから数日後、私たちは美術室にいた。


共同制作は終わったけれど、それぞれの作品を描いていた。


私は静かに風景画を描き、明里は賑やかに抽象画を描く。


でも、時々、お互いの絵を見せ合う。


「ここ、もう少し明るくしてみたら?」


「うん、やってみる」


言葉は少ない。でも、それでいい。


私たちには、言葉がなくても伝わるものがあるから。


窓の外では、秋の風が吹いていた。


明里が、ふと筆を置いて言った。


「結衣の絵、前より明るくなったね」


「そう?」


「うん。光が増えた」


私は自分のキャンバスを見た。


確かに、以前よりも明るい色を使っている気がする。


「明里の影響かな」


「かもね」


明里は嬉しそうに笑った。


「私も、結衣の影響で、形を意識するようになったよ」


互いに影響を与え合っている。


それが嬉しかった。


美術室の時計が、五時を指す。


「そろそろ帰ろっか」


明里が言った。


私たちは筆を洗って、片付けをする。


帰り道、校門まで一緒に歩いた。


「じゃあね」


「うん」


いつもの挨拶。


でも、以前とは違う。


「また明日」


私の方から言った。


明里は少し驚いたような顔をしてから、笑った。


「うん、また明日」


秋の空は高くて、雲が流れていた。


私は、その空を見上げながら思った。


これから、どんな色を描こうか。


どんな形を作ろうか。


答えは、まだ出ない。


でも、それでいい。

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