8.水晶の、血球
儀式が、始まる。
私は、そのテーブルの中心へと、再び、向かう。そして、冷凍標本庫の扉を、静かに、開いた。白い冷気が、私の足元に、霧のように、まとわりつく。
その中から、新しい「命」を、一つ、取り出す。
指先に伝わるのは、液体の、確かな揺らぎ。けれど、私の魂が感じているのは、一瞬の揺らぎさえ許さない、絶対零度の静止。この、矛盾こそが、儀式の始まりを告げる、唯一の鍵なのだ。
冷たい、ガラスの瓶。その内部に、加圧され、仮死状態となった、無数の、気体の魂。
テーブルの上、あの、薄玻璃のグラスが、まるで、輸血を待つ患者のように、静かに、横たわっている。
私は、そのグラスを、そっと、起こした。
そして、瓶の蓋を、捻る。
カシュ、と。世界が、再び、生まれる。
私は、グラスを、僅かに、傾けた。
その、冷たく、滑らかな内壁を、滑らせるように、ゆっくりと、液体を注いでいく。化学者が、不安定な物質を、一滴、一滴、調合するように。乱暴に注げば、あまりに多くの魂が、その誕生の瞬間に、無駄死にしてしまうことを、私は、知っているから。
液体が、グラスを満たしていく。
すると、底から、無数の気泡が、一斉に、生まれる。
ガラスの血管の中を、光の速さで駆け上っていく、水晶の血球。
忘れ去られた記憶の保管場所から、私へと、メッセージを届けようとする、無数の、銀色の使者。
その、あまりにも儚い、一瞬の、生命の奔流。
私は、そのグラスを、手に取った。
けれど、その縁を、自らの唇へと運ぶことは、決して、ない。
私は、その、冷たく、濡れたガラスの肌を、自らの、耳へと、そっと、押し当てた。
目を、閉じる。
そして、聴く。
シュワ……、と。
サァァ……、と。
その、微かで、しかし、途切れることのない、持続音。
それは、記憶という名の、死んだ星から、今、この瞬間に、私の元へと届いた、光の残響。
その、水晶の血球たちが、弾け、そして、死んでいく、その断末魔の囁きの中に、私は、聴くのだ。
あの夏の、蝉時雨の壁を。
彼の、少し低い、笑い声を。
そして、私の背中で、規則正しく、そして力強く、刻まれていた、彼の、心臓の音を。
この音だけが、私と、あの、永遠が確定した世界とを繋ぐ、唯一の、通信線。
この音こそが、私が、この、無菌室の中で、辛うじて、供給し続けている、彼の、そして、私の世界の、人工の心音。
やがて。
その、心音が、少しずつ、その間隔を、広げていくのが、わかった。
水晶の血球が、その数を、減らしていく。生命の奔流が、その勢いを、失っていく。
死が、近づいてくる。
私の目は、ゆっくりと、開かれた。
この心音を、絶やしては、ならない。
この世界を、死なせては、ならない。
私の視線は、再び、あの、冷凍標本庫の、重い、扉へと、向けられていた。
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