7.無菌室の、点検
この部屋は、もはや、生活を営むための場所ではない。
ここは、たった一つの、あまりにも美しく、そして、あまりにも脆い記憶の標本を、時間の風化から、そして、世界のあらゆる汚染から守るためだけに存在する、無菌室だ。
私の視線が、部屋の装置を、一つ、一つ、点検していく。
テーブルの中央には、あの夏、彼が駄菓子屋で買ってくれたものと、全く同じ型の、薄玻璃のグラス。その、僅かに青みがかった透明な器は、これから始まる儀式のために、その内側を、完璧な空虚にして、静かに、その時を待っている。
その隣には、彼が一度だけ、その名を口にした、異国の詩人の詩集が、あるページを開いたまま、置かれている。そこに印刷された言葉に、私自身は、何の意味も見出してはいない。ただ、あの日、彼が、そのページを、一瞬だけ、その指でなぞった、という事実。その、再現可能なデータだけが、この部屋では、絶対的な価値を持つ。開かれたページの、その姿は、羽を広げたまま、樹脂の中に封じ込められた、蝶の標本のようだ。
窓は、床まで届く、厚い遮光カーテンによって、外界から、完全に、隔絶されている。予測不可能な光、予測不可能な雲の形、予測不可能な、季節の移ろいを、この部屋に、一瞬たりとも、侵入させてはならない。壁に設置された空調のデジタル表示だけが、この部屋の、唯一の気候だ。摂氏二十八度。湿度、七十パーセント。あの、八月の、川沿いの、体感温度。それは、この部屋において、決して揺らぐことのない、世界の、基軸だった。
この部屋から一歩も出ない私を、誰が、恐怖からの逃避だと、嘲笑うだろうか。知らないのだ、彼らは。
外の世界は、制御不可能な、情報の奔流で、満ちている。隣の部屋から漏れ聞こえる、私の知らない音楽。道行く人の、私の知らない香水の匂い。新しく建ったビルの、私の知らない、窓の形。
それら、私が、あの日、知らなかった、全ての、新しい情報。
それらは全て、あの、完璧であるはずの記憶標本を、静かに、しかし、確実に、蝕んでいく、危険な、汚染物質なのだ。
あの日の世界の純度を、一パーセントでも、薄めてしまう、不純物なのだ。
だから、守る。この部屋を、あの日から、一歩も、動かずに。
外の世界の、新しい、情報に、触れた時の、微かな、吐き気。記憶が、薄まっていく、恐怖。その、感覚と、戦うこと。それだけが、今の、私が、生きている、唯一の、証だった。
私は、息を吸い込んだ。
空調が作り出す、あの夏の、人工の空気。
点検は、終わった。
儀式の準備は、全て、整った。
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