4.最初の、瑕
永遠、と、彼は言った。
その、声が、私の、鼓膜を、震わせた、瞬間。
耳に、突き刺さっていた、蝉時雨の、壁が、音もなく、崩れ落ちた。
彼の、背中から、伝わる、心臓の、鼓動だけが、世界の、中で、唯一、意味を持つ、音になる。
猛烈な、速度で、後方へと、溶けていたはずの、緑の、残像が、ぴたり、と、その、動きを、止めた。
彼の瞳は、まだ、私を捉えている。その、夏の光を全て溶かし込んで、その形を保った、水のように澄んだ瞳。その奥に、今、私がいる。永遠の中に、私がいる。蝉時雨の音は、もはや、耳を刺すような暴力性を失い、この、時間が停止した世界を、ただ、満たしていく、どこまでも、持続する、音の、壁へと、その姿を変えていた。欅の葉の隙間から、まだらな陽光が、彼の肩に、私の腕に、そして、私たちの間に置かれた、飲みかけのラムネ瓶の上に、降り注ぐ。私は、その光の、一つ一つの粒子の配置まで、網膜に焼き付けた。これは、いつか、思い出して懐かしむための記憶ではない。私が、この先の、意味のない余生を生きていくために、繰り返し、繰り返し、立ち返るべき、唯一の原風景。私の魂を、この幸福の絶頂に、永久に定着させる、光の定着液そのものだった。
「……行こっか」
どれほどの時間が、過ぎ去ったのか。
彼が、そう言って、静寂を破った。彼は、ゆっくりと立ち上がり、土埃のついたズボンを、手のひらで、軽く払う。そして、私に向かって、その手を、差し出した。
私は、その手を取った。
彼の、指先の、節くれだった感触。少しだけ、土でざらついた、温かい手のひら。私は、その引力に導かれるまま、立ち上がる。身体が、近づく。彼の、すぐ、目の前へ。
その、瞬間だった。
私は、息を吸い込んだ。あの、慣れ親しんだ、彼の匂いを、全身で、受け止めるために。あの、私の存在の、全ての根拠であるかのような、彼の匂いを。
けれど。
私の鼻腔を通り抜けたのは、ただ、青々とした草いきれの匂いと、川面の水の匂い、そして、それらを運び去っていく、生温かい、風の匂いだけだった。
そこにあるべきはずの、彼の匂いが、しない。
まるで、彼の身体と、私の身体との間の、ほんの僅かな空間だけが、真空地帯になってしまったかのように。
心臓の、奥の、奥。そこに、氷の針の先端が、ちくり、と、触れた。
気のせいだ。
風が、彼の匂いを、どこかへ、連れて行ってしまっただけ。
私は、かろうじて、そう、思考した。そして、その思考で、今、生まれかけた、あまりにも些細な、この亀裂を、必死に、塗り固める。
私は、彼に向かって、微笑んだ。
完璧な、夏の日の、完璧な、笑顔で。
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