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3.永遠と、碇

 私の意識は、もはや、西日の差すあの部屋にはない。


 大気を震わせる、巨大な熱量の塊。その中心に、私はいた。空には、暴力的なまでの純白を主張する入道雲が、その領土をどこまでも広げようと、ゆっくりと、しかし、確実に、その形を変え続けている。眼下には、真夏の陽光を吸い込んで飽和した、目が痛くなるほどの緑。川沿いの道に群生する、背の高い草いきれの、むせ返るような濃密な匂いが、ねっとりとした風に乗って、私の肺を満たしていく。


 耳に突き刺さる、蝉時雨の壁。それは、もはや、虫の声ではなかった。夏という季節そのものが、沸騰し、その臨界点を超えて、世界へと放っている、飽和した音の蒸気だった。


 私は、彼の背中にいた。

 風をはらんで、僅かに、膨らむ、白いワンピースの裾。その布越しに伝わる、彼の心臓の、規則正しく、そして力強い鼓動。私は、その熱と振動に、そっと、自分の額を押し当てた。

 彼が漕ぐ、錆びた自転車は、キィ、コロ、キィ、コロ、と、どこか不満げな、しかし、どこまでも正直な音を立てて、夏の軌道の上を滑っていく。彼の、少し低めの笑い声が、私の耳元で、弾けた。その笑い声の粒子が、蝉時雨の壁を突き抜け、私の鼓膜に、直接、届く。世界は、緑と青と、彼の白いTシャツの残像となって、後方へと、猛烈な速度で溶けていった。


 やがて、私たちは、大きな(けやき)の木の下で、自転車を止めた。

 降り注いでいたはずの陽光は、幾重にも重なった葉によって濾過され、私たちの肌に、まだらな、優しい光の模様を描き出す。彼は、近くの店で、瓶のラムネを二本、買ってきた。汗の浮いた首筋を、冷えた瓶で冷やしながら、私に、そのうちの一本を手渡す。

 カタ、と、彼が、ラムネ瓶の口に、付属の玉押しをあてがう。

 そして、手のひらで、ぐ、と、強く押し込んだ。

 コロコロ、と。涼やかで、どこか間の抜けた音がして、ガラス玉が、瓶のくびれた部分へと、吸い込まれていった。しゅわしゅわと、無数の気泡が、そのガラス玉の周囲で、祝福するように、踊っている。


 私たちの間に、言葉はほとんどなかった。ラムネの瓶が、時折、こつりと音を立てる。遠い川のせせらぎが、熱を帯びた空気に溶けていく。彼が、私の視線に気づいて、僅かに、笑う。それだけで、世界は、満ち足りていた。

 ただ、ラムネを飲み、額の汗を拭い、そして、目の前を、きらきらと光を反射させながら流れていく、川面を眺めていた。


 その時だった。

 不意に、彼が、私を見た。

 その瞳は、深く、澄んでいた。本当に、それだけだっただろうか。その、あまりに完璧な透明感の、その奥の奥に。ほんの一瞬、ほんの僅かだけ、彼の知らない誰かの面影や、私の知らない未来への不安が、陽炎のように揺らめき、そして、消えることはなかっただろうか。そして、彼は、まるで、今、思いついた、どうでもいいことでも言うかのように、こともなげに、こう、言った。


「永遠ってさ、たぶん今の事だよ」


 その、声が、私の、鼓膜を、震わせた、瞬間。

 耳に、突き刺さっていた、蝉時雨の、壁が、音もなく、崩れ落ちた。

 彼の、背中から、伝わる、心臓の、鼓動だけが、世界の、中で、唯一、意味を持つ、音になる。

 猛烈な、速度で、後方へと、溶けていたはずの、緑の、残像が、ぴたり、と、その、動きを、止めた。

 私は、彼の、背中で、息を、止めていた。


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