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2.記憶の、解放

 私の指先は、テーブルの上に置かれた、そのガラス瓶の表面を、ゆっくりと滑っていた。

 結露した水滴が、まるで、この部屋の澱んだ空気から身を守るための、薄い皮膚のように、瓶を覆っている。その冷たさが、私の指紋を、一つ、一つ、なぞり、その存在を証明していく。瓶の中には、加圧され、その逃げ場を失った、無数の気体の魂が、ただ、解放の時を待っている。それは、まだ、ただの水だ。まだ、何の物語も始まってはいない。


 私は、その瓶の、金属製の蓋に、そっと、手をかけた。

 指先に触れる、規則正しく並んだ、冷たい鋸歯(きょし)の感触。その鋭さが、私の意識を、現在という一点に、強く縛り付けていた。


 息を、止める。

 そして、蓋を、捻った。


 カシュ、と。


 その音は、鼓膜を震わせたのではない。私の、魂の、最も深い場所に、直接、響き渡った。

 それは、永いあいだ真空に閉ざされていた世界が、初めて大気に触れて発した、乾いた、一度きりの叫びだった。あるいは、完璧に張り詰められた絹が、その限界を超えて、自らの繊維を引き裂いた時の、悲鳴にも似た喝采。

 その、ほんの一瞬にも満たない音の破裂が、この部屋の、停滞した時間の法則を、根底から書き換えていく。


 瓶の口から、解放された二酸化炭素が、白い煙となって、儚く立ち上り、そして、消えた。


 私の視界の隅で、西日に照らされていた埃の粒子が、その輪郭を、ふっと、失った。そして、あの夏の、焼け付くような道のうえで揺らめいていた、陽炎(かげろう)の姿へと、変容していく。耳の奥で、通奏低音のように鳴り続けていたはずの冷蔵庫のモーター音は、その周波数を、遠い、しかし、肌を刺すようにクリアな、蝉時雨(せみしぐれ)の響きへと、調律し直していた。


 テーブルの上のガラス瓶の中では、底から、無数の気泡が、生まれ、そして、昇っていく。

 シュワ、という、その微かな囁き。


 それは、君が、まだ、生きている音だった。

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