10.聖地への、巡礼
私の身体は、もう、迷いなく、動いていた。
クローゼットの、一番、奥。そこに、弔うように、掛けてあった、一枚の、服。
白い、ワンピース。
あの夏、彼が、一番、好きだと言ってくれた、その、服。
私は、今、着ている、色のない、部屋着を、脱ぎ捨てた。それは、この、無菌室の中で、記憶を守るために、私が、纏っていた、作業着。その、抜け殻を、床に、残し。
私は、その、白い、衣装へと、腕を、通した。
その、久しぶりに、素肌に触れる、麻の、乾いた、ごわつく感触。それが、私に、今、自分が、この、肉体を持っているのだ、という、忘れかけていた、事実を、思い出させた。その、確かな感触だけが、これから聖別される、魂の、最後の、器の、存在証明だった。
私は、鏡を、見なかった。
そこに映るであろう、今の、私の顔は、これから、私が、なろうとしている、あの、完璧な、私、とは、違うから。
保冷バッグの中に、最後の、供物を、収めていく。
薄玻璃の、グラス。
一本の、ストロー。
そして、冷凍標本庫から、取り出した、最後の一本の、炭酸水。
それらは、もはや、儀式のための、道具では、なかった。
アパートの、ドアを、開ける。
外の、空気が、私の、肌を、刺した。
生温かく、湿り気を帯びた、様々な、匂いを含んだ、現実の、空気。
けれど、私は、もう、それを、汚染物質とは、感じなかった。
それらは、全て、私が、これから、還っていく、あの、完璧な、世界には、存在しない、ただの、取るに足らない、現象に過ぎないから。
足が、動く。
アスファルト。白い線。曲がる。見慣れた、道。
駅の、匂い。人の、声。私には、関係ない。
鉄の、箱。乗り込む。ドアが、閉まる。
窓。景色が、死んだ色で、流れていく。速い。
人の、顔。顔。顔。誰も、私を、見ていない。
ガラスが、冷たい。音は、ない。
ドアが、開く。
光。
潮の、匂いが、した。
ああ。
長い、長い、回り道の、果てに。
標本が、自らの、あるべき、始まりの場所へと、還っていく。
私の、最後の、巡礼だった。
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