1.防腐処理された、時間
この物語は、私たちの楽曲『ソーダ水、弾けた。』(3部作3週連続リリースの2作目 2025/08/01リリース)から生まれた、無数の解釈の一つ。
私たちの万華鏡が、一度だけ映し出した、儚い紋様です。
*特異な文体を採用していますが、これは表現の一つです。そのため、1000人中999人を振り落とす小説です。
午後四時の光は、もはや、夏のそれではない。粘性を失い、乾ききった橙色の光線が、部屋の床に、鋭角的な幾何学模様を落としている。その光の刃の上を、埃の粒子が、まるで、時間の流れそのものから、忘れ去られたかのように、その動きを、停止させていた。空気は、ここでは、流れない。ただ、容器の中の液体のように、沈殿し、澱み、その密度を増していくばかりだ。
テーブルの上には、薄玻璃のグラスが、一つ。その、今にも砕けそうなほど繊細な縁には、私の唇の痕が、もう、いつのものとも知れぬ、乾いた輪郭で残っている。その下には、かつてグラスが纏っていた水滴が、木目を、白く、侵食した、円形の染み。全てが、過去のある一点に固定され、防腐処理を施されたかのように、その場所と形を保ち続けていた。
私は、その風景の一部だった。
だから、意識的に、呼吸の回数を、減らしていく。私の呼気が、この部屋の完璧な均衡を乱す、唯一の不協和音だったからだ。私の心臓の鼓動は、私が聞くべき、本来の音ではなかった。だから、私は、その律動を、思考の奥へと、沈めていく。
だが、その器が、ふと、定められた刻限の到来を告げた。
壁の時計の、長針が、ある数字を指し示した。それが、合図だった。
私の身体が、私自身の意志とは無関係に、その硬直を解き、ゆっくりと、立ち上がる。それは、儀式を司る巫女が、神の憑依を受け入れるための、最初の所作だった。一歩、また一歩と、キッチンへと向かう、その足取りは、巡礼者のように、どこまでも、厳かで、揺ぎない。
冷蔵庫のドアを開ける。圧縮された冷気が、溜息のように、音もなく漏れ出した。
その内壁は、霜の結晶によって、白く、美しく、侵食されている。庫内を埋め尽くしているのは、同じ銘柄の、炭酸水が詰められたガラス瓶の軍勢。それは、もはや、ただの飲料ではない。
一つ、一つが、あの完璧だった夏の日を、その温度と、光と、湿度ごと、封じ込めた、冷凍標本。
私は、その無数の標本の中から、一つを、選び取る。
指先に、氷そのものよりも鋭利な、ガラスの冷たさが、神経を直接、焼いた。
この、確かな痛み。
この、生命を拒絶するほどの、絶対的な低温。
それだけが、これから記憶の深淵へと潜っていく、私という名の潜水艇を、現在に繋ぎとめる、唯一の命綱だった。
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ソーダ水、弾けた。
と検索すると原作となる楽曲を視聴できます。
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