独白
いつからだろう。
電車の中で、三秒以上、視線を返されなくなったのは。
誰も目を合わせない。
すれ違うとき、明らかに目線をずらす。
気づかないふりじゃない。――あれは、「見てしまった」ことの罪悪感だ。
鏡の中の私は、たしかにちょっとだけ歪んでいる。
左の頬骨が盛り上がり、右目の下がほんの少し下がっている。
それだけのこと。
でも、「ほんの少し」が、世界を切り分ける境界線になるとは、思っていなかった
医者は言った。
「日常生活には支障ありません」と。
それは彼にとっての“正常”の範囲の話だ。
私にとっては、
履歴書の写真が、
面接室に入る前のノック音が、
コンビニのアルバイトの初日の挨拶が、
すでに“支障”だった
あるとき、中学生の集団が私をすれ違いざまに笑った。
「やべえ、あれ見た?顔……」
言葉にならない言葉が、空気に引っかかって、耳の奥に残った。
反射的に拳を握った。だけど――
彼らを責められなかった。
だって、私だって、子どものころ、“見られない顔”を見たとき、瞬きして目を逸らした記憶がある。
あれは恐怖じゃない。
恐怖に似た、罪悪感だ
それ以来、私は問い続けている。
「私の顔は、誰に属しているのか?」
私か?社会か?まなざしか?
それとも、もう誰のものでもないのか?
でも、最近、少しだけ考えが変わった。
公園のベンチで、3歳くらいの子どもが私をまっすぐ見てきた。
何のバイアスもなく、真っすぐ。
そして、こう言った。
「おじさんの顔、すごいね。山みたい。」
…そのとき初めて、「この顔でもいいかもしれない」と思えた。
「山」は、見られるものだ。でも、登られることも、愛されることもある。
私の顔は山だ。
簡単に理解されないが、それでも存在している
だから今日も、この顔で歩く。
笑われてもいい。避けられてもいい。
でも、いつか誰かのまなざしの中で、
“他者ではなく、私として”
見てもらえる瞬間があるかもしれないから