第3話「現在地と未来の可能性」
都心のホテルラウンジは、落ち着いた午後の空気に包まれていた。テーブルの上には、白いカップと佐伯拓也が持参したノートが開かれている。香坂美月は、静かにカップを置きながら、彼の表情を観察した。
「こんにちは、佐伯さん。前回から少し時間が経ちましたね。」
「こんにちは、美月さん。」
佐伯は軽く頭を下げ、少し緊張した面持ちでノートをめくった。
「転職市場のリサーチと、希望する企業のリストアップをしてみたんですが……」
美月は静かに頷き、彼の言葉を待った。
「調べてみると、思った以上に『テックリード候補』としてのポジションがあることが分かりました。でも、いざ転職を考えると、本当に今の会社を辞めていいのか、また迷いが出てきてしまって……。」
彼は苦笑しながら、コーヒーを一口飲んだ。
「転職の可能性を知ったことで、逆に『このまま現職で頑張るべきなのでは?』という考えも浮かんできてしまって。」
美月は少し微笑みながら、佐伯の目を見つめた。
「それは、ごく自然なことですよ。転職を考えるとき、多くの人が一度は同じ迷いを経験します。佐伯さんの場合、迷いの原因は何だと思いますか?」
佐伯はしばらく考え込み、ゆっくりと答えた。
「多分……転職が成功する保証がないから、です。もし新しい環境が自分に合わなかったら、今より悪くなってしまうかもしれない。そう思うと、なかなか決断できなくて。」
美月は頷きながら、ナプキンの端にペンを走らせた。
「では、一緒に整理してみましょう。転職に対する不安と、現職に留まる場合のリスク、どちらが大きいのかを比較してみるのはどうでしょう?」
佐伯は少し驚いた表情で、美月が書いたメモを見つめた。
1. 転職しない場合のリスク
•会社の環境が変わらず、成長の機会が限定される可能性がある
•3年後、5年後にキャリアの選択肢が狭まるかもしれない
•今のままでは、マネジメントの経験を積めない可能性が高い
2. 転職する場合のリスク
•新しい環境に適応できるか分からない
•転職先の企業文化が自分に合わないかもしれない
•求められるスキルが高く、最初は苦労する可能性がある
佐伯はメモをじっと見つめ、少しずつ口を開いた。
「なるほど……こうやって整理すると、どちらにもリスクはあるけど、『転職しないリスク』も意外と大きいですね。」
「そうですね。特に、佐伯さんのキャリアの軸は『成長できる環境に身を置くこと』でしたよね?」
「はい。それを考えると、やはり今のままでは難しい気がします。」
美月は微笑みながら、続けた。
「では、次に『転職の成功率を上げるための準備』について考えてみましょう。転職がリスクなのは、情報が不十分だからかもしれません。どんな企業なら佐伯さんに合うのか、もう少し明確にすることで、不安を減らせるかもしれませんよ。」
佐伯は納得したように頷き、ノートをめくった。
「実は、転職サイトを見ながら、いくつか気になる企業をピックアップしてみました。」
彼はノートのリストを指し示した。
「A社:成長中のスタートアップで、テックリード候補のポジションあり。」
「B社:大手企業で、エンジニアのマネジメント研修制度が充実している。」
「C社:外資系で、開発とマネジメントを兼務できるポジション。」
美月はメモを見ながら、ゆっくりと頷いた。
「どの企業も魅力的ですね。佐伯さんがこの中で最も興味を持っているのは?」
佐伯は少し考えてから、A社を指差した。
「A社です。スタートアップで成長できそうだし、裁量も大きそうなので。」
「では、次のアクションとして、このA社についてより詳しく調べ、実際にカジュアル面談を受けてみるのはどうでしょう?」
「カジュアル面談……ですか?」
「はい。最近の転職市場では、いきなり本選考に進むのではなく、気になる企業とカジュアルな面談をして、雰囲気を確認することが一般的です。佐伯さんが転職に対する不安を解消するためにも、まずは実際の社員に話を聞くのが良いと思います。」
佐伯はしばらく考え、やがて深く頷いた。
「確かに、それならリスクを抑えつつ情報を得られますね。やってみます。」
美月は微笑みながら、最後にもう一つアドバイスを加えた。
「転職活動は、最終的には『自分がどの環境で成長できるのか』を見極めるプロセスです。企業の情報を集めることに加えて、面談を通じて『自分が働くイメージ』を持てるかどうかも大事にしてください。」
佐伯は深く息を吸い、前向きな表情で頷いた。
「ありがとうございます。次回までに、A社にコンタクトを取って、カジュアル面談を設定してみます。」
「それは素晴らしいですね。次回、その結果を一緒に整理しましょう。」
佐伯はカップを持ち上げ、ゆっくりとコーヒーを口に運んだ。
「なんだか、少しずつ道が見えてきました。」
「そうですね。一歩ずつ、着実に進めていきましょう。」
美月は穏やかに微笑みながら、静かにカップを置いた。
佐伯は、確かな手応えを感じながら、新たな一歩を踏み出す決意を固めた。