第1話「揺れるキャリアの羅針盤」
都内の高級ホテルラウンジ。午後の落ち着いた雰囲気の中、香坂美月はテーブルに置かれたカップを静かに見つめながら、クライアントを待っていた。
今日の相談者は佐伯拓也、28歳のITエンジニア。転職を考えているものの、自分が本当にやりたいことが分からず、将来に対する不安を抱えているという。
約束の時間ぴったりに、少し緊張した面持ちの男性がラウンジの入口に現れた。ビジネスカジュアルの装いで、清潔感のある短髪。目には迷いと不安の色が浮かんでいる。
「初めまして、佐伯拓也です。今日はよろしくお願いします。」
彼はテーブルの前で軽く頭を下げた。
「初めまして、香坂美月です。お会いできて嬉しいです。どうぞ、お座りください。」
佐伯は少しぎこちない動作で席に着くと、手元のグラスの水を一口飲んだ。
「では、さっそくですが、佐伯さんが今感じている悩みについて、詳しく聞かせていただけますか?」
美月の穏やかな声に促され、佐伯はゆっくりと口を開いた。
「はい……。実は、今の仕事に対して、漠然とした違和感を覚えるようになりまして……。プログラマーとして働いていますが、このままずっとコードを書いているだけでいいのか、自分のキャリアがこのままでいいのか、不安になってきたんです。」
「なるほど。今の仕事に対して、違和感を感じるようになったきっかけはありますか?」
佐伯は少し考え込むように視線を落とし、ゆっくりと言葉を選んだ。
「最近、社内でマネジメント系の仕事をしている先輩と話す機会が増えて……。その先輩はエンジニアとしての経験を活かしながら、プロジェクト全体の方向性を決めたり、チームをまとめたりしているんです。それを見て、自分もただコードを書くだけではなく、もう少し大きな視点で仕事をしたいのではないかと思い始めました。」
美月は静かに頷いた。
「その気持ちに気づいたとき、佐伯さんはどう感じましたか?」
「正直、焦りを感じました。これまで、自分はただ目の前の仕事をこなすだけで、それ以上のことはあまり考えてこなかった。でも、もしこのまま同じことを続けるだけなら、5年後、10年後にはどうなっているんだろうって……。」
佐伯の表情には、将来に対する不安が滲んでいた。
「それは大切な気づきですね。では、佐伯さんが考える『理想のキャリア』とは、どんなものだと思いますか?」
「……それが分からないんです。」
彼は困ったように苦笑した。
「エンジニアとしてスキルを磨いていく道もあるし、マネジメントに挑戦する道もある。けど、自分がどちらを選ぶべきなのか、決められなくて……。」
美月は、少し考えてから言った。
「佐伯さんが『本当にやりたいこと』を見つけるために、一つのフレームワークを使って整理してみましょう。」
「フレームワーク、ですか?」
「はい。キャリアの選択を考える際には、大きく三つの要素を整理することが重要です。それは、『得意なこと』『好きなこと』『市場のニーズ』です。」
美月はナプキンの端に軽くメモを書きながら説明を続けた。
「まず、『得意なこと』について考えましょう。佐伯さんがこれまでの仕事の中で、特に評価されたスキルや、自分でも得意だと感じることは何ですか?」
佐伯は少し考え込み、答えた。
「プログラミング自体は得意だと思います。特に、システムの設計やアーキテクチャを考えるのは好きですし、チームの他のメンバーからもよく相談を受けます。」
「素晴らしいですね。では、『好きなこと』について考えてみましょう。得意なことと重なる部分があるかもしれませんが、佐伯さんが『この作業をしているときは楽しい』と感じるのはどんなときですか?」
佐伯は少し考えた後、ゆっくりと話し始めた。
「……チームで議論しながら、どういう設計にすれば一番効率的かを考えているときが、一番楽しいかもしれません。」
美月は静かに頷いた。
「それは、ただコードを書くことよりも、もう少し広い視点で物事を考えることが楽しい、ということですね?」
「はい、たぶんそうだと思います。」
「では、最後に『市場のニーズ』について考えましょう。現在、IT業界ではどのようなスキルやポジションが求められているか、佐伯さんは何か情報を持っていますか?」
「マネジメントスキルを持つエンジニアは、どの企業でも需要があると聞きます。最近は『テックリード』とか『VPoE(Vice President of Engineering)』みたいなポジションも増えていますし。」
「それも貴重な情報ですね。つまり、佐伯さんは『システム設計が得意で、議論しながら設計を決めることが好きで、かつ市場でも需要があるポジション』に興味がある、ということになります。」
佐伯は、驚いたように目を見開いた。
「……確かに、そう言われると、自分の方向性が少し見えてきた気がします。」
「では、次のステップとして、今後の行動計画を立てましょう。たとえば、まずは現在の会社でテックリード的な役割を少しずつ経験できるよう、上司に相談するのはどうでしょう?」
佐伯は考え込み、ゆっくりと頷いた。
「それなら、すぐにでも始められそうです。まずは上司に、自分がより設計やマネジメントに関わりたいという意思を伝えてみます。」
美月は微笑んだ。
「素晴らしい決断ですね。では、次回のセッションまでに、その結果を報告してください。もし新たな課題が出てきたら、一緒に整理しましょう。」
佐伯は、少し自信を取り戻した表情で、深く頷いた。
「ありがとうございます。なんだか、少し霧が晴れたような気がします。」
「それは良かったです。佐伯さんが、自分のキャリアの軸をしっかりと見つけられるよう、引き続きサポートさせていただきますね。」
ラウンジの静かな空気の中で、佐伯は新たな一歩を踏み出す決意を固めていた。
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