第2話「アスリートとしての資産」
都心のホテルラウンジ。夕暮れ時の柔らかな光が差し込み、落ち着いた雰囲気が漂う。香坂美月は、向かいに座る村上隼人の表情を注意深く観察していた。
前回のカウンセリングの後、彼は自身の経験を振り返り、自分が人に伝えられるものを整理する時間を持ったはずだった。しかし、彼の表情には、まだ迷いが残っているように見えた。
「こんにちは、村上さん。前回、次回までにご自身の経験を整理してみるという課題をお出ししましたね。どんなことが見えてきましたか?」
村上は小さく息を吐き、カップを手に取った。
「考えてはみたんですが……正直、まだしっくりきていません。」
「なるほど。どのあたりで迷われていますか?」
「自分が何を伝えられるのか、という部分ですね。サッカーの技術の話ならできる。でも、それだけだと、指導者になるしかない。指導者としてやっていく気持ちは、まだ湧かないままです。」
美月は頷きながら、メモを取った。
「では、村上さんがこれまでに一番大変だったこと、乗り越えた経験について話してみてください。技術的なことではなく、精神的な面で。」
村上は少し考え込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「……やっぱり、プレッシャーですね。日本代表に選ばれたときもそうだったし、海外リーグに移籍したときも、期待されることがどれだけの重圧になるかを痛感しました。」
「そのプレッシャーを、どう乗り越えましたか?」
「最初は、正直、精神的に潰されそうになりました。でも、あるとき気づいたんです。プレッシャーって、自分が作り出している部分が大きいんですよね。周りの期待よりも、自分で『こうあるべきだ』って思い込んで、自分を追い込んでしまう。」
「なるほど。」
「それからは、自分のメンタルをうまくコントロールする術を学びました。試合前のルーティンを決めたり、気持ちを切り替えるための呼吸法を取り入れたり、時には開き直ることも必要だって思えるようになった。」
美月は、ペンを回しながら静かに頷いた。
「村上さん、それってすごく貴重な経験だと思いませんか?」
「え?」
「プロアスリートとして活躍した人が、プレッシャーをどう乗り越えてきたのか。その具体的な方法を知りたい人は、世の中にたくさんいます。特に、若いアスリートやスポーツをしている学生たちには、ものすごく価値のある話です。」
村上は少し考えた後、口を開いた。
「確かに、プレッシャーの話は、後輩の選手たちにもよく聞かれました。でも、それをどう活かせばいいのか分からないんですよね。」
「たとえば、講演活動はどうですか?スポーツをしている若い世代に向けて、メンタルの重要性や、プレッシャーへの向き合い方を伝える機会を作る。」
「講演……か。」
「指導者として現場に立つのではなく、アスリートのメンタルやキャリア形成に関わる形で、スポーツに貢献する道もあります。たとえば、メンタルコーチや、アスリート向けの教育プログラムを作ることもできますよ。」
村上は腕を組みながら、少し考え込んだ。
「メンタルコーチって、どういう仕事なんですか?」
「プロのメンタルコーチは、スポーツ心理学の知識を持ち、選手の精神面を支える仕事です。村上さんの場合、資格がなくても、プロの経験を基にした独自のメソッドを作ることができます。」
「なるほど……でも、俺の話にそんな価値があるのかな。」
美月は静かに微笑んだ。
「ありますよ。プロとして経験したこと、感じたことは、一般の人には想像できないものです。それを言語化できること自体に価値があります。」
村上は、少し視線を落としながら頷いた。
「……確かに、若い頃の自分が、そういう話を聞きたかったなと思います。」
「それが、今の村上さんの持っている 資産 なんです。」
美月は、ノートに「資産」という文字を書きながら続けた。
「サッカー選手としてのキャリアは終わりました。でも、その経験はこれからのキャリアの資産として活かせるものです。問題は、その資産をどう使うか。」
村上は、ゆっくりと息を吐きながら頷いた。
「……何となく、やるべきことが見えてきた気がします。」
「では、次回までにもう少し考えてみましょう。講演、メンタルトレーニング、スポーツ教育など、どの方向性が自分に合いそうかをリストアップしてみてください。」
村上は、小さく笑いながら頷いた。
「分かりました。ちょっと考えてみます。」
「楽しみにしています。」
美月は微笑みながら、村上の目を見た。彼の瞳には、前回よりもはっきりとした意志が宿っていた。




