第3話「自分の軸を取り戻す」
ホテルラウンジの落ち着いた空間に、静かにクラシック音楽が流れている。午後の柔らかな陽射しが窓際のテーブルを照らし、香坂美月はコーヒーカップを手に取りながら、目の前に座る若松玲奈を見つめた。
今日は彼女にとって、重要な節目となる日だった。
「お待たせしました。」
玲奈は、いつもより少し明るい表情で席についた。以前のような沈んだ雰囲気は薄れ、どこか落ち着きを感じさせる。
「今日はお会いするのが楽しみでした。」
彼女の第一声に、美月は微笑んだ。
「それは嬉しいですね。前回、テーマを仮決めしてリサーチを進めるという課題を設定しましたが、その後の進み具合はいかがですか?」
玲奈はカップに手を伸ばし、一口コーヒーを飲んでから、ゆっくりと答えた。
「はい、一つテーマを決めて、それに沿った論文を読み進めました。若手社員のモチベーション向上を目的としたコミュニケーション戦略についてです。」
美月は頷いた。
「とても良いですね。そのテーマに関して、どんな気づきがありましたか?」
玲奈は、少し考えてから口を開いた。
「調べていくうちに、若手社員のモチベーション低下の背景には、世代間の価値観の違いや、上司とのコミュニケーション不足が深く関係していることが分かりました。特に、フィードバックの仕方によって、部下のやる気が大きく左右されることを実証した研究がいくつかありました。」
美月は満足そうに頷いた。
「それは、玲奈さん自身の過去の経験ともリンクしていますね。会社員時代、リーダーとしてチームと関わる中で、どんなコミュニケーションの課題を感じていましたか?」
玲奈は少し表情を曇らせた。
「……私は当時、完璧な管理をしようとしていました。でも、チームメンバーの視点に立てていなかったことに気づきました。『もっとこうすべきだ』という自分の基準で指示を出し、相手のモチベーションに影響を与えることを考えていなかったんです。」
「なるほど。つまり、自分の価値観を押し付ける形になってしまい、結果としてチームの士気が下がったということですね。」
玲奈はゆっくりと頷いた。
「はい。でも、もし当時の私が、チームメンバーの考えをもっと深く理解しようとしていたら、状況は変わっていたのかもしれないと思います。」
美月は微笑みながら言った。
「まさに、そこに研究の価値がありますね。玲奈さん自身の経験と、今回のリサーチを組み合わせることで、より実践的な研究になると思いませんか?」
玲奈の目が少し輝いた。
「確かに……。理論だけではなく、実際に職場でどう活かせるかという視点を加えることで、より意味のある研究になりそうです。」
「では、次のステップとして、現場の声を集めるのはどうでしょう?若手社員や管理職へのインタビューを行うことで、さらに実践的なデータを得られるはずです。」
玲奈は一瞬、考え込んだ。
「インタビュー……やってみたいです。でも、正直、少し怖い気もします。」
美月は静かに彼女の目を見つめた。
「何が怖いと感じますか?」
玲奈は視線を落とし、しばらく沈黙した後、ため息をついた。
「……過去の失敗が蘇るんです。以前、プロジェクトで部下とコミュニケーションがうまく取れず、信頼を失った経験があるので、また同じようなことが起きるんじゃないかって。」
美月は微笑みながら、ゆっくりと頷いた。
「玲奈さん、今のあなたは、当時とは違います。あの失敗を乗り越えたからこそ、今こうして研究に取り組み、改善策を見出そうとしているんですよね?」
玲奈は驚いたような顔をした後、ゆっくりとうなずいた。
「……そうですね。確かに、あの経験があったからこそ、今こうして考えられるようになったのかもしれません。」
「失敗は過去のものではなく、今後の行動のヒントになるものです。ですから、恐れずにインタビューを実施してみてください。まずは気軽な形で、知り合いの会社員の方に話を聞くことから始めるのも良いでしょう。」
玲奈は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「分かりました。まずは小さな一歩を踏み出してみます。」
美月は微笑み、最後にもう一つアドバイスを加えた。
「もしまた不安になったら、焦らずに自分の軸を思い出してください。玲奈さんが本当にやりたいのは、失敗を恐れることではなく、より良い職場環境を作るための研究をすることですよね?」
玲奈は少し考え、やがてはっきりと頷いた。
「はい、その通りです。」
美月は満足そうに微笑み、静かにカップを置いた。
「では、次回のセッションで、インタビューの結果を聞かせてください。」
玲奈の顔には、前回までとは違う確かな自信が宿っていた。彼女は新たな一歩を踏み出す覚悟を決め、穏やかな笑顔を浮かべていた。