第2話「完璧主義との対峙」
都内の高級ホテルラウンジ。窓の外には秋の気配が漂い、木々が色づき始めている。静かなクラシック音楽が流れる中、香坂美月は目の前のコーヒーカップを手に取り、軽く息をついた。
約束の時間より少し前に、若松玲奈が姿を現した。美月は彼女の表情を注意深く観察する。前回のセッションで、玲奈は修士論文のテーマが決められず、焦りと自己嫌悪に陥っていた。テーマ選定のための文献調査という課題を出したが、その成果はどうだったのだろうか。
「お待たせしました。」
玲奈は少し息を弾ませながら席についた。服装は以前と変わらず洗練されているが、どこか疲れた様子が見て取れる。美月は微笑みながら、静かに問いかけた。
「いかがですか?前回から2週間が経ちましたが、調査は進みましたか?」
玲奈はカップに手を伸ばしたものの、飲もうとはせず、テーブルの上に目を落とした。
「……それが、思うように進められなくて。」
彼女の声には、自分を責めるようなトーンが混じっていた。
「どんなことがありましたか?」
美月は、玲奈の心がどこでつまずいているのかを探るように、優しく促した。
「論文を探して読み始めたのですが、膨大な情報に圧倒されてしまって……。どれも重要なテーマに思えてしまい、自分がどれを選ぶべきか決められないんです。」
玲奈は両手を握りしめ、小さくため息をついた。
「結局、また完璧なテーマを求めてしまっているのかもしれません。中途半端な選び方をすると、後々後悔するんじゃないかって思うと、何も決められなくなってしまって……。」
美月は静かに頷きながら、玲奈の目を見つめた。
「玲奈さんは、完璧な選択をしなければならないと感じていますか?」
玲奈は少し考え、ゆっくりと答えた。
「……はい。研究の方向性を間違えたくないんです。時間も限られているし、できるだけ最適なテーマを選びたい。」
「最適なテーマとは、どういうものでしょう?」
美月の問いに、玲奈は一瞬言葉を詰まらせた。
「えっと……研究として価値があること?それから、教授や大学の期待に応えられるもの……?」
彼女は不安そうな表情で続けた。
「でも、そう考えると、自分が本当にやりたいことが何なのか、分からなくなってしまうんです。」
美月はゆっくりとカップを置き、穏やかに微笑んだ。
「玲奈さん、その考え方こそが、選択を難しくしているのかもしれませんね。」
「え?」
玲奈は驚いたように顔を上げた。
「完璧なテーマを選ばなければならない、というプレッシャーが、逆に玲奈さんの思考を縛ってしまっているのです。」
美月は続けた。
「玲奈さんは、かつて会社でプロジェクトリーダーを務めたとき、慎重になりすぎてチームとの関係が悪化したと話していましたね。今回のテーマ選定でも、同じことが起きていると思いませんか?」
玲奈は目を見開いた。
「……確かに。」
「大切なのは、最初から完璧な選択をすることではなく、選んだ道をどう形作っていくかです。研究テーマも同じで、最初から完璧なものを見つけようとするより、まずは一つ仮決めし、進めながら修正していくことの方が重要です。」
美月の言葉を聞きながら、玲奈は少しずつ理解し始めていた。
「でも、どうしても迷ってしまうときは、どうすればいいですか?」
美月は少し考え、玲奈に新たな視点を提案した。
「玲奈さん、もし今、自分ではなく誰か別の人が同じ悩みを抱えていたとしたら、どうアドバイスしますか?」
玲奈は驚いたような表情を浮かべた。
「えっ、誰かに……?」
「そうです。例えば、後輩が『研究テーマを決められなくて困っています』と相談してきたら、玲奈さんはどう答えますか?」
玲奈はしばらく考え込んだ後、小さく息を吐いた。
「……たぶん、まずは関心のある分野から仮決めして、とりあえず進めてみればいいって言うと思います。」
「それが正解です。」
美月は微笑んだ。
「玲奈さんも、まさにそのプロセスを踏むべきなのです。」
玲奈は自分の思考のパターンに気づき、軽く笑った。
「なるほど……。人には簡単にアドバイスできるのに、自分のことになると急に完璧を求めてしまうんですね。」
「そうなんです。完璧主義が強い人ほど、自分には厳しくなりがちです。」
美月は続けた。
「では、新しい課題を設定しましょう。次回までに、仮決めでも構いませんので、テーマを一つ選び、その方向で簡単なリサーチを進めてください。その過程で違和感があれば、修正すればいいのです。」
玲奈は深く頷いた。
「分かりました。まずは一つ、決めてみます。」
彼女の表情には、少しだけ晴れやかな色が戻っていた。
美月は静かにコーヒーを飲みながら、玲奈が次の一歩を踏み出すのを見守っていた。