第1話「霧の中の迷い人」
都内の高級ホテルラウンジ。午後の光が柔らかく差し込み、テーブルには白いカップと銀のスプーンが静かに置かれている。落ち着いた空間の中で、香坂美月はコーヒーをゆっくりと口に運びながら、目の前の女性の表情を観察していた。
若松玲奈、31歳。MBA取得を目指す大学院生。整った顔立ちに洗練された服装だが、その目には明らかな疲れと焦燥の色が浮かんでいた。彼女はテーブルに両手を組み、指先を落ち着きなく動かしている。
「はじめまして、香坂美月です。今日はお越しいただきありがとうございます。」
美月は穏やかな声で話しかけた。玲奈は軽く頭を下げ、ぎこちない笑みを浮かべた。
「若松玲奈です。本日はよろしくお願いします。」
玲奈の声には緊張が滲んでいた。美月はコーヒーを置き、静かに問いかける。
「さっそくですが、今日お話を聞かせていただく理由について、改めて教えていただけますか?」
玲奈は小さく息を吐き、目線をテーブルの上に落とした。
「……修士論文のテーマが、まったく決められないんです。」
彼女の声には、焦りと苛立ちが入り混じっていた。
「もう何ヶ月も考えているのに、何一つ前に進められなくて。周りの同期はどんどん研究を進めていて、教授からのフィードバックも受けています。でも私は、テーマすら決められなくて……。」
玲奈の言葉が詰まる。美月は静かに頷いた。
「テーマが決まらないことが、玲奈さんにとってどのように影響していますか?」
玲奈は小さく肩をすくめ、唇を噛んだ。
「焦りが募って、夜も眠れないんです。考えすぎて、ベッドに入ってもずっと頭の中で堂々巡りして……。最近は睡眠薬を飲まないと眠れなくなってしまいました。」
彼女はぎこちなく笑ったが、その目には苦しさが滲んでいた。
「テーマが決まらないことで、一番辛いと感じることは何でしょう?」
美月の静かな問いかけに、玲奈はため息をついた。
「……自分が無能に思えてしまうことです。」
美月は微笑みを保ちつつ、玲奈の言葉の裏側にある感情を探るように目を細めた。
「無能だと感じるのは、どんな瞬間でしょう?」
玲奈はしばし考え込み、やがて静かに語り始めた。
「私は昔から、常に結果を出すことを求められてきました。学生時代も、会社員時代も。だから今回も、完璧なテーマを決めなきゃいけない、そう思っているんです。でも、それが見つからない。」
彼女は唇を噛み締め、続けた。
「私、完璧主義なんです。だから、一度決めたら絶対に失敗できないと思ってしまう。もし間違ったテーマを選んでしまったら、研究が行き詰まり、失敗するんじゃないかって……。」
玲奈の声が震えた。その表情から、彼女がいかにこの問題に苦しんでいるかが伝わってくる。
「玲奈さん、その恐れの根底には、過去の経験が関係しているかもしれません。何か思い当たることはありますか?」
美月の問いに、玲奈は視線を落とした。
「……数年前、会社でプロジェクトリーダーを任されたことがありました。」
過去を思い出すように、玲奈はゆっくりと言葉を選んだ。
「最初はやる気に満ちていました。でも、完璧に進めようとするあまり、チームメンバーを細かく管理しすぎてしまって……。その結果、みんなの士気が下がり、プロジェクトは失敗しました。」
彼女は手をぎゅっと握りしめた。
「あのとき、上司から『君は慎重すぎる。もっと周りを信頼しろ』と言われました。でも、私は失敗が怖くて、誰かに任せることができなかった。」
玲奈は静かに息を吐いた。
「それ以来、何をするにも慎重になりすぎてしまって、決断ができなくなったんです。」
美月はゆっくりと頷いた。
「過去の失敗が、玲奈さんを慎重にさせているのですね。でも、玲奈さんはその経験から何を学びましたか?」
玲奈は驚いたように美月を見つめた。
「……学んだこと、ですか?」
「はい。失敗は痛みを伴いますが、そこから得た気づきもあるはずです。」
玲奈はしばし考え込み、やがて静かに言った。
「私は……チームワークの大切さを知りました。完璧な計画を立てることよりも、メンバーとの信頼関係を築くことの方が大事だったと気づきました。」
美月は微笑んだ。
「その気づき、とても大切ですね。玲奈さん、その経験を活かせる研究テーマを考えてみませんか?」
玲奈は目を見開いた。
「研究テーマに、ですか?」
「はい。例えば、『若手社員のモチベーションを高めるコミュニケーション戦略』というテーマはどうでしょう?玲奈さんの経験と直結していて、実践的な研究にもなります。」
玲奈の目に、かすかな希望の光が宿った。
「確かに、それなら自分の経験を活かせるかもしれません。」
「そうですね。それでは、次回までに文献調査を進めてみましょう。少なくとも10本の論文を読んで、自分が最も関心を持てる研究領域を整理してください。」
美月は穏やかに続けた。
「完璧な決断をする必要はありません。まずは動き出してみましょう。」
玲奈は深く頷いた。
「……分かりました。やってみます。」
ラウンジの静寂の中、玲奈の顔には少しだけ、迷いが晴れたような表情が浮かんでいた。美月はその様子を静かに見守りながら、彼女の歩みを信じていた。
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